第94回 聚楽第跡で生まれた大物 

             *          *
粟津征二郎氏の最新作が「学研」より発売されます。
「慈悲の人」 蛍山禅師を歩く
道元の禅風を受け嗣ぎつつ、曹洞宗の民衆化路線を指揮した蛍山禅師とはどのような人だったのか?
        
  (粟津氏談) 蛍山は道元の下で隠れた存在ですが、優れた思想家であり又マネージメントの才能も高い名僧だった。
          *          *
     京の色街で人気は太くて立派な堀川ゴボウ

   野菜の産地ブランドが当節の人気である。昔は地元でしか野菜は流通しなかった。昨今は海外を含めて各地から消費地に流れ込む。そこで有機栽培のブランド野菜 が登場して、安心と味を売り物にするようになる。値も高い。魚の産地ブランドとあわせて京野菜が産地ブランドとして話題になるのは、80年代。京都は精進 料理の具として野菜が栽培され、開発されてきた歴史がある。前回の鹿ケ谷カボチャをはじめ、加茂ナス、エビイモ、水菜、九条ネギ、大根類、蕪など多種にわ たる。行政が保護を目的にした伝統野菜に34品種を指定して京都市内の左京、北区な どで栽培されていた。野菜売りのおばちゃんがリヤカーで町を歩いていた。その野菜が全国区になり、料理屋の売り物になっていく。京野菜の中で異色は堀川ご ぼうだ。堀川という産地はもはやなく、昔の名前で呼ばれているにすぎないが、他のごぼうとは形が違うから一目でわかる。ごつごつとして、太くて立派であ る。
          
  「堀川ごぼうは立派どすな。それに太い」
  「まあ、そんなこと」
  「ごんぼの話ですえ」
   京女の小話にでてくるような色、形をしている。太平洋でごぼう洗うなど、なにかの例えとは大きな違いがある。おせち料理では煮しめの堀川ごぼうに子孫繁栄 を託して家族で食べる。もともとゴボウは精力剤の効用がいわれ、祇園など色街は縁起ものとして人気があり、ごぼうでも別格の珍品にランクされている。値段 も普通のごぼうの10倍はし、数そろえるのに苦労するほどだ。
  年輩の京都人なら名前は知っていても、若者はまず知らない。堀川ゴボウは品種でなく、その育ちによってできた、大物である。堀川ゴボウの故郷は京都の堀 川、聚楽第跡の地域になる。聚楽第は二条城北西の平安京大内裏跡に秀吉が建てた城郭風の邸宅。甥の秀次が住むも追放され、秀吉の命で壊された。現朱雀町神泉苑町のあたりにあった。聚楽第ゆかりの建物としては西本願寺の国宝飛雲閣大徳寺の唐門の名があがる。取り壊された跡地に残った堀がゴミ捨て場にな り、やがて近くの農家がゴボウを植えたところ年を越して大きなごぼうに育ったというのが堀川ごぼうの始まりである。
  堀のごみだめの立地で年を越し、ゴミの液汁で直系10センチ、長さ1メートルのお化けごぼうになった。ゴボウは平安期に薬草として中国から伝来するも食用になったのは江戸期。
  堀川ゴボウは食用の初期になるだろう。ビタミン、ミネラルを含み、利尿や発汗、血液浄化の効用があり、種は解毒剤に用いられている。ただ根を食べるのは日本と朝鮮半島に限られ、堀川ゴボウの太さが食欲をそそったのかもしれない。 
  ゴボウには江戸育ちの滝野川ゴボウと大浦ゴボウ、葉ゴボウなどがる。関東はローム層の地質から水はけがよく、根の深いゴボウの産地になっている。関西は粘土 質の土地柄から根の浅いか葉ゴボウが栽培されてきた。ごぼうは普通、春に種まき、5月から6月に葉が茂り、夏に収穫する。ところが堀川ごぼうの栽培はいっ たん収穫した滝野川系のゴボウを6月に二度植えして大きくする。昔の堀川育ちに習っての栽培だ。このため手間がかかるが、需要はあるから江戸時代には堀川 周辺のほか鞍馬、鴨川周辺、岡崎、聖護院でつくられ、現在は左京区の一部、丹後などで栽培されている。
  もう30年前になるが左京区一乗寺の栽培農家を取材したことがある。梅雨の前だ。
          
  白川通のそばの畑でゴボウの葉を10センチほどに切り、長さ60センチ、太さ2センチの根の部分を横に寝かして植えつける。15度から20度の角度で横に寝かして定植す る。梅雨明けまでに終え、しきわらを厚くして夏の乾燥に備える。ゴボウは連作をきらうので一度、栽培した畑は3年前後休ませるため、広い土地が必要だ。一 乗寺の一等地を占拠する堀川ゴボウは、野菜の王様である。京都市内ではますます栽培が難しくなり、郊外から丹後へ畑は移り、堀川の生地から離れていくが、丹後産であっても堀川ゴボウの名称をつかっている。生産者も消費者も了解事項だ。
  8月になると、アザミの花に似た花をつける。この種が薬用になるが、野菜とは思えぬ趣きがあり、料理屋などは一輪挿しで季節の味わいをかもし出し、「ほうゴボウの花か」という客がいれば、たちどころに店の応対は一変すること間違いない。
          
  10月中旬から11月にかけて収穫するが、2千本植えて4分の3は出荷できる。京都以外の九州あたりから大量注文もあるが、数に限りがあるため、かろうじて地元と大阪の中央市場に出している。一般家庭では手にはいりにくい。錦あたりの店に並ぶぐらいだ。
  特に東京の料理店では板場が素材にこだわり、若狭の魚に京野菜をそろえるようになり、ますます、品薄になっている。板場にとって珍味である堀川ゴボウの料理は、技術の証明とともに宣伝にもなるからだ。
  ゴボウ料理は刻んで食べるキンピラが定番であるが、堀川ゴボウは皮を食べる。というのも、太った根は真ん中にスが入り、穴あきになる。ゴボウはアクが強いが堀川ゴボウはそれに輪をかけている。
  アク抜きには米ぬかかとぎ汁でまる1日湯がく。水洗いして再びゆで、さらに昆布、カツオのだし汁で煮込むが、3日から4日かけての下準備を要し、手間とコストを考えると、料理屋以外では採算がとれない。
          
  煮詰めるさい、ゴボウの風味を失わないよう火をなんども止めて、煮る繰り返しのうえ、薄い出汁でゆっくり煮ていくのがコツ。板場は「コツをつかむまでの年期 と、辛抱強さが秘訣」というが、教える側も学ぶ側も余裕がないとできないのが京料理の奥深さである。炊きあがったゴボウを輪切りにしてエビ、トリのミンチ をのせ、薄いくずのとろみだしをかけると、煮き合わせができる。
          
  ベテランの板場は、盛り付けた煮きあわせをながめ、しばし感慨にふけることがしばしばだ。それほど手間をかけた京料理の味わい。料理は舌であじわうものであ るが、栽培から料理までの過程を頭に入れて食べると、味が一段と深くなる。頭で料理を味わうのも京料理といえる。近頃は講釈が勝って、料理はがくんと落ち る京料理の落とし穴が増えてきた。頭はごまかされやすい。
  堀川ゴボウに似たゴボウに千葉県八日市場の大浦ゴボウがある。成田山の精進料理の具材で、太くて中心部が空洞になり、輪切りして詰め物にする料理法は堀川ゴ ボウと変わりはない。平安期からの説も地元にあるが、根を食するのが江戸期以降のためあやしい。そもそもは農家がゴミ捨て場で太いゴボウを発見し、成田山 に奉納したことが始まりで、以来、数軒の農家が栽培している。
  堀川ゴボウの生地を歩く。二条城の堀沿いに北へ行く。都心の住宅街が形成され、聚楽第跡の面影もない。平安京時代は神泉苑と呼ばれた庭園池があった。天皇が 舟を浮かべて遊び、歌を詠んだ。徳川家康は二条城を築くにあたって池を埋め立て、現在、池の一部が残っているにすぎない。聚楽第は二条城の北にあった。秀 吉が関白・太政大臣になった天正14年(1588)に工事が始まり、堀の内部には五層の天守閣など豪華絢爛の屋形が軒を連ねていた。秀吉の政務を司る役所 として建設され、天正16年には後陽天皇を招き、天下統一と権力を誇示した。堀の外には諸大名の屋敷が並んでいた。ところが秀次に関白の座を譲った4年後 の文禄4年(1595)、秀次を謀反の罪で自刃に追い込み、建物を伏見城と周辺に移してしまう。
          
  わずか10年で廃墟になった跡地からはいまも金箔の瓦が出土して往時をしのばせるが、堀川ゴボウは堀育ちの聚楽第末裔である。これほど生まれた時期がはっき りした野菜も珍しい。江戸育ちの品種を京風に仕立てなおして食するところは面白い。栄華を継承する誇りは、調理する京の板場に受け継がれているのだろう。
          *          *