第93回 新緑の京の山歩き町歩き 〜大文字山紀行〜

粟津征二郎氏の最新作が「学研」より発売されます。
「慈悲の人」 蛍山禅師を歩く
道元の禅風を受け嗣ぎつつ、曹洞宗の民衆化路線を指揮した蛍山禅師とはどのような人だったのか?
        
  (粟津氏談)
  蛍山は道元の下で隠れた存在ですが、優れた思想家であり又マネージメントの才能も高い名僧だった。
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          新緑の京の山歩き町歩き 〜大文字山紀行〜
  花が終わり、山が萌えている。山歩きと町歩きがセットで楽しめるところといえば京都をおいてないだろう。麓の道筋には歴史を講釈する石ころがごろごろしている。民家の塀越しの夏ミカンまでがいわくありげだ。京で山と町を 味わえるルートは東山。眺望なら大文字山。そこで鹿ケ谷から大文字山行にでかける。市バス停真如堂前から鹿ケ谷へは坂になっている。朝夕の通学時はノート ルダム女学院の高校生らが列をつくり、なかなか見ごたえがある。昼前の界隈は人通りも少ない。霊鑑寺の山門に続く築地塀が坂道にのびている。霊鑑寺は江戸 時代、後水尾天皇の娘、多利宮が開基の尼門跡。谷の御所と呼ばれ、椿の名所である。普段は一般に公開していないため、知る人ぞ知る寺だ。この寺の南に『此 奥俊寛山荘跡』の石標がたっている。
          
  霊鑑寺から北、哲学の道を一筋山際にあるのが安楽寺法然の念仏道場・鹿ケ谷草庵の後身の寺であるから歴史は古い。この寺の山門にいたる参道はいつ見てもい い。新緑のもみじが映えている。隠れ道の俗称があるが、名にふさわしい隠れ寺である。通常は公開していないが、門前の眺めで充分満足できる。この寺がにぎ わうのが7月25日。この日はカボチャ供養の日にあたり、中風封じの年輩者が列をつくる。その日、食べるのが鹿ケ谷カボチャ。江戸時代の住職は夢で近くの 畑のカボチャが中風に効くと告げられたのがはじまりとか。京都ではカボチャはおかぼといい、京女の「おかぼさん食べはって」の口調は京言葉の中でもとりわ け敬語乱発ながら優しく、美しい。鹿ケ谷カボチャは江戸・文化年間に粟田口(青蓮院あたり)の農家が津軽から種を持ち帰り、鹿ケ谷農家に配り、栽培したの が起源になっている。形がひょうたんに似て、甘み少なく、煮崩れしないことから煮物に好まれた。いまは特産そ菜保存園で栽培されるほか京野菜ブームで綾部 地方が産地になっている。
           安楽寺
           鹿ケ谷カボチャ
町歩きはここまで。道は如意越といい、大津へ抜ける古道に戻ってきた。やがて谷にはいる。平家物語で有名な談合谷である。
    ―東山のふもと、鹿(しし)の谷といふところ後ろは三井寺に続いてゆゆしき城郭ありける。それに俊寛僧都の山荘あり。かれに常は寄り合ひ平家滅ぼさんずるはかりごとめぐらしけるー
  俊寛は法勝寺の執行の地位にあった。法勝寺は白河天皇勅願寺で岡崎(現京都会館周辺)の八角形九重塔は当時の都一の規模を誇った。安元3年(1177)6 月、俊寛後白河法皇の近臣になり、山荘で平家討伐の謀議を繰り返すうち、発覚して薩摩鬼界が島へ流された。平家が擁立する高倉天皇と、反平家の後白河法 皇の対立に巻き込まれたという説もあるが、後白河側近の俊寛が人目しのぶ山荘での集りは、法皇の意を受けた談合とみなされてもしかたなかった。
  谷に俊寛の顕彰碑がたっている。かたわらには楼門の滝が流れ、岡崎が森と畑の時代に、ここまで来て談合もないと思うが、山奥での寄り合いはやはりきな臭いものがある。
  谷から先は山深く、すぐ下は京の町とはとても思えない。コナラ、アベマキの林を抜ける。鹿の糞らしきものが散乱していて、野生の臭いがする。大文字山と山科・三井寺への別れに着く。三井寺までは1時間半、大文字山は40分の道だ。
          
  大文字山頂は見通しがよくない。雑木が茂り、虫も多い。標高465・5㍍の三等三角点の石標があり、そばには国土地理院の菱形基線測NO29点が立ってい る。全国20カ所、80ポイントのうち近畿では和歌山・白浜と京都にしかない。基線測は土地の隆起を計測するもので、京都では花山(山科)、追分、山科浄 水場と大文字山を結び、計測して地震予知に役立てているが、計測に変化はないようだ。
  山頂から西側へくだると、眺望が一気に開かれる。大文字火床である。眼下に京都市内 が広がり、火床の大谷石には遺跡めいた風合いがある。この大の字火床は75からなり、第1画の長さは81㍍、第2画は160メートル、第3画は138メートル。送り火 の割り木は全部で600束、中心部は20束、ほかは3束ずつ燃やす。5月から割り木の積み上げが始まり、真夏の労を分散して備えている。火床は保存会の各 家に割り当てられ、1戸2床を受け持つ。場所は年次交代制で中心部の担当家は緊張するという。
  送り火がいつ頃から始まったのか諸説がある。古くは空海護摩法要説、次に室町時代足利義政が息子義尚の死をいたみ相国寺の学僧横川景三(おうせんけいさ ん)に命じた説、江戸時代には邸宅のあった近衛信尹説がある。室町時代以降、先祖の霊をおくる風習が一般化していくが、平安期の文献にもないところから空 海説は俗説にとどまり、横川説は大文字山の一部が銀閣寺所有であり、足利義政のつながりから『山城名跡誌』にでてくる説得力のある説である。有力なのは、 意外に思う人も多いが、江戸時代の関白近衛信尹説。書に優れ、風流人として慕われた。
  大文字山のある如意ケ岳には父近衛前久の邸宅があり、送り火が行事化して文献に登場するのは江戸期だ。
  信仰の山になり、送り火は毎年、絶やすことなく続いてきた。ただ太平洋戦争の昭和18年から3年間、中止になっている。戦争で人手でなく灯火管制のためだっ た。そこで地元の小学生ら800人が白シャツ姿でのぼり、火床に人文字を描いてラジオ体操した記録が残っている。いわゆる「白い大文字」として戦時下の京で話題になった。
  東京オリンピック前年の昭和38年(1963)、「大」の字だけが点火しなかった。直前の豪雨で薪が濡れたのが理由であったが、点火しないと不幸があるとい う言い伝えがあるため、火床の保存会は青くなった。火床の民家は消し炭を持ち帰り、軒に吊るして魔よけにする風習もあるからだ。
  私が新聞社に入社してすぐの夏、学生たちが懐中電灯で大を描き、京の夜は突然のイルミネーションに驚いた。信仰の山を遊びにするとはけしからん、と学生たち は叩かれた。当時、駆け出し記者だった私などは「いいじゃないか。火をつけたわけでない」と、弁護したが伝統派の批判が大勢だったと覚えている。この騒ぎ は40年後に再現された。阪神タイガースのマジック点灯の2003年9月13日夜である。25人の学生らが「HT」の光を灯して優勝祈願。これには警察 が出動した。阪神は優勝したものの、日本シリーズは負け、翌年は4位になり、「それ見たことか」と酒の肴にされた。かつて琵琶湖疏水完成を祝い、大文字が 臨時点火された歴史がある。送り火は祝いごとにふさわしいと、阪神フアンは考えたのだろう。
  信仰が真っ向から直面したのが3年前、東日本大震災である。震災の松を送り火に燃やして被災者の霊を送る話がもちあがり、実現直前で京都市が待ったをかけた。「放射能の安全性に疑義がある」。保存会も同調した。風評に影響された京都市の対応はまずかった。大文字送り火は敬虔な宗教行事の顔と夏の京観光のドル箱のふたつの顔を持っており、二股かけているのが京都市である。観光への影響を気にした安全性うんぬんはいいわけにすぎない。風評を打ち破る伝統の火こそ、みんなが待ちのぞんでいた。
          
  火床は京都の歴史とともに歩んできた。大文字にまつわる出来事が思い浮かび、火床を離れづらかった。帰りは銀閣寺道へ降りた。歩きやすい。登山客ともすれ違う。
  疎水べりの銀閣寺道を白川通向けて歩く。このあたりで食べるものはラーメン。いわゆる銀閣寺ラーメンが産声をあげた。ものの本を開くと京のラーメンは戦後間 もなく、京都駅前で中国人の徐永俤が屋台ではじめ、現在の新福菜館につながった。当時はラーメンでなく中華ソバが呼称で、年輩者は支那ソバと呼んだ。私が 駅担当の頃、「ルーツはおきんたまのおっちゃんの屋台」と、聞いたことがある。男の玉が腫れていたというから脱腸だったかもしれない。もうひとつのルーツは銀閣寺。京都大学学生を相手の屋台である。こちらは中華ソバの流れを組む醤油味。透明感のあるスープの上に油が浮くだけでさっぱりした味だった。それが 若いもの向けに濃厚味になっていく。大学紛争の頃には油をどさっと入れたラーメンが登場する。「ますたに」の味付けだ。銀閣寺道を西へ少し歩いた露地奥に 店がある。豚の背油を散らしたラーメンは学生街の人気モノになった。
          
  私の好みはトンコツスープであるが、京都では数少ない。中京区の白味噌ととんこつ味のラーメン店には昼によく通った。九州と京都の折衷の味に惹かれたこともあるが、実にさっぱりしてきざみ紅しょうがアクセントになっている。
  中華ソバがラーメンになるきっかけは即席チキンラーメン発売。私の学生時代はラーメンといえば即席ラーメン、冬の夜、下宿でごそごそ作って食べた味わいは『神田川』の歌の世界である。東京ではラーメンよりもタンメンのほうを良く食べた記憶がある。
  「ますたに」にはかつての紛争OBたちが来るらしいが、青春の味をすすりつつ、濃厚スープの味がこんなに濃いかったかな、と、老いを意識して去る後ろ姿に声をかけたくなる。
  「あなたたちは紛争の頃、勇敢で臆病だった。時おり見せるやさしさに共感を覚えるも声をかけるのをためらった」
  石が道路に飛び交った70安保年代から40年余。アメリカ大統領が寿司店に招待される歳月の移り変わりは、早いものがある。

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