第90回 W・M・ヴォーリズを歩く

    〜海を越え、青春が結んだ西洋建築と心〜

  今年は明治、大正、昭和の日本に西洋建築の粋を築いたウイリアムヴォーリズの没後50年である。青い目の近江商人の別名があるがごとくヴォーリズは滋賀 県近江八幡市を拠点に数多くの建築を残した。またメンソレータム事業を展開、事業家としても活躍するが、なによりもキリスト教精神にあふれた社会福祉、教 育分野における功績は顕著なものがある。
  いまから110年前の1905年(明治38)2月2日、一人のアメリカ青年が八幡駅のフォームに汽車から降りた。青年は前夜10時、新橋駅を発ち、17時 間の汽車の旅を終えた。アメリカ・サンフランシスコ港を出て22日後である。ウイリアム・メレル・ヴォーリズ25歳。当時のアメリカ人で八幡の名前を知る ものはまずいない。アメリカからみれば辺境の地である。当時の汽車は英国から輸入の5300形。東海道線開通して20年しか経過していない。
          
  この年の1月、日露戦争が勃発、夏目漱石ホトトギスに『我輩は猫である』を連載している。ヴォーリズ八幡商業高校の英語教師として赴任したのだった。八 幡は秀吉の甥、豊臣秀次の城下町で知られ、織田信長の安土は隣りの町というか、安土城が焼けた後、安土城下を移してできたのが八幡。安土には信長時代、フ ロイス、オルガノら宣教師が住み、オルガンの音を響かせた歴史がある。八幡は秀次が秀吉により切腹命じられ、廃城になった後、武士や町民が商いの旅にでか け、各地で成功した近江商人の故郷だ。
  江 戸時代、財政逼迫の諸藩は近江商人から借金してしのぎ、八幡の梅村家は金沢、福井、鳥羽など雄藩に数十万両を貸し付けていた。他の商人も同様で江戸幕府の 経済を動かしていた。この貸し付けが維新でチャラになり、多くの近江商人が消え、明治になると、大阪を中心に企業経営に転進していく。幕末の近江商人は横 浜開港とともに貿易、金融業で成功し、莫大な富を築いた。アメリ南北戦争が綿花の価格に影響することを予想するなど情報重視の商いだった。八幡商業は丁 稚奉公の時代が終わり、企業経済を担う近江商人養成学校といえるだろう。
  八 幡商業はこんな時代背景の下、近江商人の後押しで創設の旧制中学にあたり、世界へ飛び出す生徒を送り出す教育を校是にしていた。繊維商いから商社『伊藤 忠』をつくりあげた伊藤忠兵衛はヴォーリズ赴任の前年に卒業している。当時の在校生の3分の1が渡米を夢見たというから現代の国際化などは驚くに当たらな い。
          
  明治40年にできた校歌(土井晩翠作詞)は1番の最後は♪邦と民との富の道―と、締めくくり、圧巻は3番である
  ♪印度の珠玉アラビアの 香も集めん南洋の 珊瑚琥珀も欧の西 送らん道や幾万里 潮とともに舟を駆る 貿易風の名もよしや
  日本の高校でこんな校歌を持つ学校を寡聞にして知らない。ヴォリーズはアメリカで八幡商業の英語教師の求人を知った。ここで来日までを振り返ってみたい。
  ヴォリーズはカンザス州レブンワースで生まれた。敬虔なピュリタンの両親の下で育ち、少年期にロッキー山脈の麓、フラグスタッフに転居。自然に恵まれた高原の 町で音楽、宗教と深く接し、開拓精神を育んだ。日本で琵琶湖畔、軽井沢の風景を好んだ理由もフラグスッタッフの自然と共通するものがあったのだろう。 1900年、コロラド大学に入学する。学生YMCA活動に取り組み、海外伝道活動を志願した。ヴォーリズは当初、マサチューセッツ工科大で建築を学ぶべく 転入許可を得ていた。しかし、伝道こそが我が進む道と思うようになり、チャンスを待っていたところに日本からの教師募集に出会った。
  一枚の求人募集の紙が青年の人生を変えたというか、道を拓いた。八幡駅でヴォリーズは「とうとう来てしまった」という感慨を持った。日本語もわからないまま 赴任した青年は、着任して5日後、自宅で45人に聖書を教え、その年の秋には日本初の旧制中学における学生YMCAが創立された。言葉の壁を乗り越えた若 者たち。大人たちは次第に警戒し、やがて真宗が強固な地盤の地域であつれきを生む。それでも生徒たちのキリスト教への傾斜をとめることはできなかった。
  学校は地域からの要望でヴォーリズを解雇した。英語教師は2年で終わるが、ここからがヴォーリズの開拓精神あふれる日々の始まりになった。解雇される直前、 彼は米国からの寄付で八幡YMCA会館を建設する。最初の設計の建築は明治40年2月に完成した。住いと集会場、さらに学生の寮を兼ね、活動の拠点にな る。八幡商業滋賀県内だけでなく、京都、大阪など関西を中心に学生が入学、多くは寮生活をしていた。解雇は会館完成の1ケ月後の3月。普通なら、解雇さ れて、八幡を去るか、アメリカへ帰るところであるが、ヴォーリズは違った。八幡の町に根を下ろした。八幡商業の教え子たちが活動を支援、この中にはヴォー リズの事業パトーナーになった吉田悦蔵らがいた。吉田は兵庫から入学、卒業後、三井物産に勤めるが、1年で辞め、ヴォーリズの事業に参画し、同じ卒業生の 村田幸一郎とともに多岐に渡った事業を築いた。
  ヴォーリズ建築は全国に広がるが、近江八幡は地元とあって足跡をたどるに事欠かない。八幡城下は琵琶湖に通じる運河の八幡掘を境に北が武士屋敷、南が町家に分れ ていた。現存の近江商人の家は八幡掘周辺に豪壮な蔵を連ね、映画、TVで舟で往来する江戸の町のロケ地になっている。町家というと、京都がひきあいにされ るが、もはや京都の町家は点在でしかなく、町並みでは近江八幡の方が整っている。ヴォーリズ建築はこの古い町並みに調和したモダンな空間を描き、溶け合 う。京都は洋風と和風建築が調和ではなく並立している町だ。仮にヴォーリズの個人住宅が京都のペンシルビルの並ぶ中京あたりの町家域にあったとすれば、京 都はもっとシックな趣きがあっただろう。
  近江八幡ヴォーリズ建築は記念館、病院、郵便局、個人住宅、集会所、学校などざっと数えても28件が現存している。
  八幡掘の南側にヴォーリズ記念像が立ち、そばにメンタムで知られた近江兄弟社メンターム本社がある。創業者はむろん、ヴォーリズだ。会社と建築事務所経営の二股でスタートした事業はキリスト教伝道を柱に順調な歩みを見せた。
  ヴォーリズにとって大きな転機は後に妻となる一柳満喜子との出会いである。一柳家播州小野の大名の家系で、明治維新で父末徳は子爵。娘の満喜子はお茶の水高女 から神戸女学院音楽部に学び、8年間のアメリカ留学をしていた。満喜子の兄恵三は銀行、大同生命など経営する廣岡家の婿養子になり、事業家の道を進んでい た。廣岡家の設計を任されたヴォーリズはそこで満喜子と知り合い結婚した。ヴォーリズ39歳、満喜子35歳。この結婚で在阪の財閥と縁戚となり、子爵の娘 を妻にしたアメリカ青年は、知り合いのない日本で市民権どころか有力な後援者を得たことになる。
          
  満喜子はアメリカで専攻の幼児教育を受け持ち、幼稚園から始まり、戦後は近江兄弟社学園に発展、保育園、幼稚園、小学校、中学、高校を併設した個性のある ミッション系に育てた。社会福祉・医療にも取り組み、近江療育院を開設した。水郷を見下ろす高台にある跡地は記念病院になり、総合病院として地域医療のほ かに、ホスピスの分野でも評判が高い。病院の雰囲気はヴォーリズ時代が漂い、満喜子の方針の家族的医療を受け継いでいる。
  二人の住いは記念館として公開されているが、簡素な造りに見学者はまず驚く。数々の別荘、住宅を建て、事業家として成功した夫妻の家は設計した住宅並みかそ れ以上の家を想像するが、外観、内部とも凝ったとところはなく、シンプルそのものである。二人の思想というか、ピュリタリニズムが木造の建物に凝縮されて いる気がする
          
  学生時代に西洋思想史の講義でマックスウエバーの『プロテスタンテイズムと資本主義』でレポートを書いた記憶がある。書いたというよりも写したというのが正 確だ。ヴォーリズの足跡をたどるうち、ウエバーの「人間は神の恩恵によって与えられた財貨の管理者にすぎない」の言葉が甦ってきた。死ぬときは財貨を子孫 に残さず神の下に返すという気風は、ヴォーリズに受け継がれている。古き良き時代のアメリカが発展してきた理由は勤勉の精神と合理主義のプロテスタンテイ ズム。そういえば近江商人もまた敬虔な真宗門徒で知られ、勤勉、禁欲主義的な生き方の土壌は近江八幡にもあった。当時の若者がヴォーリズを受け入れた理由 を人間と風土から考えると、実に興味深い。
  ヴォーリズ建築事務所は各地の建築設計を手がけた。その代表例が阪急宝塚線沿いの関西学院神戸女学院キャンパス。阪急甲東園駅を降りて徒歩で20分のところに 関学キャンパスがある。甲山をバックにした校舎は赤い瓦と白い壁のスパニッシュスタイル。まわりの環境に合った空間、デザインとも傑出している。同じ沿線 の神戸女学院は駅から坂道をのぼるアプローチ、さらに校舎もまたヴォーリズ建築の代表作だ。六甲山系の阪急沿線はヴォーリズ建築が良く似合う。
          
  アメリカ人とスペイン建築の組み合わせは、異な感じがあるが、アメリカの歴史はスペイン人の入植で始まると、いわれ、メキシコやカリフォルニア沿岸にはスペ インが進出、16世紀から19世紀半ばまで支配下にあり、スパニッシュはカリフォルニアのローカルな建築として定着していた。ヴォーリズ建築は阪急、阪神 電車沿線のほかに、九州は長崎・活水女学院、福岡・西南学院、熊本・九州女学院、久留米・ルーテル教会があり、東京では明治学院、松方正熊邸(元麻布)、 本郷の文化アパートメント・ハウス、朝吹常吉邸(東芝高輪クラブ)、山の上ホテル、現スイス大使舘(渋谷松涛)などがあ。さらにヴォーリズが好んだ軽井沢 には事務所を置いて、山荘、別荘の設計にあたった。
  ヴォーリズと京都は縁が深い。私のかつての勤め先である京都新聞社の北、烏丸丸太町には、煉瓦塀の下村正太郎邸がある。大丸のオーナーの居宅。烏丸通に面し、向 かいは御所で、木が覆い、全景は隠れているが、ヴォーリズ建築では珍しい英国様式である。これは英国通の下村の意向に沿い、当時流行したチュダー様式の昭 和初期の作。記者時代、ここを借りて企画会議をしたことがあるが、すぐ前が烏丸通とは想像もつかない佇まいと静寂に会議よりも家の話で盛り上がり、雑談に 終わった。大丸ヴィラとして展示会を開いていたが、昨今は門戸を閉ざし、ヴォーリズフアンをがっかりさせている。大阪心斎橋の大丸本館もヴォーリズ作品と して定評がある。
  ここから烏丸通を北上すると、同志社大学ヴォーリズ近江八幡に赴任した直後、キャンパスを訪ねている。宣教師の依頼で作詞したのが校歌「ONE PURPOSE、DOSHISHA」である。設計した建物はレンガ造りのアーモスト舘、図書館だった啓明舘が現存している。
  同志社から東の鴨川沿いには北京料理の東華菜舘がヴォーリズ建築であることは意外に知られていない。日本最古のエレベーターで案内される鉄筋建築をわざわざ訪ねる建築関係者は多い。料理の価格も頃合いで安心していける店である。
  ヴォーリズが日本で建築設計にかかわった学校、病院、オフィス、住宅は1400件を越える。建築の専門的教育を受けることなく、いわば独学で古き良きアメリカの 伝統を日本で見事なまでに再現したヴォーリズ建築は、妙ななつかしさを感じさせる。それは、海を渡ってきたアメリカ青年と、共鳴した学生の青春の意気、志 が脈打っているためか、私たちの世代が憧れたアメリカのかたち、精神が込められているためかも知れない。
  近江商人旧宅とヴォーリズ建築の調和する町並みを歩くと、いつも親しみのある目で見守られているようで、温もりがある。それと同時に一人のアメリカ青年との 交流を通じて横浜や長崎などとは異なる国際化を実現したこの町にたたずむと、実に痛快な気分を覚えてくる。それは国の政策と関係なく日米の若者たちが手を 携えた結果だからだ。
  彼は太平洋戦争で日米が戦火を交える前年の昭和16年、満喜子の実家である一柳家に入籍、帰化して一柳米来留と改名した。帰国する米国人とは逆に軽井沢にこ もり、戦中の苦しい時代を耐え、戦後の事業を再開する。やがて視力を失い、近江八幡へ戻ってきた。現記念館の2階の寝室で昭和32年から7年の療養生活を 経て39年、近江の土になった。妻の満喜子は米国の女流作家グレース・フレッチャーの小説モデルになり、アメリカ人に知られ、天皇の家庭教師エリザベス・ ヴァイニング夫人との親しく、夫の死後5年後、近江八幡で他界している。二人は記念病院の東の恒春園に眠る。

 
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