第89回 ふるさととは 北陸の地に犀星と高見順の生地を訪ねて

  旧年になるが、能 登の帰りに金沢を歩いた。晩秋を飛び越し、すでに冬であった。北陸の気候ではさして珍しくもない。兼六園の雪吊りの唐崎松が枝を震わして雪を待っている。 湿った雪は金沢といわず北陸の特徴である。雪吊りは重い雪から木を守る金沢の智恵だ。円錐上に縄を垂らして保護する用と、松に縄が融和する美のかねあいは 絶妙のものがある。
  北陸は対馬海流が 北西の季節風を温め、冬には大量の水蒸気を放出し、これが山にぶつかり、豪雪を見舞う。冬の暗い空は北陸特有のものだ。この冬が漆器、製糸、織物に適し、 豊富な水は酒、菓子、染めなどの特産を生んできた。幕末の思想家吉田松陰は「人事をしるには地理を知れ」と、弟子たちに旅を勧め、その中から維新の俊英が 育ったが、人間の気質を気候風土から解説する試みは昔からあり、16世紀の『人国記』は「加賀国の風俗、上下とも爪を隠して身を陰かに持つ」と記してい る。昭和になり、憲兵隊が作成した民情概況には長所として正直、忍耐、信仰心などをあげ、短所には狭量、固陋、他地方人蔑視を指摘している。
  当たらずとも遠からず、的はずれなど受け止めは人様々である。地域をひとくくりにして気質を論ずる無理は承知ながら、地域気質の詮索は、金沢に限らず面白い。金沢は土地に不慣れなものには、方角がつかみにくい。JR金沢駅を降りて、さて、自分はどちらを向いているのか、思案する破目になる。駅正面から向かって左が北、右が南、東に金沢城と頭に地図を描き、城を挟んで左に浅野川、右に犀川を入れると、ほぼ金沢のまちあるきナビができあがる。
           犀川
  私には変な旅の楽しみがある。駅できよろきょろする見知らぬ人間(旅人)を見る地元人の顔をながめることだ。金沢人はよそもんに冷たいというが、この人はいまなにを考えているのか、腹をさぐる。しかし、声でもかけてもらうと、いいところだな、とたちまち高い点がつく。
  京、 金沢にせよ、昔は田舎。鎌倉期までの金沢は越前、能登よりも辺境で、鎌倉幕府派遣の北条氏が治めていた。やがて地元武士の富樫氏が力をつけ、守護の座にす わるが、一向一揆門徒浄土真宗本願寺)に追われ、現金沢城跡に建てた御堂を拠点に寺内町である真宗王国ができた。本願寺支配は織田信長の北陸進出まで 30年余続き、金沢の古五町という後町、南町、西町、堤町、近江町は寺内町の名残りである。
          
  加賀百万石前田家の城下は御堂に手を加え、城郭として完成した。御堂を金沢城と改め、京、江戸、大阪、名古屋に次ぐ大都市が北陸に誕生した。まちづくりでは ふたつの川が核になった。犀川浅野川。金沢の三文豪である泉鏡花室生犀星徳田秋声の三人はそろってふたつの川と縁がある。浅野川大橋西詰めでは鏡 花、秋声が生まれ、犀川大橋西詰めは犀星の生誕地になるからだ。

  ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや
  ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて
  遠きみやこにかへらばや 遠きみやこににかへらばや
 
  この詩は犀星が20代前半の作品で、『抒情小曲集』に収められた1編である。ふるさとといえばまずこの詩をくちずさむ人は多い。
  犀星は明治22年、犀川のそばで生まれた。父は足軽頭であった小畠弥左衛門、母は小畠家の女中ハルの間にできた私生児。生まれてすぐ、生家近くの真言宗雨宝 院住職室生真乗に預けられ、7歳で養子になるが、真乗の妻ハツは犀星をしばしば折檻し、生涯、実の親に会うこともなかった生い立ちがその文学に深い影響を 与えた。13歳で裁判所の給仕になり、ここで上司から俳句の手ほどきを受けた。
  金沢は町人文化の影が薄い。武家文化が幅をきかせている。その中で俳諧加賀藩の町人文化の代表といってもいいだろう。富裕な農民、町民のたしなみであっ た。町や村でグループをつくり、神社に俳諧献額した。その伝統が勤め先の裁判所での出会いになり、俳句から詩へ犀星を導いた。実の親、育ての親からも拒絶 にあった生い立ちは犀星を苦しめるが、それを糧にして創作に没頭した犀星にとって犀川のせせらぎ、風景は安らぎをもたらした。金沢を離れ、東京で暮らすよ うになってもふるさとの風景は、犀星の心に刻まれていた。
  15歳の句。焼き芋の 固きをつつく 火箸かな
          
  冬の犀川は静かに流れている。大橋西詰めに幼児期を過ごした雨宝院がある。そこから200メートルほど北に犀星記念館(3月まで休館)。小説の処女作「幼年時代」 は自伝的小説でハツから受けた心の傷、現代風にいえばダブルバインド(二重束縛)と向き合っている。犀星のすごいところは、後の作品で描かれる弱きもの、 拒絶されたものへ注がれる慈しみ、まなざしと、犀星を生んで行方不明になった実の母への思いである。代表作「杏っ子」を書いたのちに犀星はこう綴ってい る。
          
  「この様な物語を書いている間だけお会いすることができていた。物語を綴るということで生ける母に会えた」
  記念館に私が魅入られた写真があった。犀星と猫。猫好きの犀星が愛猫ジイノと火鉢に手をかざしている。私は若い頃、犀星を読んだことはなく、いわば遅れてきた読者である。
  作品の主人公たちが理想を追いながら、現実から抜けきれない心の葛藤は、年金と健康保険二本差しの旅空の身でもびりびりと響く。猫を相手の犀星がふと思う金 沢の風景は無論、犀川であっただろう。猫はリズムが実にスローなところがある。ジイノの姿は流れるごとく、ゆったりした犀川につながっていた。
  
     美しき川は流れたり
     そのほとりに我は住みぬ
     春は春、なつはなつの
     花つける堤に坐りて
     こまやけき本のなさけと愛をしりぬ
     いまもその川のながれて
     美しき微風とともに
     蒼き波たたへたり       
                「犀川」より

  若い頃の犀星が金沢を離れ、福井県三国の地方紙に勤めたことがある。三国は金沢の西、越前・東尋坊のある港町。九頭竜川の河口は江戸時代には北前船が出入 りする北陸有数の港だった。福井駅から京福電鉄で20分足らずで着く。北前船の頃は廻船業が財をなし、豪商の森田家は銀行(福井銀行)を創業している。古 い町には骨董店の看板が下がり、豪勢な暮らしをしのぶことができる。犀星はわずか1カ月でけんかして金沢に戻っているが、犀星去って間もなく、一人の作 家、のちの高見順がここで生れた。視察に来た県知事の一夜の妻になった母親の町である。幼い子と母親は東京に呼び寄せられ、麻布の邸宅そばの小さな家で生 活するが、父からの手当ては月10円で、親子の生活は苦しかった。
  子どもは近所の好奇の目にさらされて成長する。高見順は当初、出生の経緯からふるさとにいい印象を持っていなかった。東大時代にプロレタリヤ作家に仲間入り し、詩人、作家と認められてからも三国を訪ねていない。ところが49歳のとき、新潮社の企画で三国を取材し、小学校で講演したのがきっかけになり、ふるさ と三国について語りはじめる。
  「あれほどまでに嫌ったふるさととはなんなのか」。わずかしか住んでいない三国の町、海を歩きながら高見順は、しみじみとした気持ちに浸りつつ、これまでのわだかまりが溶けていくのを感じていた。
          高見順の展示館
  非嫡出子という境遇は犀星、順とも似ているが、生まれ育った風景への思いは犀星が若い頃からまっすぐなのに対して、高見順は屈折していた。年齢を重ね、ねじ れを戻してふるさとと向き合った。三国の旅の7年後、高見順はガンに侵され、病床で綴ったのが詩集「死の淵より」であった。この中でふるさとの海が登場す る。
          

               荒磯(ありそ)
  ほの暗い暁の 目覚めはおれに おれの誕生を思わせる 祝福されない誕生を
  おれは荒磯の生まれなのだ おれが生まれた冬の朝 黒い日本海ははげしく荒れていたのだ 怒涛に雪が横なぐりるに吹きつけていたのだ
  おれが死ぬときもきっと どどんどどんととどろく波の音がおれの誕生のときとおなじように おれの枕もとを訪れてくるのだ
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  冬の越前の海は、まさにどどんと押し寄せて、波が岩に砕け散る。高見順ゆかりの海岸には遊歩道がつけられ、詩を刻んだ碑が立っている。
           三国港
  海からの帰りに、漁港へ寄った。三国は夕市である。前夜に出た船が午後に戻り、カニを競りにかける。舞台の上で競り人がカニ箱を次々とさばいていく。ここ での呼称は越前ガニである。いずこも地域ブランドを示すタグをカニにつけ、区別しているが、鳥取と越前の味の違いは皆目わからない。食べ比べするバカな TV局もないが、しいていうなら水揚げして口にはいるまでの時間の違いぐらいしか思いつかない。町の灯りが点々とする通りをすべらないように歩く。北国の 風情満点だ。今夜は町で鍋をつつき、いっぱいやっか。
          

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