第88回 天空の城 兵庫但馬・竹田城址

  〜日本のマチュピチユを歩く〜

  関西でいま話題の観光地は、京都でも奈良でもない。兵庫県朝来(あさご)市にそびえる古城山竹田城址である。夜の明ける前から観光客が訪れ、ついに入場制限までするブームになった。
  春、夏の風景も雄大であるが、晩秋から初冬がこの城址の魅力を山でいえば頂きに運ぶ。雲の中に石垣が頭を出し、さながら海に浮かぶ島のごとき風景を天空に描く。城郭ファンは「日本のマチュピチュ」と呼んだ。
          
  竹田城址は10年前まで知る人ぞ知る、隠れた地。竹田といえば大分の岡城址(竹田)を指し、城の雑誌に出るのもまれだった。いまやこの季節になると、TV に登場しない日がないほどの人気を博している。地元の朝来(あさご)市のまとめた入城者数は平成17年度が1万2千人にすぎなかった。地元民と城郭マニア に限られていた入城者が平成21年度以降、倍倍の数字で増えていく。平成24年度はなんと23万人を記録した。
          
  今年度は40万人超の声がかかり、山里の城址めざして観光客が列をなしている。平日でさえ交通渋滞で身動きとれない日もあり、土日、祝日の夜間、早朝は登山 道の通行規制をし、バスの運行のみにしている。市には竹田城課という担当セクションが生まれ、シーズンは維持管理の名目でひとり300円の入城料を徴収し ている。
          
  早朝から入城の理由は、麓の円山川から朝霧が発生しやすく、眼下に雲海をのぞむことができるためだ。そのために徹夜覚悟で登る観光客も多く、駐車場はいう におよばず、道路まで駐車の車があとを絶たない。確かに、雲海に浮かぶ城を一度、見るなら、もう一度となるのは間違いない。日本海に近い丹後から但馬地方 には朝霧の名所が多く、雲の上に顔をのぞかせる山の風景は写真の図柄になってきた。ところが雲の上の城という幻想的な響きは、人を呼び、魅了した。
          
  12月8日、竹田天空の城へ向けて出発した。車で行くのが便利であっても、ここは鉄道を選び、ローカル線の旅を楽しむ。JR姫路駅から竹田へは播但線が走る。途中までは電化区間、寺前―和田山気動車区間で車両はキハ40系である。車内にはそれらしき観光客が同乗してにぎやかだ。
          
  播但線は明治27年(1894)開通し、2年後に姫路―和田山65・7キロの瀬戸内と日本海を結ぶ鉄道になった。竹田駅は終点和田山のひとつ手前、姫路から 数えて17番目の駅である。この播但線は昭和47年(1972)までSLの走るローカル線で知られ、カメラ手にしたSLフアンがつめかけた。なかでも勾配のきつい生野峠ではC57の3重連が見られ、関西におけるSLの聖地だった。
  さびれる一方の播但線が注目されたのが神戸・淡路大震災。不通の福知山線に代わり、山陰線とつなぐ震災時の物資輸送や乗客の足になった。
          
  竹田駅のある朝来市は豊岡、丹波、福地山(京都府)に隣接、兵庫県のほぼ真ん中に位置している。播磨、但馬、丹波の交通の要衝にあり、戦略的にも重要な地域 にあたる。それに加えて生野銀山の存在が支配者の目にとまり、竹田城築城につながっていく。築城は永亨3年(1431)、但馬守護山名宗全によって始まる という。標高357㍍の山頂を開いた要塞は、播磨守護赤松氏との衝突に備えた山城だった。秀吉の但馬出兵で山名氏は逃亡し、代わって宿敵の龍野城主赤松正秀の息子広秀が城にはいり、総石垣の城に仕上げた。石垣は花崗岩を積み上げ、大きいものでは5トンにもなった。
  ところが堺に逃げた山名氏が信長に取り入り、但馬に復帰するが、この復帰劇の裏にあったのが生野銀山である。銀山の歴史は平安期に遡るといわれているが、文献では室町期に山名祐豊が銀石を発掘、信長の時代になって銀山経営に乗り出し、秀吉、家康の天下になっても政権の財政に寄与した。山名氏が銀山で力をつけることを恐れた徳川幕府は城下の火事の不始末を種に城主を自刃に追い込み、廃城にした。幕府は代官を置いて銀山を支配、竹田城は石垣のみになって明治を迎 えた。佐渡金山、石見銀山とともに日本の三大鉱山として発掘され、昭和48年に廃坑になった。
  竹田駅から山城の郷までバスで行き、ここからは徒歩になる。40分の山道だ。雲海には時間が遅いため、あきらめてのぼっていく。最後に200段の石段があり、この先は待望の天空の城である。南千畳と呼ばれる曲輪(石の囲い)に足を踏み入れると、なんと霧がかすかに垂れ込み、石垣がその上にあるではないか。
          
  南北400メートル、東西100メートルの敷地に石垣が累々と積まれている。いわゆる穴太(あのう)積みと呼ばれ、近江坂本の穴太衆が寺院石垣に用いた工法で、野面積み の別名がある。信長の安土城に採用され、戦国期では石工が各地に出向き、築城した。自然石をそのまま積み上げるが、石の奥に重力がかかる工夫により、石組 みの重さに耐え、排水もよく、堅牢であることが特徴だ。
  竹田城は山頂の天守台を中心にして曲輪が尾根上を段階状に三方へ延びる設計で、要所に櫓台を配置していた。敵が攻めやすい城裏門にあたる搦め手部分には石塁で防御を固めるなど凝った縄張りになっている。但馬、播磨の城に比べて、壮大な石垣は2万石の城とは思えない。城なき後、風雪に耐え、芸術的ともいえる往 時の姿を石垣に残していた。
  そこに雲海が加わり、「天空の城」を演出している。インカ帝国の遺跡を思わせる風景は日本のマチュピチュと評判になり、日本名城100選にはいり、映画のロ ケ、TV放映などをきっかけに爆発的なブ−ムを生んだ。100選の中で城なき石垣の幾何学的美しさでは長州藩の萩城址をあげることができるが、山城でなく、海と堀に囲まれた空間である。竹田に似た城址では沖縄の今帰仁城址、中城(なかぐすく)城がある。中城は14世紀の山城。野面(のずら)積み石垣など 眺望は共通するところはあるものの、南国の空、高さも武田の半分のため、武田の魅力には遠くおよばない。
  竹田城の歴史は築城の経緯など不明なところが多い。徳川期の廃城のいきさつも資料になく、直轄銀山を意図した幕府が大名を置くよりも天領を選んだためのいいがかりに近い。その結果、城をめぐる歴史ロマンが石垣の下に埋もれ、長く忘れられていた。
          
  城址に立って感じるのは、古城に漂う郷愁を風が運んでこないことだ。歴史よりもロケーション、石垣と空、雲が織り成す天空の夢へ誘うロマンだろう。カメラマ ンたちは早朝から円山川対岸の立雲峡にカメラをセットして日の出と、朝霧を待つ。ポイントも駐車場近くの第3展望台から、さらに20分歩く第2、さらに 30分の第1展望台があり、第1からは川隔てた城址を見下ろすことができる。
  朝来市はいま、城址の維持、管理に頭を痛めている。石垣のメンテナンスは入城者増で課題になっている。危険箇所も指摘され、入城料金を史跡保全にあてるなど 取り組みは急を要している。この冬も本丸中心に石垣の工事にかかり、一部出入り禁止の札がかかっている。冬季は凍結などから車は山城の郷までで、そこから は徒歩の山道だ。
  確かに四季の風景は霧がなくても素晴らしい。さらに早朝、深夜の星空も見ごたえがある。1年を通じて訪れる観光客は底を打つ気配もなく、史跡活用の星空の鑑賞、野外劇、コンサートなど天空を翔るアイディアが待たれるところだ。
               *