第87回 路線バスで行く能登は初冬の気配

  〜名物のぶりおこしの雷と丼の食べ比べ〜

  能登禅宗寺に行 く用があり、金沢から奥能登を旅した。5年ぶりの能登。前回は羽咋気多神社民俗学者折口信夫の足跡をたどった。師走の旅だったので心づもりも装備も 充分だったから、空模様の変化にはあわてなかった。今回は11月6日、初日は秋とはいうものの汗ばむほどの快晴だった。ところが翌日の朝、時雨模様がいき なり、雷とともに横なぐりの風雨になり、傘も雨よけどころか邪魔になる能登の初冬に遭遇した。金沢からレンターカーで回れば良かったと、思ったのも後の祭 りで、白波打ち寄せる海岸沿いをバスで行く。このバスの乗り継ぎが一時間に一本ならいいほうで、朝夕を除くと2時間、3時間は来ない。おう、雨が止んだと、喜んでいると、ざっと雨が見舞う。夏の夕立の冬番に近い。屋根はあるものの、雨が吹き込むバス停でびんぼうゆすりしつつ、バスを待つ心境たるや母猫からはぐれ、雨の路傍をなきながら歩く子猫の気持ちである。
          
  能登はひなびた港町のイメージがあるが、かつては金沢よりも能登のほうが開けていた。
  奈良時代から平安期 には国司が置かれた能登国。加賀は越前に属していた。歌人で有名な大友家持は国司として能登を訪れ、能登の風景を歌に詠んだ。余談になるが家持は歌人で あっても中々の策士で、奈良末期から平安初期の中央で要職にあったが、いくつかの政争に関与して左遷、辞職を繰り返している。平安期の能登朝鮮半島の渤 海国の使節が出入りする玄関になり、大使館が置かれていた。
  中央では加賀よりも能登がはるかに重視され、都に近かった。
  バス待ちの間、能登の歴史を振り返り、外浦の荒波の中に浮かぶ渤海使者の船を想像するが、特徴ある板塀の港町は黙して語らずである。
  今回の旅の訪問先は輪島からバスで1時間の門前町。ここに鎌倉末期に曹洞宗総持寺が建立され、永平寺とともに大教団を組織する拠点になった。能登から全国展開の本山が生まれたことは一般には余り知られて いない。総持寺本山は明治に横浜に移り、能登は祖院の位置づけになったが、山門、大祖堂、禅堂など伽藍の威容は輝きを失っていない。
  6年前の能登地震門前町か ら伽藍まで倒壊するも、立ち直り、真新しい木の建物が随所に復活していた。申し込めば坐禅も許され、壁に向かい、道元の教えの「只管打坐」(ただ坐る)、 何も求めない、悟りの欲求もない、坐禅のみの世界に浸ることができる。と、いっても足、腰の痛みはかなりつらい。しかし、なにも感じなくなる時がぽつり、 ぽつりと来て、ああこれだなと、満足するところが俗人なのだろう。
  お 寺参りは終わり、さあ、能登の食彩である。折からの雷はぶりおこし。北西の風で海は時化る。春の産卵に向けてたっぷり栄養を蓄えたブリは時化を避け、外海 から内海へ移動する。そのブリを定置網に誘い込むのがブリ漁である。能登の海は寒流と暖流がぶつかり、行き場を失った海流は内浦にはいり、比重の重い寒流 は水深1000㍍の底に、暖流は上層を流れ、さまざまな魚をともなってくる。魚の宝庫だ。
  11月末ともなると、重さ10キロの見事なブリが揚がり、漁港は活気付く。ブリの刺身はいうにおよばず、ブリ大根、ブリカマ焼きなど地元の食卓にのぼる。 正月用のかぶら寿司の漬け込みは能登、金沢の冬の風物詩である。かぶら寿司は、かぶらにブリの切り身を挟み、麹、塩で漬け込むが、発酵したカブラとブリの 異質な組み合わせが絶妙な味をつくる。正月の酒の肴には、はずせない。ブリでなくサバを使うかぶら寿司もある。サバ独特の味わいに、ブリよりサバという通 人も少なくない。私もその一人である。
          
  能 登の11月はズワイガニの解禁の月だ。マツバガニ、越前ガニ、ここでは加能ガニの名がある。いずれも産地ブランド名だ。能登の場合、舳倉島沖の粘土質の底 が漁場になる。輪島港から3時間の近い海で水揚げした鮮度が自慢である。カニ選びのポイントは甲羅の黒い斑点が目安になる。斑点が多いほどいい。
  輪島の夜、赤ちょうちんを訪ねた。甘エビに吸い付き、ブリ大根、そしてコウバコガニコウバコズワイガニのメスの呼称で、西日本ではセコ、コッペガニと呼んでいる。香箱、甲箱とも書くが、オスガニよりも割安のうえ、甲羅の内の卵の風味がこたえられない。
  隣り会わせた地元の人も「カニコウバコよ」といい、さらに「これも能登の味。食うかね」と、『いしる』の貝焼きを勧めた。『いしる』は秋田の『しょっつ る』、香川の『イカナゴ醤油』とともに日本の三大魚醤。大豆の代わりに海のモノでつくった醤油で、濃厚な旨みは魚にも野菜にも合う能登の生んだ文化遺産と いってもいい。能登には2種類の『いしる』がある。内浦沿岸ではイカを使い、外浦の輪島などはイワシ、サバであり、味、色が違う。
  翌 町、時雨の中、名物朝市に出かける。平安期に神社の祭礼の日、物々交換したのが始まりというから千年の歴史がある。300㍍の通りに200の露店が並び、 「買(こ)うてくだあー」の声がかかる。場所は親子代々、継承され、能登の女たちが水揚げの魚や野菜を売っている。能登の女は働きもの。「亭主のひとりや 二人、養えない女は甲斐性なし」の豪快な言葉がある。能登は亭主楽する「とと楽」の地だ。金沢は「かか楽」。稽古事などを楽しむ女たちを揶揄する言葉であ る。値札の付いた魚もあるが、ないものは交渉次第で安くなる。この掛け合いが輪島の朝を豊かにする。随分、得した気分で袋を提げて歩くうち、猫のまたたび が目にとまり、我が家の猫の土産にした。
  朝市酒場では能登丼、朝定食が並ぶ。昨夜の『いしる』を使ったアジの焼き定食を注文した。700円。うまい。アジ、サバの『いしる』漬けの干物は、家でこたつの「かか楽」に買った。能登の女は働き者を土産話に聞かせてやろう。
          
  朝 市の店では能登の丼メニュがやけに目につく。聞いてみると、能登丼の大会が輪島から内浦の穴水にかけて開催中とか。魚、牛を素材にしたB級グルメ。寿司屋 や割烹でも食べられるのが魅力である。私が旅で丼好きになった理由は値段と味。これさえ食べていれば財布の心配はしなくていいからだ。山間の地ならきつね どん。岐阜の山村で食べたきつねどんは、いまだに忘れることはできない。炊き立てのご飯に油揚げを刻み、ネギをのせ、山椒を振りかけたものであったが、そ の味の素晴らしさは言葉にならない。うまくて安心は旅の食事の必須条件である。
  能登丼は店によって当然、違いがあるが、そこはたかが丼、されど丼で3000円の豪華な海鮮丼から700円クラスまでそろい、アンコウのから揚げ丼、カワハギの肝丼、ブリのたたき丼、輪島塗の椀に甘エビを張り巡らし、中央にブルーの卵をあしらった丼など多彩である。
  輪島塗は市内の工房で展示、販売している。江戸期に隆盛を迎え、北前船で各地に運ばれた。15の工程のうち、塗りは数回以上繰り返し、研いでは塗ることで一生ものの品ができあがる。塗り箸は4千円前後、椀は1万円、蒔絵の屠蘇器は百万円の値がつくが、2代、3代使うことを思えば、うなずける。
          
  朝 市見物しているうち、雨もやんだ。せっかくここまで来て、能登半島の先端、禄剛岬にいかないわけにはいかない。千枚田も見たい。TVの路線バスの旅に誘わ れ、輪島から曽々木までのバスに乗り込む。これが苦難の始まりだった。途中から雨。バスの車窓から見る千枚田は刈り取りもすみ、人もいない。大小1004 枚のたんぼが高低差56㍍の土地に段をつくっている。
  輪 島―曽々木間の海岸線は見ごたえがあった。外海特有の荒波は、岩場で砕け散り、また海へ戻っていく。曽々木の食堂で8種類のネタをのせた能登丼(1575 円)をかきこみ、木の浦行のバスに乗り換えた。木の浦で降り、あわてて狼煙行のバスに飛び乗った。アナログ路線の真骨頂である。狼煙で降りて、内浦の珠洲 方面へ探すと、なんと午後3時までない。天気のいい日なら岬の灯台など見物して時間をつぶせるが、雨の能登は始末に悪い。足元はびしょびしょ。救いはキャ ラバンシューズをはいていたこと。時おり、雨は止み、空は明るくなるが、続かない。ここから佐渡までは金沢へ行く距離とほぼ同じだ。韓国のプサンは、 783キロ。たれ込めた雲が視界をさえぎり、夕方の気配だ。
          
  狼煙は外海と内浦の境界に位置し、禄剛崎灯台からは日本海が一望でき、朝日と夕日の両方が見られる場所で人気がある。もっともこの日はだめだった。道の駅で時間をつぶして、3時のバスで珠洲へ向かうが、乗ったとたんに寝てしまい、終点までなにも見なかった。
          
  まる一日、バスに乗り詰めで腰が帰宅してからも痛く、バス停の夢も見た。というわけでいまも能登の旅が続いている。
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