第58回 松本清張を歩く その2 政治の風景

  清張描く旅の風景に続いて、清張の見た「政治の風景」を書く。ところで清張が作品や評論の場以外で、生の政治にコミットしたことがあった。
  1974年(昭和49)の創価学会日本共産党のいわゆる創共協定である。当時の池田大作会長と宮本顕治委員長の間で結ばれた協定は①互いの自主性を尊重する②共産主義を敵視しない③信教の自由を尊重する④核兵器の全廃とファシズムの防止をめざし、互いの立場で努力するなど7項目になっている。
  清張が仲介者になった。清張は宮本、池田両氏とも文春対談で個人的な知己があった。協定締結から半年後に発表されたのは、読売新聞のスクープのためだ。それまで選挙のたびに創価学会共産党はネガテイブキャンペーンを展開して、組織間の溝は深かった。その両者がいきなり協定締結にいたったから、政界は激震に見舞われた。このスクープの主は現読売新聞会長の渡辺恒雄氏だった。渡辺氏は政治部長の職にあってこのスクープをものにした。普通、幹部は情報を得ても現場にまかせるところ、渡辺氏は自ら取材、執筆した。このあたりは渡辺氏の個性と読売の企業風土だろう。
  渡辺氏は回顧録でたまたま抜かれたことがあり、前から聞いていた協定を他社に先駆けて書いた、と説明しているが、公明党の頭越しに進められたこの協定はなぜか半年も秘密にされていた。公表と同時に、両者の間で協定の解釈で違いが顕著になり、共産党赤旗で「共闘」をアピールするが、創価学会公明党は否定し、なかでも公明党の反発が激しかった。公表からわずかで破綻した協定を考えると、読売スクープの意味は大きい。渡辺氏の人脈からして、協定に危機感を持ったある筋の影が見え隠れする。抜かれた記事の抜き返しなどという説明は額面通りには受け取れない。
  渡辺氏はその後、連立論者になり、政界の合従連衡に動いている。
          
  清張は渡辺氏をモデルにした協定の裏を書いても面白かったと思うのは、私一人ではないだろう。しかし、清張は詳細を語っていない。作家である清張は小説と違い、生の政治の風景について、語ることを控えたのかもしれない。
  旅の風景は小説の世界であったが、政治の風景には戦中、戦後の政治史が題材になった。中でも戦後史の闇、GHQがらみの事件は清張のテーマだった。
  国鉄下山総裁の轢断事件は、朝鮮戦争勃発1年前、青梅事件、三鷹事件松川事件と続いた国鉄関係の事件である。事件は立て続けに起きた。偶然にこれだけの事件が国鉄を舞台に起きることは、まずない。
  黒い霧シリーズは60年安保の年、文藝春秋で1年にわたって連載された。清張51歳。「砂の器」もこの年の春から読売新聞で始まった。清張は1年前、「執筆量の限界を試してみたい」と、執筆にかかり、原稿は口述で清書原稿に加筆する方法で新聞、雑誌に21本を掲載した。年間連載は6本におよび、精力的な創作意欲は翌年にも持ち越された。
  黒い霧シリ−ズの最初が傑作の評価の高い「下山総裁謀殺論」だった。
  清張は黒い霧シリーズに取り組んだ動機についてこう書いている。
  『小説・帝銀事件を書き終えて、思ったのは、調査するうちその背景にGHQのある部門の関与に行き着いた』からだった。清張にとってGHQこそ戦後史の政治の風景にほかならない。帝銀事件の発生当初、警視庁は旧陸軍関係を捜査していたが、途中から方針転換し、北海道の画家に、すべてかぶせて事件の幕を引いた。清張は毒物が普通、いわれている青酸カリでなく、青酸化合物であることに注目する。捜査段階で青酸化合物の解明がないまま裁判になり、判事も入手困難な青酸化合物について触れることなく自白で平沢被告有罪に導いた。この青酸化合物は『旧陸軍特殊研究所からの流出であるため、旧陸軍特殊研究を参考にしていたある組織が表面にでることを恐れた。GHQの壁に捜査は阻まれた』と、推論している。
  清張は自殺、他殺説が交錯した下山事件でもGHQの影を見た。
  下山事件は1949年(昭和24)7月6日午前0時半頃、東京足立区の国鉄常磐線北千住―綾瀬駅間の線路上に轢断死体があるのを通貨列車の乗務員が発見した。警察の調べで前日の朝から失踪していた下山国鉄総裁の死体と断定された。下山氏は前日、自宅を総裁専用車で出た後、千代田銀行本店(三菱銀行)で下車、20分行内(貸金庫)で過ごしたあと午前9時37分、三越本店にはいり、そのまま消息を絶った。三越近くにはGHQの将校宿舎八州(やしま)ホテルがあり、工作員が出入りしていたという。下山氏はGHQの命令で国鉄従業員の大量首切りに直面し、労組との板ばさみで悩み、情緒不安定になっていたのは事実である。
           田端機関区
           下山国鉄総裁追憶碑   
  清張の謀殺論は三越で姿を消したあとの下山氏が轢断死体で発見されるまでの目撃証言と轢断死体の検証をもとに、自殺説のひとつ、ひとつを崩していく手法で他殺、GHQの謀略による死に行き着く。
  警視庁は捜査1課が自殺、捜査2課が他殺で捜査し、検察庁は2課の他殺捜査を支持していた。死体鑑定は東大が死後轢断(他殺説の有力根拠になる)、現場検証の東京都監査医と慶応大学が生体轢断(自殺)だった。ただ慶応は死体を見ていない。マスコミも朝日記者が他殺、毎日が自殺と分かれた。国会の議論で結論を問われた法務省刑事局長が「承知している限りでは他殺説が有力である」と答弁しているが、4カ月後、捜査資料の一部が発表され、自殺説の根拠が並んでいた。1課捜査は結論がでないまま打ち切られ、他殺説で継続捜査した捜査2課は翌年、大幅な人事異動で幕引きになった。
  清張は雑誌に何者かによって持ち込まれた「下山事件報告書」を読み、自殺説の論拠に疑問を持った。警視庁の金庫に保管の重要書類が内部の協力なしに外部にでることは考えられない。さらに発表の時期、死後轢断の東大鑑定の無視、下山氏の衣類についた大量のヌカ油を列車の機械油で片付けるなどが理由であった。
  自殺説の目撃証言に出てくる下山氏の言動は不自然である。特に筆者の私が一番、作為を感じるのは東武伊勢崎線五反野駅改札口で下山氏が改札駅員と会話していた証言である。ここで下山氏がなぜ駅員と会話する必要があったのか。逆に後から下山氏の足跡を追うにあたり、これほど重要な証言はないからだ。この改札口証言から自殺説の有力証言が結ばれる。つまり、下山氏に扮したXの存在が浮かぶ。
  清張は下山氏が五反野駅そばの末広旅館に午後2時から夕方まで休憩したという旅館主婦の証言の中で客が「タバコを吸ったかどうか覚えていない」と話していることから、タバコ好きの下山氏が部屋でタバコを吸わないはずがない。替え玉説をとった。さらに目撃証言の多くが自殺説につながる不自然さと合わせて、拉致されて殺され、現場に運ばれたと、大胆な推理を展開した。このほか死体付着の色の粉が松川事件現場で発見される奇妙な一致にも言及している。
  清張に対して、井上靖下山事件を題材にした小説を書いている。発生当初から自殺報道の毎日新聞の記者、社会部平正一デスクがモデルである。平記者は事件記者の経験豊富で、一貫して自殺で取材、報道した。有力証言の末広旅館の話も毎日のスクープだった。この旅館の主人が元特高だったことも憶測を呼んだ。井上靖小説は当局の結論が自殺で締めくくられるところで終わっており、ここでは米軍の影やヌカ油など物証にはふれないままだった。
           
  事件記者が轢断現場に足を運び、周辺取材をするなら、結論は容易に自殺になるだろう。それほど状況証拠はそろっていた。警視庁の捜査1課の刑事が現場で「これは自殺」といい、ベテラン事件記者も経験と感で同じ思いを持った。しかし、清張は現場風景の背後にGHQ、政治の影を見たのである。帝銀事件で感じた黒い霧だ。
  この下山事件には多くの因縁めいた偶然がある。現場を通過轢断した機関車D51651は昭和18年、死傷者200人余を出した常磐線土浦駅列車衝突事故車両である。また事件当日のD51651運転士は下山氏が仙台機関区長時代の部下で、事件後、情緒不安定になり、ストレス性潰瘍で数年後に死亡している。
  下山事件はGHQの進めた大量解雇を容易にし、その後の選挙結果にも影響を与えた。後継の加賀山総裁は「下山氏の死がなければ国鉄の大整理はできなかった」と、後に現場に追憶碑を建てた。自殺、他殺どちらであっても下山氏の死は政治的な意味を持っていたのである。
  碑は現在、150㍍東のJR常磐線ガード下の道路西に移動している。轢断現場から離れたここまでも遺体の一部が散乱していたという。清張の他殺論のほかに同事件の自殺論では松川事件被告で逮捕され、無罪になった佐藤一氏がまとめた報告書がある。佐藤氏は他殺説から自殺説に転換して話題になり、詳細な検証で「自殺」の結論を出している。
  清張とは逆に他殺説の根拠を一つずつ潰していった。松川事件被告の佐藤氏は政治の風景を誰よりも見た元東芝労組員である。様変わりした現場で清張と佐藤氏の見た「政治の風景」の再現を試みるが、時代の移り変わりと、日本の戦後史の闇の深さを感じるばかりだった。
  黒い霧シリーズだけでは清張の『政治の風景』は十分でない。小説もとりあげたい。
  政治を題材にした長編では1976年(昭和51)から週刊新潮に連載の「状況曲線」がある。ダム受注の談合をテーマにしている。談合を仕切る経済研究所長とゼネコン専務、道路族の参議院議員、地元秘書、後援会がダム建設にむらがる構図である。読んでいて気づくのは、現在の政治家をめぐる裁判に似ていることだ。小沢一郎議員が初当選は1969年(昭和44)、27歳。以来、田中角栄金丸信の下で頭角を現していくが、清張の書いた頃はおそらく若手実力者として認知されていたはずだ。
  状況曲線の最後に清張は面白い試みをしている。
          
          「刑事警察検討資料 巨勢事件について」
  巨勢事件とは小説の主人公巨勢堂明のことである。ここに描かれる談合構図は、当時、公共事業の受注をめぐる族議員と官僚、さらにゼネコン、背後で談合を仕切る黒幕を現実の姿のごとく紹介している。小説の世界であっても、清張は現在進行中の政治の風景として示唆している。固有名詞をあてはめると、架空の事件資料がにわかに現実味をおびる談合教科書である。
  40年前の小説が談合の仕組みをこれほどえぐりながら、それを小説の世界の出来事として片付けてきた政治に驚くばかりか、また検察が動けば雨、霰の報道のマスコミ、特に新聞記者たちの無関心にも言葉がない。自戒をこめて読んだ。
  小説では殺人から端を発した事件捜査に執念を燃やした刑事はやがて厚い政治の壁にぶつかる。清張は「けものみち」でもこの道に踏み込む刑事が政治の壁の前に立ち往生するもようを描いているが、この壁こそが清張にとって政治の風景を映すスクリーンだった。
  もう一作、政治家が主人公の作品に「迷走地図」(1982・昭和57年、朝日新聞連載)がある。この作品はもろに政治の風景である。与党の権力闘争、2世議員、秘書、地元、女性スキャンダルと、あらゆる舞台裏が描かれる。面白いのは政治家にとって金庫の存在である。スキャンダルの証拠、現金などを保管する金庫は政治家の生命線につながっている。清張は事件の鍵を金庫に(預けた)。小沢金庫、金丸金庫、古くは角栄金庫、さらには官房機密費金庫など現実の政治でも金庫は重要な役割を果たし、事件の鍵を握っている。政治の風景の中央に大金庫がいつも(ドン)と座っているのである。
  ※清張には政治に関係する昭和史発掘、現代官僚論があるが、ここでは取り上げなかった。次回は、清張を歩くその3「古代史の風景」。