第71回 お茶の旅 喫茶、茶の湯の源流をゆく その2 

  侘びさびのこころ

  平城京の東にあるのは大仏殿の東大寺、西はいうまでもなく西大寺である。
  近鉄奈良線大和西大寺駅の 南口を降りて300㍍歩くと、真言律宗西大寺東門に着く。天平年間に女帝、称徳天皇の発願で創建され、寺域は約31万平方㍍におよんだ。都が京へ移り、奈 良諸寺は衰退するが、西大寺も例外でなかった。鎌倉時代になり、寺再興にあたったのが叡尊である。火災で失った伽藍や真言密教の根本道場に再建に取り組んだ。
  西大寺の名物、大茶盛りは叡尊ゆかりの行事である。叡尊は北条氏の招きで鎌倉へ向かう途中、各地で民衆に茶を振舞った故事伝承や寺の鎮守八幡神社に献茶したあと、集った民衆にその余服を分け与えたことが大茶盛りのいわれになっている。
          
  茶は当時、僧、公家、武士の飲用にとどまっていたが、叡尊は一般にも広げた。茶碗でなく、どんぶりや水鉢で回し飲みしたというが、大茶盛りは叡尊と喫茶を結ぶ歴史の糸ということになる。
  西大寺では1月15日の初釜、4月と10月に大茶盛りの儀式が営まれ、市民や観光客でにぎわう。作法はない。ただ、頭がすっぽりはいる大きさの大碗の茶を両 手でかかえ、飲む。小さい子どもや女性は隣人に手を添えてもらう必要がある。それでも、手がすべり、大碗を頭からかぶった笑えぬ話もあった。笑いで包まれ るなごやかな茶会は、大茶盛りぐらいだろう。
  鎌倉末になると、喫茶の風習が定着し、室町時代には、京の東寺門前で茶売りの店が登場した。東寺百合文書には応永10年(1403)に3人が営業許可を求め た記録があり、これがわが国の茶売りの初見資料になる。東寺南口は奈良、西国につながる交通の要衝でにぎわい、喫茶営業の立地に適していた。東寺に限ら ず、街道筋や禅寺門前でも同様の茶売りが出現していた。当時は「一服一銭」といわれ、一服は紛薬などl包を意味し、一銭は料金でなく、一文銭の大きさの匙 (さじ)で1包み分の量をはかったためという。旅の道中薬や土産の需要もあったが、文書には「火を使う許可」も含まれており、店でも茶を出していた。
  武士たちは茶の産地をあてる「闘茶会」を開いていた。有名なのがバサラ(派手好き)大名の異名を持つ佐々木道誉の茶会である。道誉は近江守護、佐々木氏の一族で、足利尊氏に従い、室町幕府設立の功労者であった。2代目将軍、義詮の代では権謀を駆使し幕府を動かす一方で、風流を好み、茶、花、香、田楽、連歌など芸能に通じていた。
  義詮を招いて開いた茶会は、唐様の七夕飾り、7菜を整え、景品700種が積まれていた。茶は70服を用意し、本茶である栂尾と他の茶を飲み分け、飲んで騒ぐ 茶会だった。半面、大原野花会では、連歌師白拍子を呼び寄せ、「茶の湯たぎる松風の音を聞き、春の芳しい香りがして茶碗一杯の中に天に昇る力を持つ仙人 のような境地になりうる」と、風雅も好んだ。現在の野点に通じるものがある。
  薬効に始まる喫茶は、禅宗の作法、闘茶の産地の味比べ、唐物道具にこだわる飲茶遊芸から連歌など芸能に結びつく。唐様崇拝を経て和様化の道をたどり、ここに 「茶の湯」前夜の時代を迎えた。行き過ぎた遊芸の場には、当然ながら批判が起こり、茶の精神性を重視する土壌ができつつあった。闘茶から茶合わせ、茶寄合 と、集りの名も変化した。
  室町中期には奈良出身の僧、村田珠光が京へ出てきた。珠光の経歴は伝聞に基づき、定かでない。
  珠光は大徳寺で一休和尚に師事、その頃、8代将軍足利義政に近侍し、連歌の達人であり、義政の書画などを鑑定した能阿弥に茶、花を学んだ。禅と風雅をひとつにした茶の心といえる。
  簡素な4畳半の茶室は珠光がはじめた。弟子の古市播磨にあてた手紙「心の文」は珠光が侘茶の始祖として後世に名を残した茶の心が綴られている。まず忌むべきは、自慢、執着の心、達人をそねみ、初心者を見下す心である、と、前置きしてこう教えた。
  ―昨今、冷え枯れると申して初心者が備前信楽焼を持ち、名人ぶりを気取っているが、これは言語道断の沙汰である。枯れるとは、良き道具を持ち、その味わいを知り、心の成長にあわせて位を得。やがてたどりつく「冷えて」「瘦せた」境地をいう。これこそが茶の湯の面白さなのだ。そこへいかぬものは、道具へのこだわりを捨てよ。
  わが心の師となれ。心を師とするな(我執にとらわれた心を師とせず、己の心を導く師になれ)−
  茶の道の志は、弟子たちに受け継がれた。珠光はまた、茶筅の考案者と、いわれている。
  奈良と大阪の境界にある生駒市高山町は、 関西学研都市の西端に位置する山里である。茶筅の里と、呼ばれるほど茶筅造りが500年にわたり、続いてきた。ここの村を治めていた鷹山氏は、興福寺の僧 兵として勢力を蓄え、室町期には砦を築いた。その鷹山氏と珠光は奈良で知り合い、茶碗を攪拌する道具の依頼を受けたことが始まりになり、いまでは全国の茶 筅の90㌫は高山産だ。茶筅は100種近くあり、茶道流派により、違いがある。使用する竹も表千家は古民家の屋根に使う煤竹、裏は白竹、武者小路は紫竹と いうように茶筅で流派がわかる。「道具にこだわるな」の教えと矛盾するようであるが、それは初心者であって、侘びの境地には良き道具が必須なのだ。中でも 茶筅は、茶碗、釜など器に比べて目立たない道具であっても、茶を点てるにはこの良否によって左右されるため、茶筅のこだわりは通の証にもなっている。
          
  室町の茶碗は唐物がもてはやされたが、日本で最初に茶釜が生まれたのは福岡県・芦屋である。遠賀郡芦屋町は、航空自衛隊基地が町の半分を占め、競艇場があるため、かつては全国有数の裕福な町だった。豊かな町財政がこれまで北九州の離れ小島のように合併をこばんできたが、最近は合併派と反対派が拮抗する状態のまま、町制を守っている。
  遠 賀川が玄海灘に注ぐ河口は水運が盛んな立地もあり、古くは博多と並ぶ寄港地になった。砂鉄が豊富なため、鎌倉期に地頭宇都宮氏により芦屋釜が興され、室町 期を代表する西国大名大内氏が北九州を治めた頃、茶釜の製造が盛んになり、京で珍重された。現在、重文指定の9釜のうち8釜は芦屋釜であることからも、茶の湯道具の源流に位置していた芦屋釜の存在の大きさがわかる。
  その芦屋町が観光に力を入れ、江戸時代に製造を止めていた釜復興に取り組み、平成7年に芦屋釜の里がオープンした。復興の芦屋釜も古芦屋のふっくら、鯰肌の優美な真形(しんなり)した姿を再現し、観光にも一役買っている。
          
  応仁元年(1467)、足利義政の東山文化爛熟の京で10年戦争が勃発した。応仁の乱である。幕府内の権力闘争に将軍跡目相続がからみ、京を東西に分けて対 峙した幕府の実力者、細川勝元山名宗全支持の守護大名が戦端を開いた。最初は上御霊神社を舞台にした争いは、瞬く間に京に広がり、両軍あわせて30万が 京に集結した。南禅寺相国寺天竜寺などが焼け、都は戦いと略奪に明け暮れた。
  この戦いで多くの公家、僧、豪商、町衆は京を離れ、地方に避難した。その中に堺へ避難した豪商、武野紹鴎がいた。堺出身の紹鴎は歌と侘び茶に傾倒し、藤原定家の和歌
    みわたせば 花ももみじもなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ
  この歌を侘びの心にしたという。和歌を茶席に持ち込んだ最初の人であった。利休の愛弟子の山上宗二が書いた『山上宗二記』(茶研究の1級資料)によれば、「枯れかじはさむけれ」と連歌師、心敬の言葉を引用し、村田珠光の侘び茶の世界をさらに深めた。
  貿易港堺は応仁の乱の避難者で町はにぎわい、商売の集りでは茶に親しみ、紹鴎の周りには支持者、弟子の輪ができた。後の千利休もいた。利休は商人の息子に生まれ、若くして茶席に通い、紹鴎の影響を受けた。
          
  堺の有力商人で構成する会合衆のメンバーでもあった利休が堺の茶人から全国に認められるきっかけは、織田信長の上洛だった。堺は商人が私兵をかかえ、大名の支配を受けない自治組織をつくっていた。上洛した織田信長は堺に自治を認める見返りに、2万貫の供出を命じた。利休は会合衆仲間であり茶人津田宗及、今井宗久らと語らい、供出に抵抗していた会合衆をまとめ、信長の信頼を勝ち取り、茶頭(指南役)についた。
  信長は名物茶器を求め、集めた道具で茶会を開いた。臣下に恩賞として茶器を与えた。信長の許可なくして茶会は開けず、茶頭は武将からも一目置かれる存在になった。利休は信長を前に2回、茶を点てている。
  天 正10年(1582)6月2日、京都本能寺で茶会が開かれた。信長の収集品が一同にそろい、応仁の乱で荒れた京に信長の威光が輝いた。その夜、信長は数多 くの名器とともに世を去った。利休60歳。先人踏襲の茶の湯だった利休の茶がこの日を境に、変化していくことを弟子たちは気づいた。
  秀 吉と利休の関係は信長よりも深い。茶の湯を政略に使った信長であったが、秀吉は侘び茶の理解者を演じた。一茶人であった利休は茶室で侘びを語りながら、政 治的な権威を身にまとうもうひとつの顔を持っていた。秀吉と茶室で向き合う利休。大名たちは、そこで語られる政治を想像し、利休に近づいたことは想像に難 くない。実際は雑談であっても密室の語らいは、人の憶測を呼ぶ。また、本音がぽろりと出ることもあっただろう。豊後の大友宗麟は「宗易(利休)ならでは関 白様に申しぐる人なし」とまでいった。
  秀吉側近の利休は、大名を動かす力を身につける一方で、「枯淡」の茶湯に進んでいく。その矛盾こそが秀吉との破局につながったのである。天皇から「利 休」の号をもらい、史上最大の茶会、北野大茶湯を総合演出した利休の名声は高まり、大名たちが弟子入りした。秀吉の黄金茶室に対して、利休は草庵の茶室を 取り入れ、唐物茶器から一転、職人による楽碗をつくらせた。ろくろを使用しない、ひねりの素朴な、無骨な黒碗は、武将たちの心をとらえた。
          
  茶会で秀吉に黒碗を出した利休に、秀吉の眼がぎらり、光った。
  名物の碗を予想していたからである。秀吉の意をわかっていながら、あえて黒碗を出した利休に天下人の心はおだやかであるはずがない。茶の湯における秀吉と利 休の対立は愛弟子の山上宗二の突然の処刑にはじまり、利休切腹で幕が降りた。切腹の理由には大徳寺山門に置かれた木造の利休像などが語られる。武士でない 茶人に切腹を命じた秀吉。利休がいのち乞いをすると、思ったのかもしれない。しかし、利休は使者に茶を点てて自刃を受け入れ、69歳の生涯を終えた。
  利休が茶の心とした藤原家隆歌がある。
     花をのみ まつらんひとに やまざとの ゆきまの草の春をみせばや
  師である武野紹鴎が茶の心髄とした定家の歌と並べたとき、どちらが侘び、さびの心に通じるか、一目瞭然の風景が目に浮かぶ。
          

          (以下次号。利休以降と茶の産地)