第70回 お茶の旅 その1  日本の喫茶、茶の湯の源流をゆく

 朝晩、やっと、しのぎやすくなった。夏の間、おっくうで、だるい、寝不足の体に幾分、生気が戻り、朝の茶の一服がすみずみまでいきわたり、心のゆとりさえ運んでくる。
 おきまりの猫の食事、トイレの掃除、散歩をすませたあとの茶は格別だ。これにはタバコも一役かっている。勤め人時代はコーヒーですませていたが、定年後は茶 が欠かせなくなった。旅先で茶と焼き物を決まって買い、朝の茶を楽しんでいる。今日は宇治、明日は静岡と、各地の茶を並べ、飲み比べている。好みでいえ ば、八女茶がお気に入りである。品質の違いも味に関係するから値段の張る茶も飲み、比較したが、八女茶が私には一番、しっくりくる。
 タバコの煙と茶が交じり合う至福のひとときが茶の旅へ誘った。産地の話もあるが、喫茶の歴史をひもとくのが目的である。
 日本で喫茶と呼べる風俗の最初は平安初期であることは、ほぼ間違いない。
 ではどこか。まず、都のあった奈良、京都が思い浮かぶが、文献に出てくる喫茶のあけぼのは比叡山の麓、近江の国、琵琶湖のみえる丘からだった。
 奈良末期から平安初期の史書、『日本後紀弘仁6年(815)4月22日の項に、嵯峨天皇桓武天皇次男、平安朝3代目)が琵琶湖・唐崎行幸の途中、崇福寺、梵釈寺に参詣後、僧永忠から献茶をうけた出来事を記している。
 崇福寺は近江遷都の天智天皇、梵釈寺は桓武天皇建立の官寺である。いずれも近江京跡の西北の山麓にある。桓武天皇にとって天智天皇は祖祖父にあたり、近江京への思い入れは強かった。自ら勅願の寺、梵釈寺を崇福寺そばに建立し、唐崎行幸は恒例の行事だった。
 唐崎は大津市の 湖畔にあり、天皇、皇太子、重臣らがここに船を浮かべて遊覧した。都から唐崎までは距離にして20キロであるが、高低差500㍍の山越えの道で、志賀越え の名があった。いまは、北白川から比叡山に行く通称山中越えである。琵琶湖と京を結ぶ最短路にあたり、稜線の東側眼下に琵琶湖が広がる。
          
 嵯峨天皇に茶を献じた僧は永忠という、在唐30年の留学僧であった。永忠は長安三論宗を極め、学僧で知られていた。奈良末期から平安初期は、遣唐使派遣なく、永忠は喫茶流行の長安に滞在した唯一の日本人であった。茶は紀元前から文献に登場するが、長安に広まるのは唐代。陸羽が世界で初めて茶の専門書を書い たのは、玄宗皇帝、楊貴妃の治世下で、完成は玄宗死後になる。「茶は南方の嘉木なり」で始まる書は茶の起源、道具、製造、歴史、産地まで網羅している。長安では寺でも栽培、僧の眠気覚ましに服用していた。在唐の長い永忠は、栽培、製造にも、かかわったことは想像に難くない。
 永忠の帰国船である18次遣唐使には最澄空海が乗船していた。短期留学の最澄は永忠とともに帰国、空海西明寺の永忠の住まいを引き継ぎ、2年後に予定を早めて長安を去り、日本でも永忠と親交を結び、空海は「忠兄」と慕った。
 帰国した永忠は桓武天皇の命で崇福寺、梵釈寺主になり、寺・僧を管理、監督する僧網の地位についた。茶の本には、最澄空海が種を持ち帰り、植えた記述が見 られるが、にわか留学、駆け足留学の最澄にそんな余裕があったか疑問で、空海にしても2年の滞在で栽培法まで身につけることは難しい。まして種からの発芽 は至難の技である。
 永忠は種でなく、苗木を持ち帰り、栽培した。苗木は10年もすれば成木になり、風味が生まれ、献茶にふさわしい条件をそろえたのであろう。摘んだばかりの新茶であった。歴代天皇が戸外で茶を振舞われた記録は、日本後紀が最初になる。嵯峨天皇はこの時の喫茶を気に入り、直ちに各地に茶の栽培を命じた。御所にも 茶園ができた。
 日本の喫茶の歴史は琵琶湖の見える丘で幕開けた。茶は種から栽培するのはまれで、まして帰国直後の7月に植えた、と仮定してもさらに確率は低くなる。滋賀県の茶業研究所に聞くと、秋の実を春に植えるなら、可能性は高いが、夏となれば乾燥してしまう、という見立てだ。永忠は西明寺の時代の経験から苗木を持ち帰ったとみるのが自然である。
 唐崎行幸の喫茶を機に茶は唐風として都の公家の間で流行するが、当時の茶は団茶という茶を擦り、固めて保存した茶のかたまりだった。これをあぶり、粉状にして熱湯で溶くさい、塩を入れ、味付けして飲んだ。工程に手間がかかり、味も時代に合わなかったためか、唐風がすたれると、茶も飲まれなくなった。
          
 喫茶発祥の地の丘に急いだ。京阪電車滋賀里駅から比叡山を仰ぎつつ、のぼる。坂道の両側は穴太積みの石垣の民家が並ぶが、古道の面影はない。振り返れば、眼下に琵琶湖が一望できる。史跡も表示もない。滋賀県大津市の観光案内にも喫茶の歴史が「ここで始まった」という記述はないのが不思議といえば不思議である。喫茶、茶の湯のルーツにもかかわらずだ。東大寺法隆寺をはじめ南都諸寺とともに10大寺に数えられた崇福寺は平安後期には火災で衰退、山中の遺跡になった。
 京阪電車滋賀里駅から数分で坂本に着く。延暦寺の里坊が並び、石積みの構えは観光客に人気がある。坂本駅降りてすぐ、20㍍四方の小さな茶園が最澄ゆかりの日吉茶園だ。日本最古の茶園の表示が目にとまる。正確には「現存する茶園では」が前につかねばならない。
 最澄が永忠よりも早く、茶を栽培したとは、考えられない。栽培の経験もないからだ。嵯峨天皇が茶の栽培を奨励し、御所に茶園ができたように、日吉茶園も同じ 経過をたどり、根付いたに違いない。日吉茶園の新茶は毎年、日吉大社の祭礼に奉納され、供茶の儀式のさい、披露される。
 永忠は74歳で没した。「空」の理論である三論という難解な宗派に学び、最澄空海とも交流、南都と対立する最澄に理解を示し、無名の空海の後ろ盾であった永忠は、献茶の翌年4月(旧暦)、世を去った。晴嵐がこずえを揺らす新茶の季節だった。
 喫茶が再び、復活するのは鎌倉時代栄西が宋から帰国、臨済宗を開いてからになる。栄西比叡山で修行後、宋にわたり、二度目の宋滞在は23年にもおよび、 臨済禅を学んで帰国した。宋は茶文化が隆盛のころで、庶民も茶に親しんでいた。栄西は帰国にあたり、茶の苗木、種を持ち帰り、日本での栽培を試みた。中国 における茶の普及、滞在年数といい、永忠と共通するところがある。喫茶が習慣になった僧にとって帰国後の茶をどうするかは、禅の修業ともつながる関心事 だった。
 永忠の平安初期の茶が漢詩とともに味わう喫茶であったのに対して、栄西は茶の薬用効果を重視した。喫茶の平安が衰退、薬用の鎌倉がその後の喫茶の隆盛につながったのは皮肉といえば皮肉である。栄西は、抹茶の飲用を宋で習得していた。
 栄西は当初、肥前・智恵光寺、筑前・報恩寺、博多の聖福寺を建立した。同時に茶の苗を植え、京の栂尾・高山寺明恵上人には種を送り、栽培を奨励した。栂尾の茶は宇治、伊勢、駿河、川越に広がり、やがて産地をあてる闘茶が盛んになる。
          
 現在、日本茶の生産は静岡県が群をぬき、鹿児島、三重、宮崎、京都、奈良、福岡、佐賀、熊本、長崎、埼玉の各県が続いている。栄西ゆかりの地域がベスト10の大半を占め、九州は全体の6割を押さえる茶所である。
 鎌倉期の史書吾妻鏡」によれば、栄西は酒毒に苦しんでいる源実朝に良薬として茶を勧め、あわせて『茶徳を誉める書』(喫茶養生記)を献上した。実朝が回復したことから栄西の評価は高まり、喫茶が武士の間に広まった。栄西源頼家の援助を受けて、鎌倉から京へ進出、建仁寺を建立した。当時は天台、真言、禅3 宗の兼学道場で出発した。
 建仁寺祇園町の南にある。花見小路を抜けて、突き当たりが建仁寺の北門で、正面は大和大路に面している。この建仁寺では毎年4月20日の栄西誕生日に、禅宗最古といわれる四頭茶会が方丈の間で開かれる。栄西が宋で経験した茶会形式を伝えるという茶会の特徴は四人の正客と8人相伴客計36人が方丈広間を取り 囲むように座り、四人の禅僧が菓子を運び、一人ひとりの茶碗の抹茶を点てるところにある。正客の前では跪き、相伴客前は立ったまま、差し出された碗の中に 茶筅を入れ、茶を点てていく。僧の所作は左右対称を見るごとく小気味いいばかりだ。この日は副席で表、裏千家をはじめ各茶道流派の茶会があり、さながら茶 の湯の歴史をたどる趣きがある。
 鎌倉末期から室町時代にかけては茶を通じた人の集りが人気を得て、茶室、道具をめで、茶の産地をあてる趣向も広まった。
 闘茶は、産地によって出来栄えが異なる茶の味をあてるもので、京の栂尾茶が最高級品で本茶、他は非茶と呼ばれた。後に宇治茶が本茶に加わるが、都に近い産地が地の利を得ての評価もあった。茶席は社交の場になり、音曲をかなで、舞い、唐物の茶碗を競い、自慢し合う喫茶の風景が繰り広げられた。四頭茶会に見られる禅宗の簡素な茶会の一方で喫茶を名目にした楽しむ茶会の流れが出来たのである。
          
 足利義政の造営した銀閣寺に代表される東山文化の時代は、外人宣教師たちが目を見張った唐物コレクション(東山御物)、書院茶がもてはやされた。東山御物は、応仁の乱などで散逸するが、室町末期の武士たちは義政を「茶の祖」とまでほめ、唐物を求めた。義政の所蔵の『青磁茶碗』(東京博物館所蔵)は平重盛が 宋の禅僧から贈られた宋代の逸品の伝承があり、茶碗は、底が割れていたため、交換を申し出たが、すでに宋にも交換できる茶碗はなく、底にかすがいを補強し て送り返されてきた逸話が歴史的価値を付加し、美術フアンあこがれの品になった。
          
 信長、秀吉の戦国期は、茶道具が武士たちの関心を集めるが、明日をも知れぬ無常の世で武士たちは心の拠り所を求めていた。戦国期は武士、公家以外にも商人たちが茶会を開き、これまでの華美な茶会の反動からか、禅の心に通じる茶の心、いわゆる詫び茶、茶の湯の流れができつつあった。

          (次回は茶の湯と産地めぐり)

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