第69回 猛残暑に京氷室の里をゆく  夏を過ごす先人の知恵にどっぷり浸る

  京の夏は大文字で終わる。ところが京の残暑は厳しく、気温が全国1を記録するのは8月末だ。大文字の16日、夜の点火までの時間つぶしに「船」形の裏にある氷室へ足を伸ばした。氷室は北区の奥にある山里である。鷹ケ峰から5キロの道。光悦寺を過ぎ、車の離合もやっとの峠にたどりつく。
  京見峠。名のごとく、京が一望できる名所には茶店がある。若狭や丹波から京へ来た旅人が初めてみる京の都を眼下にながめたことからついたという。3軒並ぶ一 番上の家が茶店であったが、休業している。ここのぜんざいが楽しみだった。20年前までは店に藁ぞうりが並んでいた。氷室の村人が編んで届けていた。
  この周辺の山は京マツタケの産地で知られ、色白で香りが良く、丹波に勝る特別品として料理屋に直送され、市場にまわるのはわずかだ。赤松の山は、下草が刈り取られ、庭の趣きがある。

          

  道をまっすぐ進み、右に折 れると氷室の里である。明智光秀が城を築いた伝承のある城山から杉木立の中に肩を寄せ合う民家を眺める。氷室の地名は全国に散見され、珍しくもない。京周 辺にも数箇所の氷室があり、ここから氷が御所に運ばれた。古くは平安前の古事記日本書紀に「氷室」と、氷を扱う氷連という職集団の記述があり、奈良春日 野の氷室神社は平城遷都のさい、氷池の氷を保存したことにちなみ、現在も鯉と鯛を封じ込めた氷柱を供える祭を営む。このほか出雲や熊本・八代では氷室祭の 日、雪餅と称する饅頭(こおっづいたち)を食べ、金沢では7月1日、氷室饅頭を食する風習が残っている。

           

  加賀藩は将軍家に氷を献上 したほか、江戸市中では土蔵つくりの氷室をつくり、埼玉などから運んだ氷を保存、これを夏に水に浮かして売った。水は川水を使い、腹を壊す年寄りがでたた め、年寄りの冷や水の語源になったという。もっと  も年寄りは冷や水をかぶるなという戒めからきたという別説もある。
  
  古代には氷を扱う専門職は 400人にのぼり、京をはじめ、大和、河内、近江の国に氷室がつくられた。北山の氷室はそのひとつで、京盆地の中で、さらに山に囲まれた地形は冬の寒さが 厳しく、氷づくりと保存に適していた。現在、氷室には8戸が住み、毎年、6月15日には氷室神社の例祭が営まれる。この日は御所に氷を献上した日と、伝わ るが、氷づくりは絶えている。氷室は神社の鳥居を潜った杉林にあった。

          

  「みなさん、氷室はどこですか、と、訪ねてみえますが、もはや名だけの跡にがっかりされます」と、地元住民。山の斜面に3つのくぼみが室跡で、雑草が茂るくぼみから、かつての氷室を連想するのは難しい。

  文献によれば、畳6枚、深さ2㍍の穴に枝や葉をしきつめ、その上に板を置き、氷をのせた。また板を置き、枝と葉を置き、土をかぶせて外気をさえぎって保存、 半年後に取り出して、馬で御所へ運んだ。氷をとかさないため、馬を疾走させ、役夫の中には、走り続けて途中で倒れ、死んだ話も残る。命がけで涼を届けた結 果の死は痛ましい。しかし、御所では氷到着を待ちのぞんでいた。紫式部源氏物語(常夏巻)で

  いと暑き日、東の釣殿に出でたまひ涼みたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて西川よりたてまつれる鮎(中略)大御酒参り、氷水召してー

  宮中の夏と氷を描いている。さらに源氏物語には女官たちが氷を割って、紙に包み、胸や額にあててはしゃぐ姿が登場する。

  清少納言枕草子の中で「削り氷にあまづらいれて、新しき金まりにいれたる」と、カキ氷のルーツというべき氷の食べ方を紹介した。「あまづら」(甘葛汁)は 葛の茎の樹液をとり、煮詰めると甘いシロップ状のものができる。平安時代の甘料として使用された。氷にシロップをかけて食べたことになる。

          藤原定家の歌

      夏ながら 秋風たちぬ 氷室山

      ここにぞ冬を残すと思えば


  貴重品である氷は宮中の儀式にもなった。正月節会では氷室から運んだ氷を豊楽殿の庭に置き、氷の厚さをはかり、天皇に奏上した。「氷様奏」(ひのためしそう)といい、氷の厚さで吉兆を占った。

  平安時代に始まる氷運びは大正15年まで続いたというが、大正時代といえばわが国の冷蔵技術が普及した頃代である。天然から人工氷の時代を迎え、氷室はさびれていく。氷室神社の記録は火事で焼失、語り継ぐ地元民の記憶もあいまいだ。

  氷室は、日本はおろか世界にある。中国、朝鮮半島では葬礼のため、遺体保存にも氷を使った。中国から伝播したとも考えられるが、暑い夏を過ごす人間の知恵 は、国、時を越えて氷室を発明したというのが正しいだろう。ペルシャのドーム型のヤフチャール、スコットランドのイグリント城の氷室、雪をかき集め、室へ 運ぶスペインのトランタム山脈の絵画、イタリアのフィレンツエ、さらにアメリカ大陸にも天然冷蔵庫をみることができる。

  冬の氷を保存して夏に食べる。冬に夏の用意をする。毎年、繰り返された氷保存は、先見性と保守性に富んでいる。京都人の先見と保守の精神の源泉は意外にも氷室と御所のつながりにあったともいえる。

  帰り道、氷を運んだ人たちの足跡をたどるも、京の夏は暑く、氷を積んだ馬の行列の姿を思い浮かべることすら拒む。もはや時のかなたの歴史になった。

  氷を運ぶ山道で、したたる氷水を口に含んだことはなかったのだろうか。


          

  京へ戻り、大文字の送り火前のひとときをホテルで過ごした。喫茶で抹茶と水無月を注文した。水無月は6月30日に食べる慣わしであるが、1年の折り返しにあたるこの日、悪魔払いと暑気払いで食べた。水無月は小豆の粒の下に三角の外郎(ういろ)でつくる生菓子。三角は氷に見立ててある。冷えた外郎の甘み、お茶 の苦味が体の熱の塊を溶かして目がばっちり開き、生気を取り戻した。

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