第68回 高瀬川  京情緒をたたえ NOWな流れ

  京の梅雨の散策 には高瀬川、と決めている。二条から七条までの高瀬川は橋ごとに風景を変えていく。維新の舞台からオープンカフェ、簾だれ越しの料理屋。柳と桜並木が流れ を包み、京情緒をたたえている。人気の外国人の素泊まり宿もこの川沿いだ。高瀬舟の昔を知る榎を見上げると、青葉のすきまから梅雨の晴れ間の日差しがまぶ しい。

  高瀬川は家康が徳川幕府を開き、秀忠の代になった慶長年間(1611)、豪商角倉了以が3年がかりで伏見と京を結ぶ資材運搬の運河(延長10キロ)を拓いた。当時の金で7万5千両を投じたというから、工事の規模の大きさがわかる。角倉了以は代わりに通行料を独占、年間にして1万両を手にし、工事代金の回収はおろか莫大な富を得た。この数字からも高瀬川の水運のにぎわいがわかる。最盛期の舟数は248舟にのぼった。

          

  雇用、物流を考えれば、幕府は江戸に移っても、京の経済はびくともしなかった。京の文化、経済を求めて、大名らは京屋敷を競って置き、幕末には長州、薩摩、土佐は2つの屋敷を構えた。

  高瀬川は鴨川西岸の分流であるみそぎ川を経て、二条から南下、東九条西南(JR線下)から鴨川に合流した。当時はここで鴨川を横切り、竹田から伏見と結ばれ ていた。伏見からは30石船が大阪・伏見間を上り下りした。上りは船頭ら3、4人で綱をかけた舟を曳いた。大阪からの荷は、丸2日で京に着き、現代にあて はめてもその速さに驚く。瀬戸内の鮮魚も夜通しの早舟で入荷し、儀式に欠かせない鯛の消費地になり、祇園祭のハモは京の夏の味覚の代表になった。

  二条―四条間には 荷物の上げ下ろしと舟の方向転換のため、船入れがつくられた。水深を保つ水門、堰板を設け、水量も調節できた。現在、高瀬川の起点、二条にあるのが一之船 入れで、往時の姿を再現している。川沿いには材木問屋、米問屋、花街が生まれた。町名には、木屋町、材木町、納屋町など物流から付いた名が残る。

  二条には長州藩屋敷(現京都ホテルオークラ)、三条南には土佐藩屋敷があり、その間には彦根藩邸もあった。随所に維新前夜の志士たちの碑が並ぶ。簡素ですき のない構えの旅館が路地裏にあり、東京遷都後も志士たちの定宿になった。川のせせらぎが青春と故郷の城下を思い起こさせたのだろう。

  資材運搬の舟に交じり、罪人を大阪へ送る舟もあった。大正5年の作品である森鴎外の短編「高瀬舟」は護送役同心と、弟殺しの罪人の語りを軸に安楽死と人間の 心の奥に宿る闇、光を小説に書いた。弟殺しといっても、自殺に失敗した弟の哀願を受け刺した兄。鴎外の社会に注ぐまなざしに私淑した松本清張作品に共通す るテーマだ。これはあまり知られていないが、鴎外の弟、森潤三郎は作品を書く明治末から大正初めまで岡崎の府立図書館に司書として勤めていた。鴎外は京の 潤三郎を訪ね、高瀬川沿いを歩いたに違いない。川沿いには維新のドラマに登場する佐久間象山大村益次郎の遭難碑、桂小五郎宅跡、四条小橋西には池田屋騒 動の池田屋旅館、龍馬が暗殺前、滞在した酢屋嘉兵衛宅など史跡にことかかない。

  祇園囃子が響く元治1年6月5日(新暦7月8日)、長州藩定宿の池田屋騒動では長州、肥後、土佐の志士30人が近藤勇率いる新撰組に襲われ、7人が惨殺さ れ、多数が逮捕された。桂小五郎は会合を中座して難を逃れた。事件の発端は、木屋町四条の商人、枡屋喜右衛門を新撰組が逮捕、拷問のすえ長州藩の御所放 火、幕府寄りの中川宮の幽閉、京都所司代松平容保の暗殺計画の自白を得ての襲撃と、いわれるが、真偽は定かでない。枡屋喜右衛門は商人の顔と、裏では長州 藩の密偵の裏の顔があり、高瀬川沿いの商人は、勤皇、幕府のスパイが入り混じり、京雀も口を貝にしてかかわりを避けていた。

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  鴎外は大義の名のもとに繰り広げられた血なまぐさい暗殺事件よりも小説の素材として京町奉行所与力、神沢杜口の随筆「翁草」に出てくる名もない流人の話を選 んだ。精一杯生きながら貧困と病に苦しみ、死んだ弟と、弟殺しの罪名の兄の話から人間の生と死を見つめた鴎外のまなざしは、川の流ればかりか、澄んだ底ま で注がれている。

  高瀬舟は底がひらたく、急流も浅水も航行が可能だった。伏見稲荷の初詣には人を運んだ。堤を歩くものは、舟で行く客に「足はないのか」と、冷やかし、舟の客 は「銭はないのか」と、いい返えしたという。京言葉といえば、婉曲なまわりくどい表現で知られているが、それは祇園や商売人の世界で、中心部の年寄りの会 話はむしろ歯切れがいい。しんらつでもある。おけら火で混雑する八坂神社石段下で通りを隔てて、互いの悪口を言い合い、許容した風習もあった。

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  高瀬舟は江戸、明治にかけて往来するも、鉄道開通で衰退、大正7年に水運は廃止され、川沿いのにぎわいも途絶えていく。この高瀬川を埋め立て、路面電車の南北軸にする都市計画道路案が日程にあがるが、住民の反対でつぶれ、現在の河原町通ができた。 

  二条の船入れから南へ歩く。30年前、高瀬川まちあるきを書いたことがある。当時と比べて変わったのは三条小橋あたりと四条界隈ぐらいで、高瀬川風景は健在である。

  榎の古木が西岸のビル1階の壁を突き抜け、枝を張っている。根は寿司屋の調理場にあり、ビル改修のさい、宙ずりにして工事をしたいわくつきの神木である。

  この木のある界隈には、土地の人が焼けどまりという別称がつく。天明8年(1788)3月、鴨川東の宮川町から出火、御所、二条城、所司代などが京の8割が 灰になった大火のさい、この一角のみが焼け残ったことから、この名がある。さらに30年前、風呂屋周辺の火災でも榎の根のあるビルと、枝が屋根を覆ってい た名曲喫茶は類焼を免れた。

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  寿司屋の女将に聞いた話では「ビルにスナックなど12店があったのどすが、焼け残ったのは、ミューズ(名曲喫茶)さんとうちだけ。それで神木やいうてお社が できた。工事が終わり、元の場所へ埋めたら、芽をだし、近所一同、手にとりあって喜びました」という。誰がいいだしたのか、「あの木にはみーさんがすんで はる」と、お参りの人が続いた。京の町は、木のほこら同様に奥深い。8カ月の宙ずりに耐えた榎は、高瀬川沿いの名物になった。

  類焼を免れた名曲喫茶には、クラッシクフアンの学生のたまり場になり、店内では流れる名曲にあわせて、体をゆすり、指揮者まがいの動作の客でにぎわった。この店も閉店したいまは、榎のいわれを知る地元民もまれだ。

  高瀬川沿いをゆっくり歩けるのは、五条から七条の間。名物の柳に加えて桜並木が緑陰をつくり、すだれ越しに見る民家の風情は、京情緒に満ちている。ここの桜が落花を川に浮かべるさまは、京都一といっても過言ではない。

  五条より南へ行くと、外人観光客に人気の旅館がある。東京オリンピック前後から川沿いの素泊まりの宿が人気になった。湯原繁次さんが始めた宿は、評判をと り、国際電話で予約がはいる純和風宿だった。いまは故人になった湯原さんが語る当時は、英語のできない湯原さんと客がみぶり、てぶりで意思をかよわせ、 「リョカン、ユバラ」のバンブールームの名を高めた。フロとしゃがんでするトイレは苦労の連続で「ヘルプ!」の声を聞かない日はなかった。客のなかには、 家に飾ってあった鞍かけをトイレに持ち込み、洋式に仕立てたものもいる。どんなふうに使用したか、想像するだけでも楽しい。 畳、浴衣の宿は、それでも客 足はうなぎのぼり、湯原さんが大統領のテレビ中継を見ていると、要人のそばにいる客の姿を発見することもしばしばだった。アメリカをはじめフランス、イギ リス、ドイツなど欧米10数カ国から客が訪れた。この旅館も改装され、和洋両式を備えた宿に変わった。江戸の頃、船頭や船客相手の花街は、さびれたもの の、昭和とともに旅館でにぎわいを取り戻した京。大胆な夏衣装の外人女性が人影まばらな夜でも川沿いを散策できる五条界隈の秘密は、近くに「会津小鉄」 を創業者にする老舗の広域暴力団事務所があり、シマの治安に目を光らし、チンピラや不良が敬遠する立地にある。このあたりが緊張するのは、一大抗争事件の 時ぐらいだ。

  鴨川、淀川に注ぐ川の流れのように角倉了以親子は高瀬川で得た富で念願の安南(ベトナム)貿易に乗り出し、高瀬川から大阪湾、さらに太平洋へ飛躍するが、幅7㍍の運河は昔も今も、世界に通じている。



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