第61回 備中・吹屋のふるさと村をゆく

     〜日本最古の現役木造小学校で時の流れをとめた〜

  小学校の同窓会の通知が届いた。卒業して何年になるか。55年か56年か、どちらかだろう。幹事も歳月を数えることに疲れたのかも知れない。年を取るにつれて同窓会の集まりがよくなった。翌年には、出席者の誰かがもういない。欠席すると、あいつは、もうだめだ、寝込んでいるなど政治家並みの話の種になるから、顔を出して欠席者の噂に耳を傾ける。昨年、仲間の葬儀の受付をしていた。噂で亡くなったはずの彼が顔を見せ、絶句したことを覚えている。
  同窓会の通知で小学校の旅を思いつく。私たちの時代の小学校は一部をのぞいて、木造校舎だった。長い廊下を雑巾で拭いた。廊下は響くから走るのは禁止されたから、雑巾がけで走る競争もした。手にそげが刺さり、痛い思いもした。そんな校舎も、高度成長期にモルタル校舎や鉄筋に建て替えられ、姿を消した。
  小学校の懐かしい思い出は、私には木造とともにある。現存する木造校舎を使用する学校は、数少ない。日本最古の現役の木造校舎は岡山県の備中山中にある吹屋小学校である。この学校も児童数の減少で来春、廃校が決まっている。全国から観光客がカメラ手にして訪ねる有名校だ。

     

  倉敷から高梁川沿いを北上、山城で名高い備中高梁を西に折れ、山道を車で走ること40分。行けども行けども山また山で道を間違ったかと思う細い道は、心細くさえなる。旅の楽しみは人との出会いであるが、ここは町との出会いが劇的で、いくら事前に予備知識を仕込んでも、想像を超える現実が待ち構えている。忽然と姿を現すという表現がぴったりの山の町。街道沿いにベンガラ格子の民家が軒を並べる。外国人旅行者がリュックかついで訪ねる美しい日本だ。文化庁重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けている。

     


  吹屋の歴史は古い。大同年間(平安初期)の文献に銅山としての記録が残り、江戸時代中期に住友の前身、大阪泉屋が銅山開発に乗り出し、やがて鉱山の捨石から偶然発見したベンガラの材料石で一躍、日本有数の産地になった。ベンガラは酸化第二鉄の赤色顔料としてインドのベンガルで産出されたことから、日本ではベンガラの名がついた。塗料の用途も広く、高級品は陶器、漆器などに使用され、伊万里、九谷、京焼の赤絵に使われ、西日本では民家の格子戸や屋根の塗料になった。  明治には三菱が吹屋で鉱山経営し、町は繁栄した。
  旅の目的地、吹屋小は吉岡銅山本部跡を譲り受けた地元が1900年(明治33)に和洋折衷設計の木造校舎として建設した。いまから思えば、20世紀幕開けを飾る建築物であった。当時、吹屋は日本三大鉱山、唯一のベンガラ産地の絶頂期にあり、折上式天井に見られる建築の粋、和洋折衷のモダンな建物は、教育にかける明治の心意気と地域の財力で完成した。100年経ったいまも、びくともしない。さながら高台にそびえる殿堂の趣きがある。欧米の観光客は、小学校と聞いて、一様に驚き、山奥で出会う建築に目を見張ることもしばしばだ。

  山間の集落に存在する校舎では、6人の児童が学ぶ。校庭で校舎を見上げながら、教室から聞こえる歌声に耳をすますと、はるか60年前の昔に引き込まれ、実にしみじみとした気分に浸ることができる。全国各地に木造の小学校は残っているが、廃校、休校になっている。山間部に集まるため、児童数減少が主な理由だ。明治の小学校は地域のシンボルとして建設されるが、関東大震災室戸台風による倒壊など防災面から鉄筋構造の校舎建設が進んだ。開発から取り残された地域に、ぽつん、ぽつんと、往時の姿を残している。
  観光客の見学希望の申し出は後を絶たないが、学校は教育施設のため、断っている。廃校になれば、おそらく地元の観光名所になるだろう。映画、TVロケの舞台になることは間違いない。桜の頃、ライトアップの小学校の周りを何度も歩いたが、時の流れがここではゆっくりしていてスローモーションカメラのごとく回っている。夢の中で走っている状態に近い。過去と現実が溶け合っているのだ。
  癒し、安らぎというよりも心のときめきを抑えることができない不思議な気持ちになった。古希を前にした男と悪童がともに歩いていた。
  去るものは去らない。去りつつあるものも去らない。むろん、いまだ去らないものはさらない。仏教でいう空(くう)の中にいる気分に浸った。
  吹屋の町並みを歩く。旧街道沿いの約300㍍に妻入りの民家40戸が並んでいる。いずれもベンガラが屋根、柱、格子戸に使用され、統一した景観を構成している。立ち話からかつて地元の旦那衆が相談のうえ、石州(島根)から宮大工を呼び、民家の大きさをそろえ、統一したことがわかった。豪商といえども、間口に差がない。ベンガラの資料館では、工程や独特の風合いをみることができる。発見といえば大げさになるが、町並みを高台からみると、赤瓦の屋根がつらなり、他都市の伝統的な町並みにはない、独特の色彩、明るさがある。赤はインドのような熱帯性気候に映えるものの、吹屋は標高500㍍の中国山脈の東端の麓にあり、冬は雪が積もる。赤と白の町を一度、訪ねてみたいものだ。
  町並みからはずれるが、吹屋で訪ねたいのが広兼邸。銅山経営で財をなした庄屋の旧宅であるが、庄屋宅のイメージとはかけ離れた山を背後にした豪壮な石垣のつくりに驚く。熊本城の石垣を連想してもらえればわかりやすい。江戸末期に2代目元治が城郭を思わす石垣、楼門、長屋、母屋を建てた。映画「八つ墓村」のロケはここで行われた。砂の器のスタッフが2年がかりで制作した。渥美清扮する金田一耕助が広兼邸の坂道を登っていく冒頭シーンは、横溝正史の世界のプロローグにぴったり、あてはまった。

     

  吹屋の帰りは備中高梁に立ち寄った。日本有数の山城で名高い松山城下町。現在の高梁は明治以降の町名である。高梁川を天然の堀に仕立て、臥牛山に築かれた天守は山城では唯一の重文指定を受けている。5万石ながら幕末に老中首座になった板倉勝静の時代に明治維新を迎えた。勝静には悲運の宰相の称号がつく。天守までの40分の道筋で維新敗者の経過を思い起こした。
  松平定信を祖父とし徳川家の血筋をひく勝静は幕府と運命をともにした藩主である。会津藩主、松平容保と双璧の存在であったといってもいい。東北諸藩と維新政府に抵抗、敗れて幕府の脱走兵と行動をともにして北海道へ渡る波乱の生涯を送った。老中で函館まで行ったのは小笠原長行の二人しかいない。長行は唐津藩主の長男である。勝静の友人であった勝海舟は「時代が違えば、稀代の名君になったであろう」と、回想している。勝静は函館から脱出、周囲の助命嘆願のかいあり、死罪を免れたが、徳川慶喜の暮らしぶりを耳にして「死んだ幕臣に申し訳がたたない。あのような人に仕えたのが情けない」と、最後まで気骨は衰えなかった。

     

  一方、藩主不在の松山藩無血開城し、維新政府に明け渡した。天守からのぞむ城下は旧武家屋敷と高梁川の船運で栄えた町家が並ぶ。その町をど真ん中をJRが汽笛を鳴らして通り過ぎた。

  メモ 吹屋の魅力は宿。小学校を模したラ・フォーレ吹屋は学校隣に建ち、人気がある。秋は紅葉とライトアップの学校が浮かびあがり、お目当ての観光客も多い。もう一軒のお勧めは吹屋から車で15分の『元仲田邸くらやしき』。旧家を改造した地元運営の宿で、お座敷でお膳料理がでる。名物のキビ、山菜料理は地元の主婦たちの手製になるが、プロの味に負けない。部屋は蔵を改造した和風、洋風様式もあり、かつ料金は割安である。