第60回 大震災から半年、叡山から、はるか東北をのぞむ

   〜最澄に思想的転換をもたらした奥州・心の旅〜


 京阪電車石坂線はうなぎの寝床と呼ばれる、細長い大津を北端から南端まで伸びている。北の駅が坂本だ。南、正確には南東になる駅は石山寺である。途中に三井寺がある。比叡山は地元にいると、毎日ながめる風景であってのぼることはまれである。残暑のすきまから漂う秋に誘われ、坂本まできた。坂本は延暦寺の里坊で、天台座主はじめ叡山の執行僧が居を構えている。標高848㍍の叡山には京都側は八瀬から、滋賀県側は坂本からいずれもケーブルカーが山頂と麓を結んでいる。観光客、参拝客の多くは八瀬からのケーブルかドライブウエーを利用して行くが、坂本のケーブルには僧衣の姿と乗り合わせ、琵琶湖を眼下に登る情緒は大津の名物と思っている。

 ケーブルの無い時代には、坂本からの道を表坂といい、駅手前の登り口から叡山宿院まで約3キロ㍍の道を1時間半かけて登った。途中、100㍍ごとに石が並び、休憩所も祠も残っている。なかでも『かなめの宿り』は

 唐崎の松は扇の要にて 漕ぎゆく舟は墨絵なりけり 慈鎮

 と歌によまれた。しかし、運動不足の身では、登るには、体力もさることながらまず心の準備がいる厳しい道だ。頭は山道歩きを勧め、足はケーブルに向かい、迷ったすえ楽な道を選ぶ。昭和2年開設のケーブルは東洋一のうたい文句の長さを10分で山頂駅に着く。

     
            坂本ケーブル

 比叡山は京都、滋賀の境界に位置し、延暦寺は大津が住所地である。京都と大津をまたいで歩く。成り立ちは他の山と異なり、琵琶湖を含む近江盆地京都盆地が陥没して取り残された山。峰々から下ったあたりが平坦で、この准高原ともいえる地形を利用して、後に東塔や西塔、横川の各堂党が建てられた。

 もともと叡山は日吉大社の神体山で、山岳信仰の地になっていた。比叡山に仏教の足跡を残したのは、最澄が最初ではない。奈良期に藤原鎌足の息子、不比等の4人子どものうち、南家を継いだ武智麻呂は奈良時代、近江守として近江を押さえ、比叡山に庵を開いた。山岳信仰の聖地に仏教の足跡を残した始まりは、藤原氏一族であった。

 最澄桓武天皇の庇護(護持僧)を受けて、奈良仏教に代わる新教派、天台宗を旗あげするが、和気清麻呂と息子、弘世、平安期の摂関政治の基礎を築いた藤原冬嗣桓武が臣下の藤原内麻呂の妻に産ませた良岑(よしみね)安世ら藤原一族が後ろ楯になった。藤原氏中臣鎌足が近江京で天智天皇から藤原姓を受け、代々、近江を基盤にして勢力を伸ばしてきた。近江とは縁が深い。

 平安遷都の理由のひとつは、政治に影響力のあった南都諸寺から距離を置くことにあった。新興、天台宗が当初、貴族仏教と揶揄された。最澄の志とは別に、朝廷、藤原氏らが仏教に求めたのは、安泰祈願の加持祈祷だった。桓武天皇は唐から帰国した最澄に、まず密教による加持祈祷をさせている。

 国宝の延暦寺根本中堂は、最澄が自作の薬師如来を安置した一乗止観院の後の姿である。当時、比叡山の麓、近江京跡に近い山中には、奈良諸寺と並ぶ天智天皇ゆかりの崇福寺桓武勅願の梵釈寺があり、寺勢を誇っていた。両寺とも南都六宗(華厳、法相,、律、成実、三論、倶舎)の教学道場として奈良仏教の影響下にあった。その山頂に庵を開いた最澄の心は天台宗こそ仏法の道という自負があったのだろう。

 根本中堂には本尊・薬師如来が安置され、秘仏になっている。最近では開祖1200年の1988年に扉が開かれた。この本尊前の釣灯篭に『不滅の法灯』がある。織田信長の焼き討ちで途絶えるが、三代座主の円仁が山形・立石寺に分灯していた火を叡山に移して今日まで照らし続けている。

     
            根本中堂

 円仁は下野(群馬県)出身で最澄を慕い、奈良から叡山に篭った。比叡山と東北は法灯で結ばれている。最澄にとっても奥州は、忘れがたい仏法の道だった。

 個人的な感想になるが、私は天台開祖時の最澄よりも晩年の最澄が心に残る。平安仏教は最澄空海によって開かれた。真言密教の開祖と天台密教開祖の二人は後世の歴史でも比較されるが、桓武天皇没後の最澄にとって晩年まで南都仏教と対立する苦難の日々であったのに対して、唐より一年遅れて帰国した空海は、南都諸寺とも友好を保ち、真言密教を広げた。若くして異例の東大寺別当に就き、真言院を開設している。

 最澄は奈良仏教の姿に異を唱え、決別するが、歴史書や教科書などは堕落した奈良仏教と、いまも批判の的にしている。しかし、教学論争や経典解釈の奈良諸寺にあって多くの僧は、各地に旅していることを忘れてはならない。古くは行基がいる。衆生救済の道である。誰のために仏教はあるのか。あまねく人のためは、釈迦の教えであり、インドに旧来諸派を批判して生まれた大乗仏教の原点である。

 インドにおける上座、旧来仏教諸派は釈迦の直接教示に近い聖典を伝え、伝統的教理を受け継いでいた。一方、大乗教徒は国王、藩侯、富豪の援助なくして民衆から盛り上がった運動に支えられていた。日本における大乗仏教は旧来諸派同様に国家、貴族の援助のもとに出発した。教えは大乗、受け皿は旧来諸派と変わりがなかった。奈良期における旅の僧たちは、南都六宗のもとで大乗の教え、民衆との接点を求めた。空海が、弘法さんと親しまれ、各地に足跡を残したのも、奈良を離れ、布教した僧たちへのまなざしがあったからだ。

 最澄は教学論争で奈良に対抗するため、経典研究と修行を重視した。空海密教経典の借りる申し出は拒絶され、決別の原因になった。「あなたは修行の意味がわかっていない」とまでいわれている。最澄にも言い分はあるだろうが、やはり奈良を意識するあまり、あせりがあったとしか思えない。

 最澄の行動で際立つのが空海との決別後である。

 818年(弘仁8)、奥羽へ旅立った。平安京になって桓武、平城と続いた天皇は嵯峨朝になっていた。目的はある僧に会うためだった。51歳の旅たちである。最澄の思想的転換をもたらした旅という研究者もいる。

     
      徳一像

 会津福島県)の僧、徳一。徳一は藤原不比等の曾孫にあたり、父は藤原仲麻呂である。奈良末期、大師(太政大臣)として権勢をほしいままにした仲麻呂称徳天皇(女帝)と道鏡の政治と対立、反旗を翻した。道鏡はいうまでもなく女帝を操り、あわよくば天皇の座を狙った僧である。仲麻呂の乱で知られるが、失敗して逃げる途中の近江今津で捕らえられ、一族斬首になった。11男、徳一は幼少のため、東大寺に預けられ、法相宗の僧になるが、20歳頃、奥州へ向かった。父の最期が成長しても頭から離れかったにちがいない。

     
       磐梯山

 806年(大同1)、磐梯山が大爆発を起こした。猪苗代湖ができた噴火は耕地をことごとく奪い、地獄絵さながらの惨状だったと伝えられている。その中で民衆を助け、山を鎮める経を読む僧がいた。徳一。彼は磐梯山麓に慧日寺を建て、法相宗の教えを広めた。まぎれもなく衆生救済、大乗仏教の実践だった。会津では徳一大師と語り継がれる。徳一は論客でも知られ、奥州にありながら、南都六宗の象徴的人物だった。空海とも親交があり、真言密教への疑義を記した「真言宗未決文」を送っている。

 最澄は法相学の権威、徳一との論争に臨んだ。最澄はこの頃、経典研鑽だけでは衆生救済はできないことを気付いていた。皇室、貴族、僧を前にした教学論争ではなく、民衆と向き合いながらの論争は、どちらが真実で、どちらが権(仮の姿)であるかの三一権実(さんいちごんじつ)と呼ばれ、唐の天台宗法相宗の間でも永遠のテーマになっていた。

 俗に一乗対三乗といわれ、乗とは衆生を乗せて悟りに導く乗物をさしている。最澄は仏の真実の教えはひとつであり、誰もが仏の教えによって悟りの境地にいたる、と、説いた。徳一は、人はそれぞれ違い、差があり、それぞれに応じた悟りの道がある、と、譲らなかった。

 磐梯爆発から10年、家、家族を失い、生死をさまよい、ようやく落ち着きを取り戻した会津の人たちは、二人の仏法論争をどんな思いで聞いたのだろうか。1200年前の都から遠く離れた地で、僧と民衆が哲学を論じ、聞き入る姿を想像するだけで言葉を失う。政治家も僧も、学者もそして私たちも歴史から、古の日本人からもっと学ぶことがあまりにも多い。この論争は3年、続いた。

 最澄は旅を終えて叡山に戻ると、大乗戒壇設立を告げた。翌年、『天台法華宗年分学生式』を上奏した。晩年の最澄の著作は実に迫力がある。胸を射抜く。山家学生式(さんげがくしょうしき)ともいう教育制度の冒頭を飾るのが、『一隅を照らす』で有名な文である。

 国宝とはなにものぞ。宝とは道心なり。道有る人を名づけて国宝と為す。径寸十枚これ国宝に非ず。一隅を照らす、これすなわち国宝なり

 確信に満ち、気迫にあふれている。空海最澄の平安仏教の開祖は、喧嘩別れになったが、共通する境地にたどりついた。衆生救済、そのための学問、修行である。仏の道はいかに学問、修行しようとも、人生の経験や苦難を乗り越えることなくして歩むのは難しいことを教えている。晩年の最澄は、大乗の原点に返った。徳一との火のでるような論争、また、空海の厳しい手紙も影響したかもしれない。

 最澄は56歳で世を去った。死を前に弟子にいった。

 わがために仏をつくることなかれ、わがために経をよむことなかれ、わが志を述べよ

 最澄没後の比叡山から法然親鸞栄西道元日蓮など民衆救済の名僧が生まれたのも晩年の教えを円仁、円珍ら弟子が引き継ぎ、実践したからにほかならない。

 最澄の歌

 あきらけく 後の仏のみよまでも ひかりつたええよ 法のともし火

 不滅の法灯が大震災の東北を照らしている。