第62回 京都焼き物の町、五条坂

  〜炎は消えても、されど登り窯〜

  牛若丸と弁慶の歌に出てくる五条大橋を渡ると、道幅は8車線になる。京都では最大の道幅の通りが広がる。鴨川の東はなだらかな坂道が続き、五条坂の名がある。ここから清水寺につながる清水道までを五条坂と呼んでいる。京焼を代表する清水焼の産地である。

          

  地元の人は五条坂を通りとしてではなく、もっと広がりのある町、縦横の周囲1キロ以上の地域をイメージしている。陶器にたずさわる作家、職人、商売人の生活空間だ。

          

  五条坂と切り離せないものが40年前まであった。登り窯の煙である。東山の裾野の傾斜は登り窯に適していた。磁器のさえを出すには勾配をきついほうが良かった。大正期には窯元70軒が軒を並べたというから、煙のない日はなかった。
  京都といえば、なんでも古いと思いがちであるが、こと焼き物に関しては、歴史は浅い。室町時代に遡るが、京焼きが隆盛を極めたのは江戸時代である。陶磁器に合う土がなく、信楽などから土を持ち込む必要があった。全国から集まった陶工が各地の土を配合して焼いた。当時は粟田口、八坂、清水、御室に京焼きの窯元があり、江戸後期には清水焼が中心になった。信楽備前、立杭、唐津、楢岡、益子の6窯に比べて京焼は後発であり、しかも特徴のある様式、技法があったわけではない。
  清水焼の華やかな染め絵付は、江戸初期の野々村仁清が御室窯で焼き上げたのが最初という。仁清は丹波の人間で、瀬戸などで修行を経て、京の仁和寺前で窯を持った。当初は茶道具からはじめた。利休の侘茶の世界に、仁清は色と形、華やぎを導入した。正に画期的な手法であったが、利休以前の茶の世界は室町期の足利義満金閣寺に代表される東山文化の流れを受けて豪華な道具を競い合う書院茶、雅な場になっていた。能、歌を楽しむ社交の集いに茶を出した。つまり仁清は革新ではなく、室町復古を茶碗に描いたのである。器に名前をいれたのも仁青だった。
  仁清の弟子の尾形乾山清水六兵衛、高橋道八、奥田頴川、青木木米らが京焼を全国に広めた。五条坂には清水六兵衛の窯が残る。同じ頃、九州・鍋島の肥前窯で色絵装飾が完成している。東西の窯元で色絵が登場、世界に飛躍する始まりになった。

          

  清水六兵衛の家は五条坂の中ほどの南にある。江戸期は今のように南北を分断する道幅でなく、向かいの軒を接する通りであった。職人、匠の町として繁栄した。
  陶磁器を焼き上げるまでに多くの専門化集団の手を経る分業化で質を落とすことなく生産性を高め、文化の産業化に成功した。この要になったのが登り窯である。登り窯は個人所有ではなく、共同窯のため、文字通りの同じ窯の飯を食む職人社会を形成する一方、ロクロと小さな作業場さえあれば、陶工として自立できた。匠たちとの交流を通じて技を磨き、焼き上げれば販路はできていた。京都に志を持つ陶工が集まり、多様な焼き物ができていく。
  京都といえば、家元と一門、師匠と弟子の縦社会とみられがちであるが、焼き物に関しては登り窯に集う同人意識が強かった。それが京焼の幅と深みを生んだ。
  五条坂が拡幅されるのは昭和20年、戦争末期になってからだ。1200戸を取り壊して疎開させ、空襲にあっても京都全域に広がるのを防止するための措置。昭和20年1月、東山・馬町が空襲を受け、34人が死亡している。これが京都空襲の最初で、以降、数回の空襲があったが、東京、大阪など大都市に比べて無きに等しい空襲経験であった。
  南北に分断された五条坂界隈は、戦後、伝統派と革新派の大きな流れができた。伝統派は仁清らの染め絵付の継承であり、革新派には柳宗悦河井寛次郎らの提唱する『民芸』と八木一夫が主宰する前衛陶芸、走泥社のグループに分れた。現代陶芸のオブジェが五条坂から誕生した。
  伝統と革新がぶつかり、競い合う陶芸界は、活況を挺した。登り窯は茶道具からオブジェ、染付、青磁まで炎の中に包み、酔うがごとく絶妙のゆらめきで焼き上げた。
  河井寛次郎の窯は五条坂の南にあった。空襲を受けた馬町の一角で、現在は記念館になっている。寛次郎は明治23年、島根生まれで、東京高等工業窯業科(現東京工大)に学ぶ技術者であった。卒業後、京都市陶磁器試験場で釉薬や中国陶器の研究を重ね、作陶活動にはいる。1926年(昭和1)に民芸運動に参画した。「有名は無名に勝てない」という有名な言葉を残した。真の無名は中国の無名の古陶磁にある、と、名ではなく物に、装飾よりも実用にこだわった。しかし、作品には簡素とモダンな趣があり、素朴さを重んじたわけではなかった。初期は中国の古陶器の影響が強く、中期は簡素な造形に釉薬の技術を駆使、美しい発色の器を生んだ。後期は高齢になるにしたがい、作風は奔放、形にとらわれなった。銘を入れず、文化勲章を辞退、海外のグランプリ受賞は知人が応募しての受賞であったが、窯炊きの人からすべての人がもらえる賞があればいい、と感想を語った。
  記念館はかつての自宅と作業場である。室戸台風で壊れた自宅を登り窯の構造に見立てて設計、建築した。寛次郎にとって登り窯は、仲間たちと語り、創作する炎の家だった。今年は生誕120年を記念して各地で展覧会が開かれている。

          

  登り窯は1971年(昭和46)大気汚染防止法による規制を受け、改良を加えながら、最後まで残った窯も80年(昭和55)に消えた。五条坂周辺の住民から洗濯物が汚れるなどの苦情が殺到し、窯元は宇治や山科へ移転する一方、登り窯に代わる電気窯、ガス窯が開発され、共同窯でなく個人窯の時代を迎えた。登り窯の廃止は、分業による共同体を形成した五条坂の終わりを告げていた。土を担いでやってきて窯の仲間になることができた京都であって京都的でない開かれた世界は姿を消した。職人地図を塗り替えたのである。
  戦後、伝統と革新の互いの炎が窯の中でぶつかり、窯出しの日、作家も職人もなにがでてくるかかたずをのんで見守った頃は、五条坂にとどまらず京都は創作活動にあふれていた。祇園御茶屋が前衛陶芸の八木一夫の器を使う冒険もした。松田道雄の「赤ちゃん百科」がベストセラーになるベビーブーム、梓みちよ歌う「こんにちは赤ちゃん」が大ヒットした。第36回の甲子園選抜大会では高校生が「こんにちは赤ちゃん」の曲で入場行進した。進取に富んだ時代だった。
  登り窯には専門の割り木をくべる職人がいた。坂口平作さん(故人)に登り窯反対運動のさなか、聞いたことがある。物干しの洗濯物がすすだらけになり、主婦たちが反対の先頭に立った。坂口さんは「時代の流れは覚悟している。それでも登り窯や、やめない」と、最後まで火を守った。坂口さんはアメリカ移住を夢見て石川県から費用づくりのため、五条坂の住民になった。仮の住まいのつもりが窯の炎とともにとうとう生涯を五条坂で過ごした。

          

  登り窯は昔話になりつつある。SLに似た郷愁から復活、または観光面での保存がいわれている。しかし、郷愁ではなく、五条坂が保守派、革新派でしのぎを削った昭和30年代の陶芸の炎を忘れてはならない。消えてなお、あの炎を生き生きと語りかける五条坂であってほしい。

     メモ
  陶芸家が通った料理屋がある。五条坂大黒町の「はり清」。徳川中期に方広寺の大仏殿近くにあった茶店が始まり。屋号は播磨屋清七からきている。夜は1万円から、昼は7000円前後。要予約。