第59回 松本清張を歩く その3 古代史・邪馬台国の風景


  松本清張から歴史は切り離せない。清張は現代史と古代史を好んで書いた。その理由を聞かれた清張は「古代史は資料が少なく、現代史は多すぎて整理されていないから、いずれも空白がある。歴史は推理の愉しさがなくてはいけない」と、答えている。
  清張は朝日新聞西部本社広告部勤務の小倉在住時代から北九州の遺跡を丹念に訪ね歩いている。芥川賞受賞の翌年、別冊文芸春秋12月号に考古学界の鬼才といわれた森本六爾をモデルにした短編「断碑」を書いた。考古学界で清張の名前をこの作品で知った研究者は多い。
  六爾は小学校の代用教員をしながら、独学で考古学を研究した明治の人である。妻の献身的な協力で日本の考古学に転機をもたらし、34歳で世を去った。在野の研究者は生涯、不遇であった。
  「稲作は弥生期あり」を発表、反響を呼びながら、市井の研究者のため、世間の評価は低かった。断碑とは欠けた碑、壊れた碑の意味である。清張は翌年にも在野の研究者をモデルにした「石の骨」を書いた。
  清張の在野に注ぐまなざしは優しく、学界に対する痛烈な批判と表裏をなしていた。
  邪馬台国をテーマにした短編推理小説「陸行水行」は「けものみち」を連載中の63年(昭和38)の作品である。流行作家の地位はゆるぎないものになっていた。
  邪馬台国はどこにあったのか。古代史最大のテーマに清張は挑む。
  66年(昭和41)、古代史学界が震動し、古代史に縁遠い読者までが邪馬台国に目を向けるきっかけになった連載(6月から翌年3月)が中央公論で始まった。
  「古代史疑」(単行本は68年)。清張が古代史を論じた最初の本である。57歳。
  明治以降の邪馬台国論の学説、研究史の経過を整理し、それぞれの説に論評を加え、北九州説を掲げて学界に殴りこみをかけた。40年代の古代史ブームはこの作品によって始まったといっても過言ではない。
  歴代の気鋭の古代史学者が清張のまな板にのり、学説をえぐりだされたから、反響を呼ぶのも当然である。「小説家としてではなく一人の学徒として邪馬台国論争に参入した」と、控えめであるところが、逆にすごみになっていた。
  改めていうまでもなく、邪馬台国に関する記述があるのは中国の史書魏志東夷伝の『倭人の条』である。俗に魏志倭人伝と称される史書には外国人の見た3世紀半ばの日本について千九百八十七字の記録が収められている。
  (倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼。)
  これは冒頭部にあたる。日本にはまだ文字が無い時代のためか、当時の邪馬台国についての文献はこの倭人伝しか残っていない。倭人伝が文献にある所在地や存在を知る唯一のものである。日本の邪馬台国研究は、この倭人伝を読むことから始まった。

     

  清張の古代史風景を書くにあたり、学者や研究者の「邪馬台国」を読み比べて気付くのは、学者の論文はなぜこれほど読みづらく、わかりにくいのか、だった。仏教東漸の企画・取材で指導を受けた西域学の藤枝晃京大名誉教授が「論文や研究書はいいものを読まないと、頭が混乱する。数読むのではなく、質のいいのを選ぶこと」と注意されたが、倭人伝解説も同じで、当方の理解力というか能力の低さもあり、ポイントを抑えることに難儀した。考古学者の森浩一同志社大名誉教授は、学生に清張の「古代史疑」を薦め、古代史の上田正昭京大名誉教授も清張の『古代史の空洞をのぞく』を古代史入門書にあげた。しかし、清張の古代史観はアマチュアの部類というのが学界評価の大勢であった。
  清張の『古代史疑』にある倭人伝解説は実に明解である。頭にストンとはいる。いい先生に数学を教えてもらった気分である。
  清張は唐津における文春講演会で「朝鮮から倭国に渡り、壱岐を経て邪馬台国へ行く最初の上陸地が唐津で、当時の名前は末蘆でした」と、紹介しながら、邪馬台国が九州のどこにあったかは興味がない、と、聴衆に肩透かしをくわしている。所在地をめぐる論争の元になった倭人伝の記述者、陳寿の創作が邪馬台国行程の距離・里数に含まれているため、文献の読み方でいかようにも推測でき、特定は困難なことを説明した。
  中国は後漢が滅び、魏、呉、蜀の三国時代を迎え、魏は華北の地を占め、朝鮮半島に近く、半島の中心部、帯方郡に太守を派遣、治めていた。韓流ドラマの時代劇『王女チャミンゴ』はこの時代を背景にした時代劇である。日本との交流は帯方郡を通じて行われ、倭国の位置、政治、風俗などの見聞報告をまとめたのが倭人伝だ。

     

  (倭に渡るには朝鮮の西海岸にしたがい、舟行し、海を渡ること千余里で対馬国に着く。大官を卑狗、副を奴母離という。絶島で周囲400里、千戸の家があり、海産物を食べて自活し、舟で南北に行き、必需品と物を交換している。さらに瀚海(対馬海峡)を渡り、『一大国』に着く)
  ここまでが壱岐までの記述で、末蘆国(まつら九州・松浦)までさらに千里、ここから陸地を東南に向かい、500里で伊都国(福岡・糸島郡深江付近)に着くと書いている。いずれも女王国に属し、郡使が滞在する地であり、戸数も2万戸にのぼる。東に100里行くと、不弥国(博多付近)があった。松浦から不弥までのコースについては、学説に異論がない。
  ここから先の文章の解釈が邪馬台国の所在地をめぐる論争を呼び、邪馬台国の九州説と大和説の分岐点になっている。清張が目をらんらんと輝かせて読んだ邪馬台国の風景が浮かびあがる。原文を清張の読み下しで
  (南、投馬国にいたる水行20日。官を弥弥と曰い、副を弥那利という。5万余戸ばかり。南、邪馬壱(台の誤り)国にいたる。女王の都するところ、水行10日陸行1月)
  魏志倭人伝では前半で邪馬台国の位置や倭国の暮らし、後半は鬼道をあやつる卑弥呼について触れているが、清張は漢文の素養をもとに原文を読み、独自の解釈を試みた。
  倭人伝に記された行程は、捜し求める女王の国の場所を特定する解く鍵になる。邪馬台国研究者は実際の地理と行程を比べて場所特定を試みるが、九州説、大和説とも一致しなかった。ここから倭人伝の原文を忠実に読むだけでなく、内容の真偽に目が向くようになった。清張は魏の使者たちが旅行者であるため、見聞に思い違いや勝手な解釈があること、通訳もおらず、字を持たないため、筆談もできず、十分な調査もしなかった。魏使は、魏の人間でなく魏が太守を置く朝鮮半島の人間で、倭人からの伝聞を思い違い、錯覚した可能性のあること、さらに中国人の中華思想からくる主観的解釈など倭人伝の倭国描写に疑問を持った。
  外国人による見聞と報告はいうまでもなく、面白く、興味を引く描写になりがちである。筆者の陳寿は『魏略』を資料にしており、転写の間違い、文字間違いが起こりうる、と指摘した。その前提で唯一の3世紀日本を記す文献をどう読み取るか。清張の研究史検証は、『日本書紀』から始まる。
  『日本書紀』は奈良時代の720年(養老4)完成の現存するわが国最古の正史である。第9巻神功皇后のところで、魏志倭人伝の記録を最初に取り上げた。
  (明帝景初3年6月、倭女王、大夫難升米等を遣わして郡(朝鮮・帯方)に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求めしむ。太守訒夏,吏を遣わし、将(も)って送りて京都に詣らしむ) 
  この文からは卑弥呼神功皇后と同一人のごとく読め、邪馬台国は皇后の都、大和という話に落ち着く。畿内説の出発は、実に奈良時代までさかのぼることになる。
  神功皇后仲哀天皇の皇后で応神天皇の母、熊襲の乱を抑えるため夫とともに遠征、福岡・香椎宮天皇崩御の後に新羅出兵して凱旋した伝承の人物。余談になるが、香椎宮は『点と線』の舞台であり、清張の推理小説には古代史ゆかりの地が事件現場でしばしば登場する。続いて500年後、北畠親房の『神皇正統記』でも神功皇后卑弥呼だと書いた。ところが室町時代の僧侶、周鳳が倭人伝の内容に疑問を持つ。倭国とか、倭種などの群雄割拠の表現が周鳳の歴史観である「当初から大和朝廷の統一した日本」と相容れなかったためである。
  邪馬台所在地論争は、日本人はどこからきたのか、国の成り立ちを明らかにすることとかかわっていた。
  江戸時代になると、魏志倭人伝の読解は歴史的視点から論じられた。新井白石が『古史通或(つうわく)問』で邪馬台国を大和と特定し、魏使が来たのは北九州であり、対立する狗奴国(くなこく)は南九州の熊襲国で、女王国の隣の狗古智卑狗(くこちひこ)とあるのは肥後の菊池彦と思われるとした。ここまで書くと、女王国は九州にあったことになるが、白石は九州の国王が卑弥呼を僭称、実際の女王国は畿内にあり、卑弥呼神功皇后説を踏襲している。
  白石は財政危機の江戸幕府の下で任用され、政治改革の辣腕をふるった。吉宗の時代になり、退官直後にこの著をまとめている。
  白石は罷免された後、畢生の著、幻の著といわれる『史疑』を書いた。古代史に精力を傾けた著は吉宗により、廃棄処分になった。実在すれば、古代史の教本になったはずである。
  白石没後70年の1784年(天明4)、福岡・志賀島から『漢倭奴国王』の金印(国宝)が出土した。日本が中国の正史『後漢書』に登場する奴国は「倭の最南端の国」とあり、光武帝に貢物を届け、金印を与えられた。その金印が1500年余を経て発見された。邪馬台国以前に北九州に奴国があったことは、文献と物証で確認され、奴国は現在の福岡市から春日市におよぶ那珂川流域の福岡平野にあたる。倭人伝の伊都国は西隣(現前原市付近)だ。

     

  清張の『古代史疑』は、白石の試みた古代史との格闘に自らも挑戦する意図があったのかも知れない。清張は翌年、廃棄されたはずの白石の『史疑』をめぐる殺人事件の短編を小説新潮に執筆している。白石は綱吉後の幕政建て直しで、多くの政敵をつくり、悪役イメージがあるが、歴史学者としての功績は輝く。逼塞した晩年には邪馬台国九州説を唱え、筑後国山門(やまと)郡とした。白石は文献から新たに発見したものは、何だったのか。清張をして古代史研究に駆り立てた白石「転向」であったと思う。
  白石の後は、本居宣長である。『古事記』こそ古代の正しい記述の信念を持つ宣長は、『日本書紀』が魏志倭人伝の引用により大和説をとっていることを頭から否定し、九州説を発展させた。
  彼は魏志倭人伝の行程にある伊都国までは間違いないが、次の奴国、不弥国、投馬国などは漢音、呉音、唐音をあてはめても該当する名前がなく、大和は筑紫より東に位置し、「南行」と矛盾する。「陸行1月」も月の字は「日」の字の誤りであり、陸行1日で大和にはたどりつけないから、地理的に邪馬台国は大和でないと、論じた。
  しかし、宣長魏志にある倭国の使者は九州の種族が神功皇后の盛名を語って女王卑弥呼名でひそかに遣わしたと、解釈をした。宣長の「陸行1月」の見解は、明治以降の研究者が唱えているが、元祖は宣長である。
  宣長は不弥国を応神天皇の生まれた伝説の地、筑前国宇瀰(うび)とし、投馬国は日向の都馬(つま)神社のあるあたりと想定した。投馬国は(つまこく)とも読む。宣長卑弥呼を女王から北九州の女酋長の地位まで下げた。白石、宣長の見解はその後の邪馬台国研究の基礎になった。
  明治になると、東京帝国大教授、白鳥庫吉宣長について「従来、素朴的に論じられていたにすぎなかったこの問題を、一挙にしてともかく科学的な研究の位置まで高めたものと言い得る」と、称賛する。白鳥は九州説の東大派の祖になる。一方、京都帝国大教授、内藤虎次郎(湖南)は、魏志倭人伝の方向の書き方が間違っていると考え、南行は東にすると、畿内説の説明がつくとした。以来、東大は九州、京大は畿内という学界の潮流ができた。この二人以外に多くの学者らが論争してきたが、白鳥、内藤の二人に代表されるといっていいだろう。
  しかし、清張は学界の研究に満足しなかった。「多くの学者が研究を積みながら、このていたらく」と、厳しく、古代史シンポジゥームで出席の学者と激しく対立した。古代史学界のリーダーだった井上光貞東大教授については、『古代史疑』で(助教授)の肩書で紹介し、訂正もしていない。このあたりにも権威や学界に対する清張の考えが垣間見え、井上光貞とは、一時、講演会、シンポジゥームで同席することもあったが、後に袂を別った。井上にとって清張は作家、歴史学のアマチュアでしかなかった。
  辛らつで、反アカデニズムの清張を快く受け入れられないとしても清張の歴史著作を「アマ」と、かたづけるならば、「プロ」と呼べる学者がどれだけいるか、疑問である。歴史論文を並べて比較、考証すれば、一目瞭然である。学歴の違いでしかない。
  朝日新聞は1977年(昭和52)、博多で主催した「邪馬台国シンポジウム」には、全国から600人のツアー参加者を集め、清張はむろん、井上、江上波夫(東大東洋文化研教授を経て古代オリエント博物館長。日本人騎馬民族説で著名)ら6人が発言した。パネラーの一人、直木孝次郎大阪市大名誉教授(古代史)は当時、畿内説の俊英で知られ、清張から「方法論が安易で都合の悪いところは別系統の資料でお茶をにごす悪いくせである」と、批判されていたが、学説の違いはあっても清張の理解者だった。その直木氏がシンポ舞台裏での清張と井上両氏の確執を、反アカデイズムとアマチュアリズムの相克とにおわせている。二人は2年後の朝日のシンポで同席するも翌年のシンポには清張の名はなかった。このあたりは朝日の学界への配慮としかいえない。新聞の悪いくせだ。
  『清張日記』(朝日文庫)には古代史に関するメモが多いが、その中で「学者の司会では互いに遠慮しあい、突っ込んだシンポジウムにはならない」と、こだわっている。シンポジウムでは清張の文献解釈が場をリードし、なかでも伊都国駐在の「一大率」を帯方郡派遣の役人とする新解釈が注目をあびた。従来の邪馬台国畿内説論者たちは大和派遣の官僚とみなし、大和が九州を勢力下に置いていた根拠のひとつにしていたからである。
  戦後、邪馬台国は文献研究の段階から発掘による考証にはいり、奈良・桜井市の纏向(まきむく)遺跡の発掘で大和説が勢いづいている。3世紀から4世紀のもので、倭人伝記述の時代にあっているからだ。同遺跡に包括される箸墓古墳は一時、卑弥呼の墓としてマスコミは騒いだが、「卑弥呼の死」(倭人伝)と、年代のずれがあり、それならば箸墓古墳の周辺にあり、と期待が集まるも進展はない。

  九州では吉野ヶ里遺跡がある。環濠集落の存在、望楼など発見された当時、邪馬台国発見と、話題になった。しかし、時代考証で九州説の決定打にならなかった。

   

  邪馬台国の候補地は、九州なら清張のいう筑後川下流、白石の筑後国山門(やまと)郡、白鳥の肥後、さらに日向から大隅半島まで広がる。
  清張は宇佐神宮についてもさらに研究の余地を残した。確かに奈良時代大和朝廷に影響を与え、神託で道鏡天皇即位を退けた権威はどこからきたのか、いまもって謎だ。大和説は大和川流域、纏向(まきむく)遺跡周辺が有力地あげられ、鉄器文化の分布が邪馬台国時代の弥生第5様式に該当し、九州説にない根拠になっているが、最近では近江・守山から吉野ヶ里に匹敵する環濠集落跡が発掘され、近江説も仲間入りした。野洲川東の丘陵からは多数の銅鐸が発見され、東海勢力を吸収した政権は大和と並ぶ力を持ち、大和こそ邪馬台国と対立した狗奴国という新説だ。清張存命ならびっくりの展開になっている。

     

  清張はこう書いている。
  (3世紀の中国人の見聞に触れたヤマタイ国は、女王ヒミコとともに、確かに、この日本列島のどこかに存在したはずである。畿内説をとるにせよ、九州説をとるにせよ、この列島における民族と国家をわれわれ個人が、いまあらためて、どのようなものとして構想するかということと、わかちがたく結びついているであろう)
  全国で名前のあがった候補地は50をゆうに超える。衝撃的な発掘まで遺跡は眠る。