第55回 やすらいの花、桜吹雪に被災地思う  荒城の月と豊後竹田・岡城址

  関西では桜が散り始めた。京都では桜の散る頃、今宮神社のやすらい祭(4月第2日曜)がある。鞍馬の火祭り太秦の牛祭りと並ぶ京の三大奇祭の名があるが、平安期の春、大水の後に疫病が襲い、災害と疫病払いの鎮花祭が始まりである。散る桜に昔の人は疫病など災難を鎮めることを託した。

  「散り急ぐな、やすらいの花よ」と、都の人は風に舞う花に呼びかけた。

  東北・関東大震災の春。おそらく関東ではいま、桜吹雪が舞い、余震が頻発していることだろう。

  花よ、大地の揺れを鎮めてほしい。風に舞う桜を目にして、遠く離れてこう願わずにはいられない。東北の桜はこれからだ。桜に寄せる思いが西から東へ移り、東北の花吹雪の頃は「やすらい」の祈りが届き、地の鎮まりを迎える北国の春であってほしい、と、琵琶湖のほとりで落花を見ている。

  さて旅である。震災の衝撃で控えていたが、再開したい。花吹雪に関連した旅で印象深いのが、九州の豊後・竹田(たけた)の岡城址の桜だ。九州新幹線の全線開通で大分と熊本を結ぶJR豊肥本線もイベント列車が運行されているが、豊肥線阿蘇カルデラ雄大な風景が展開する九州横断の鉄路である。全長2283mの坂の上トンネル、立野のスイッチバックなど鉄道マニアには、見逃せない仕掛けと景色に富む。JR線沿いは江戸時代、熊本藩の参勤交代の道筋になった。熊本と大分の中間、キハ系気動車竹田駅に近づくと、有名なメロデイーが流れる。「荒城の月」だ。

     

  作曲者の滝廉太郎は12歳の頃、父の赴任で竹田に移り住み、東京音楽学校(現東京芸大)に入学のため、上京するまでの2年余を過ごした。廉太郎の父は、豊後・日出藩の家老の家柄であったが、明治維新で上京して官吏になり、廉太郎は東京で生まれた。

  廉太郎は作曲の「荒城の月」について、竹田在住の子どもの頃、遊び、散策の場であった岡城址をイメージして作ったと述懐しているが、ドイツ留学して結核にかかり帰国して療養、息を引き取ったのも父親ゆかりの大分だった。廉太郎にとって豊後は彼の24年の短い生涯で懐かしい故郷にも等しい。

  廉太郎は荒城の月を岡城址に重ね、あの朗々たる調べを書き上げたが、作詞の土井晩翠は出身地仙台の青葉城をはじめ会津若松の鶴ケ城、岩手・二戸の九戸城などを詩の舞台にあげている。今回の大震災の被災地である。

  春高楼の花の宴 巡る盃影さして 千代の松枝分けいでし 昔の光今いづこ

     

  大分から熊本へ行く途中、夕方まで歩いた5年前の竹田の町と岡城址の桜がよみがえる。ちょうど4月のはじめ、桜が舞っていた。その情景が今年は、まだ見たこともない仙台、会津の桜と重なり、被災地にいずれ舞うであろう花吹雪を想像して胸が痛む。

  やすらいの花よ 大地の烈動を鎮めるべく、風に舞え

  竹田は九重連山傾山、祖母山などに囲まれた山の中の盆地で、岡城址は盆地の底にあたる旧城下町から見上げる高台にある。竹田駅から東の白滝川と稲葉川に挟まれた峻険な台地に石垣を築いている。大手門の直下には石垣がそびえ、石段が続くが、ここの桜が散る風情は、さながら空に描かれた渦のようだ。岡城は南北朝時代に大友氏の一族、志賀氏の居城になったが、秀吉に仕えた大友宗麟の長男義統が文禄の役で戦線離脱して豊後から追われると、志賀氏も城主の座を失い、代わって織田家旧家臣、中川秀成が6万石の城主に就き、大規模な造営に着手、高石垣を張り巡らした高楼が完成した。標高325mの溶岩台地は、石垣を支え、廃城の後も土台は堅固のままだ。6万石の石高よりも30万石の藩に匹敵する構えは名城に数えられ、城下を見下ろしていた。城内に重臣や藩主の居館があったのも特徴である。

  城の構えに比べて竹田城下は狭い。山間の盆地で広がりに限界があった。竹田駅から岡城址までを歴史の道と名づけ、散策道になっている。土塀の武家屋敷町、滝廉太郎の住んだ記念館、江戸時代の画家田能村竹田の旧宅などが並ぶ。廉太郎記念館には自筆の手紙、楽譜が展示され、数々の名曲の生まれる背景をたどることができる。

  山中の城下で名物は頭料理。海から80キロ離れた竹田にとって魚は貴重であった。足の速いサバやアジなど青魚は鮮魚で運べないが、アラをはじめとする大魚は足が遅いから、竹田までの道中もなんとか持ちこたえた。馬が運んだその魚を頭からすべてを食べる料理が頭料理である。魚のホルモン料理のたとえもある。江戸初期が起源というが、山間部で海の幸をおいしく食べる工夫と喜びは、各地に食文化を残した。

     

  頭料理は頭、ハラミ、胃、浮き袋、軟骨、顎、皮、肝などを湯引きして、適当な大きさに切り、三杯酢で食べる。全国に紹介されたのは戦後で昭和30年代というが、竹田では江戸時代から正月や祝い事には、ご馳走として珍重された。夏場は無理だから、秋から春の郷土料理だった。いまは、輸送手段がよくなり、鮮魚も海沿いと変わらぬ味わいが可能になったが、伝統の頭料理は竹田の名物として人気がある。最近はシーズンを通して食べさせる店もあり、高級料理になった。

  途中下車した駅への道、子どもたちが舞う桜の花を追いかけていた。カメラに収めたが、仕上がりは変哲もない写真。情感をカメラに注入できない力のなさをくやんだ。

     

  岡城址の桜はもうない。4月初めで散った。東北被災地の桜はまだ見ごろまでいかない。震災で花見自粛の県もあるというが、被災地こそ、古人が託したように花散る桜を「やすらい花」として、めでてほしい。ガンバレ日本の掛け声もいいが、散る桜に大地の鎮まりを祈る日本の原風景、日本人の心を世界に発信できるのはいまをおいてないからだ。