第54回 瀬戸内から南予へ、予讃線の旅

     〜「寅さん」の大洲から闘牛の宇和島

 春は九州新幹線全線開通が旅の目玉になっているが、混雑を避け、北海道とともに新幹線ルートのない四国在来線で南予宇和島へ向かった。坊ちゃん風にいえば生まれついてのへそまがり、流行の逆を行く。一直線のデジタルな旅よりもカーブが多くて、つながりの悪い在来線は、アナログの旅だ。

 松山で乗り換え、宇和島へは特急で1時間半、在来線なら3時間である。予讃線は、松山から山沿いのトンネル続きで内子から大洲にでる線と、瀬戸内をひた走る海回りに別れ、大洲手前で合流して八幡浜経由で宇和島に着く。この海回りの海岸美と段々畑、肱川と小京都の風景が道中に展開され、3時間の各駅停車も退屈しない。

     

 海沿いは長浜駅までの約30キロ。途中にある下灘駅は鉄道フアンなら一度は訪ねる無人駅である。すぐそばが海岸のため、日本一海に近い駅で有名になったが、高低差もあり、評判ほど近くはない。瀬戸内対岸の山陽本線岩国―柳井間の電車の方が海沿いを走っている気がする。映画「男はつらいよ」、キムタクドラマの「ヒーロ」舞台にもなった。青春18キップのポスターを飾ったのもここだ。

 知らない駅を一人、降りてホームのベンチに座り、海を眺める構図は、甘酸っぱい青春の香りに満ちている。中でも車窓から見る夕日の素晴らしさは、枕崎線とともに甲乙つけがたい。学生時代か、卒業してからか、定かでないが、朝日ジャーナルのコラムである作家が実にロマンチックな随筆を書いていたのを覚えている。

 60年代のアメリカ。留学生が西部の町を旅して、とある駅の近くで地平線に沈む夕日を目にした。あまりの荘厳さに、途中下車した青年は、そのまま町に住み着いたという内容だった。書いた作家もさることながら、読んで「いいな、いいな」としびれた若者もまたアメリカンドリームに憧れていた。夕日は人を感傷的に、衝動的にする。真赤な色が日没寸前に緑色に変わる時もある。西欧ではこの緑色の夕日を見ると、幸福になるという伝説があるらしく、フランス映画で若い女性が南仏をひとり旅する「緑の光線」のタイトルにもなった。下灘の無人駅には、過去、数多くの旅人が途中下車したにちがいない。

 下灘から20分で長浜。ここから列車は肱川に沿って山間部へカーブする。長浜の西は伊方を経て佐田岬に通じ、関サバの漁場、豊予海峡である。大洲は暴れ川、肱川が大きく蛇行する山間の城下町。朝霧は名物だ。寅さん19作目「寅次郎と殿様」の舞台である。寅さん映画はすべてとはいわないが、大半を見ての感想をいえば、私のもっともお気に入りの作品。前述の下灘駅のベンチでむっくり起き上がるところから始まり、寅さんは大洲へ向かう。殿様役は嵐寛寿郎、執事三木のり平、マドンナは真野響子。アラカンとのり平、渥美の組み合わせは、間(ま)の取り方、会話といい、秀逸だった。真野は20歳代の頃で、若くして夫に死に別れ、結婚に反対した夫の父、アラカンと対面する役柄。舞台の大洲城下とドラマの展開に引き込まれ、特に真野の演技に心ときめかした。寅さん映画のマドンナでは、浅岡ルリコと真野の二人が最高と今でも思っている。

     

 大洲から宇和島までは1時間半。宇和島の町は、背後に鬼ケ城山(1151㍍)がそびえ、長く伸びた町並みは宇和海に接している。かつては海の中に城があった。浅井長政、秀吉、家康に仕え、築城の名手として定評のある藤堂高虎が最初に手がけた城である。高虎は今治へ移っても山城を居城にせず、海沿いに築城、海水をひいた堀をめぐらした。近江では琵琶湖岸に膳所城の設計しており、山城よりも水に浮かぶ要塞を好んだ。高虎後は仙台藩主、伊達政宗長男秀宗が城主になり江戸、明治と伊達家が治め、遠浅の海を埋め、現在の市街地になったが、宇和海に浮かぶ日振(ひぶり)島(しま)は、平安時代には京都朝廷を揺るがした藤原純友の乱の根拠地であり、宇和の反骨精神は山と海の狭隘な地域に受け継がれてきた。

 宇和島伊達藩10万石の藩主では5代、村侯(むらとき)が有名である。全国300諸州屈指の名君の評価があり、産業政策から学問まで改革を進めた。外科医を長崎に派遣してオランダ医学を導入するが、幕末には長崎オランダ商館医師シーボルトと遊女タキの間に生まれた娘、いねが宇和島で日本初の産科医師になるきっかけをつくった。いねは父が追放されたあと、弟子の宇和島蘭学者二宮敬作に預けられ、学問を学び、藩主妻の診療や明治天皇の第一皇子の出産にも立ち会った。身長は高く、目の青い、鼻筋の通った美人で知られた。

 宇和島駅前に牛のブロンズ像が立っている。宇和島は闘牛が名物だ。全国には岩手の久慈、新潟の小千谷・長岡、隠岐、徳之島、沖縄とともに闘牛が盛んである。起源は鎌倉時代とも江戸期ともいわれる。宮崎の口蹄疫発生で闘牛は中止していたが、今年は1月2日、恒例の正月場所が開催された。獅子文六南予・津島町の疎開生活で『てんやわんや』『大番』などの名作を残したが、闘牛に熱狂する地域と迫力ある牛の突かに描いた。

     

 闘牛専用のドームで、化粧回しをつけた1トン余の牛の土俵入りに始まり、20頭の牛によるぶちかましが繰り広げられる。ガツンという音、牛の雄たけびは、ドームを興奮の坩堝に変える。逃げたら負けのつき合いは2時間に及ぶこともある。こればかりは、現地で見ないことには、わからない。横綱同士の相撲になると、場内は騒然となり、手に汗にぎる勝負が続く。

 『てんやわんや』の闘牛くだりはこんな風だ。

 「あ、先生、いまお迎えにきたところですらい。今日は、戦後初めてのツキアイがあるけん」

 「なんのツキアイですか」

 「ツキアイいうたら牛にきまっとるぞなし」

 戦後、駐留軍は一時、闘牛を禁止した。地域民の興奮ぶりや賭けの対象になったためだろうが、戦犯で南予へ身を隠した主人公が闘牛に出会う復活の日の会話である。闘牛は1月、4月、7月、8月、11月の年5回の本場所があり、観光用の闘牛も人数そろえば見ることはできる。

     

 闘牛、城散策のあとは名物料理をかきこむ。鯛めしだ。宇和島の鯛めしは炊き込みでなく、刺身をあつご飯にのせ、タレをかけて食べる。伊予でも松山に行くと、鯛の炊き込みご飯を鯛めしといっているが、宇和の鯛めしは、日振島が発祥の地という。猟師たちが酒盛りの後、食べたのが広まった。しかし、一般に普及したのは新しく、戦後の話で観光ブームがきっかけになった。もうひとつ、珍味は「セイ」。亀の手というが、岩場にしがみついている姿を想像してほしい。セイを料理屋で出すのは、全国で宇和島ぐらいだろう。爪のところから皮をはぎ、白身をたべるが、グロテスクな姿とは程遠い、美味である。手は汚れるが、次から次へと、進む。酒の肴にぴったりだ。

 松山から宇和島まで予讃線沿線。ローカル線紀行では、5指に入れたい旅である。