第53回 「お江」のふるさと近江・湖北

  ==東西政治と文化がせめぎあう関ケ原==

  浅井三姉妹の末娘、江が主人公のNHKの大河ドラマが新年からスタートした。彼女の生まれた小谷城など湖北の舞台は初回で終わり、これからはドラマの節々での登場になるだろう。ドラマの性格上、歴史や背景説明に時間をかけるには、制約があるだろうが、三姉妹がふるさとを離れ、数奇な運命をたどる原点である湖北について解説がほしかった。そこでこの回は湖北を旅しながら、姉妹につながる不思議な歴史の糸、東西文化融合の湖北と浅井氏を紹介したい。

  冬の湖国は気候が北と南では極端に違う。日本海型の雪雲の帯が福井県境から岐阜県境にかけて湖北を覆うから、積雪もはんぱではない。北端の集落は北陸に匹敵する豪雪地帯である。この日本海型は長浜、彦根、安土に来るに従い、瀬戸内型になる。ちょうど安土が気候の分かれ目だ。

  湖北のシンボル伊吹山(1377㍍)は山に囲まれた近江の中でも頭ひとつ出た最高峰である。連峰でないからひときわ、その姿は目立つ。古代から信仰の山として知られ、古事記日本書紀にも登場する。なだらかな裾野の岐阜県側が関ヶ原だ。狭い谷の一帯が天下分け目の戦いの場に選ばれた理由は、東国から近江へはいる大軍が集結する唯一の地のためである。天智天皇の近江京が廃都になった壬申の乱においても、吉野で挙兵した大海人皇子(天智弟)軍は、いきなり近江へ迫らず、迂回して伊賀・伊勢を経て美濃へはいり、体制を立て直して近江を西下、近江京のある大津へ向かった。

      伊吹山

  関ヶ原は吉野軍の主流になった濃尾豪族と指揮した高市皇子大海人皇子の長男)が合流した天下分け目の地。この伊吹山の麓には関ヶ原の戦いの400年前、鎌倉・室町時代、近江の北半分を治めた守護京極氏の山城があった。

  京極氏というのは、頼朝が任じた近江守護佐々木定綱の子孫で、鎌倉御家人であったが朝廷から検非違使、左衛門尉を任され、出雲、隠岐、飛騨の守護も兼ねていたから、室町幕府の後ろ盾として京でも勢力を持ち、近江を拠点にしていた。佐々木氏は兄弟で近江を分けて支配し、京極氏の名称は江北の佐々木家の京屋敷が京極にあり、また江南の本家・佐々木氏の住まいは六角にあったことから、佐々木六角、京極と分けて呼ばれるようになった。南北朝時代から室町幕府成立時に朝廷、足利尊氏を巧みにあやつり、実権を握った京極道誉の時代が全盛期になる。

  京極氏には室町期中ごろから内紛が起こる。いわゆる下克上の嵐だ。六角氏と近江の覇権を争う京極氏は内部で跡目争いに巻き込まれる。家臣が京極高清の長男と次男擁立で分裂、長男側についたのが浅井長政の祖父浅井亮政である。亮政は京極家の実権をにぎり、小谷に築城すると京極親子を城内に住まわせ、浅井氏が湖北の支配者になった。下克上の草分け的存在が浅井氏だった。長政は何事も融和第一の父、久政とは、対象的な剛毅な祖父に似た気性の持ち主で、家臣の信望厚く、父を無理やり隠居させて家督を継いだ。

  下克上で実権を握った浅井氏家臣にとって、優柔不断な主を交代させることにためらいはなかった。まさに戦国の世、親兄弟、家臣入り乱れる国取り物語が始まった。

  織田信長桶狭間で勝利した1560年(永禄3)、長政は16歳で父に、代わって小谷城の主になった。破竹の勢いで勢力を伸ばす信長と、長政は運命の糸で結ばれていく。京極氏の本家であり、近江の覇権を争った六角氏は、美濃・斉藤義龍(道三の息子)と同盟を結び、信長、長政を牽制するが、長政は数の上で勝る六角、義龍を破り、信長は若い長政に注目する。三姉妹の母、市との縁組だ。縁談は信長が積極的で、ゆくゆくは天下を二人で治める約束があったと、浅井三代記は書いている。

  長政にとっての不幸は、この縁談の影で隠居させた父と、家臣の一部が反織田で動いたことだ。市、三姉妹との生活や信長との同盟関係の裏で家臣の一派が目を光らせていた。いつでも首をすえかえる密談が進み、父、久政がその後にいた。

  信長の突然の越前朝倉攻めで、長政と信長の友好関係は崩壊した。世渡りにたけた武将なら一息いれて織田の出方を見守るところであるが、長政は果敢に反織田の旗をあげ、三姉妹の波乱の運命が幕をあげた。江は小谷落城の年に生まれている。

     
               小谷城下と小谷山

  浅井三代は長政の死で幕を閉じるが、三姉妹は大阪、江戸、近江と東西に分かれ、日本史に名前を残した。それは北近江が東西文化の接点である歴史に導かれたような旅路である。三姉妹の生まれ育った湖北は、天下分け目の関ヶ原に近く、また食べ物にしても江戸風と関西風がここを境に大きく分かれる。江から話は横道にそれるが、美濃と近江の国境を歩いてみたい。

  米原市山東町長久寺地区。近江の東端にある旧中山道沿い集落である。家は道に沿って細長く連なり、隣は岐阜県・今須地区だ。山、川が境界の近江で例外ともいえる国境の町で雑煮にまつわる面白い話を聞いた。雑煮は関西が丸餅・味噌仕立て、東日本は角餅・すましが相場であるが、長久寺は丸と角、すましと味噌雑煮に混在している。道であったお年寄りはこともなげに「昔は丸餅やったかな。今は角や。町全体では角のほうが多いのと違うやろか」と、説明する。もともとは関西風の雑煮であったが、岐阜側から嫁をもらい、また嫁に出しているうちに丸と角が混在していく。岐阜側から来た主婦の数と角餅派は比例していた。湖北は食文化の分岐点でもある。

  京極家に仕えていた浅井氏と東国・尾張織田家の婚姻。京風と東風が行き交う地で江たち三姉妹は生まれた。父母亡き後、生き延びた先は、偶然と呼ぶにはあまりにも鮮やかな、一人は東に、一人は西に、そして近江へ落ち着く。茶々と江は有名であるが、意外に知られていないのが二女の初。初の夫、京極高次は、長政の姉の子、つまりはいとこ同士で、高次は小谷城内に築かれた館、京極丸で生まれている。母は後に安土で宣教師オルガノより洗礼を受け、京極マリアを名乗った。高次は浅井氏滅亡後、信長に仕え、本能寺変後は明智光秀のもとにはしり、秀吉に追われて越前・柴田勝家を頼り、勝家のあとは妹の婿、若狭武田に居候する。戦国を渡り歩いた。ところがその妹が秀吉側室になり、秀吉から許され、初を妻に迎えた。実妹と妻姉がともに秀吉側室という閨閥は、湖西の大溝1万石、近江八幡2万8千石、大津6万石という大名への道を開いた。

  信長、秀吉とも名門京極氏の家柄を利用して天下統一の足場にしたともいわれるが、関ヶ原の戦いでは、妻の姉茶々、妹江の間に挟まれ、心揺れるが、最後は東軍に味方して小浜8万5千石の大名に栄転した。

  男の世界に見える戦国の世であるが、高次を見ていると、女の旅路もまた男たちの出世街道につながっていたことがよくわかる。

  浅井氏につながる歴史の糸は三姉妹ばかりでない。浅井滅亡後、信長、秀吉の陣に加わった石田三成片桐且元脇坂安治藤堂高虎小堀遠州ら江北の男たちも浅井氏の糸で結ばれる。湖北を振り出しにした男たちの旅路は、三姉妹同様にふるさとの国境で東西に分かれ、明暗を描いた。

  湖畔に立って見る琵琶湖。まぶしいばかりの湖面のさざなみは、湖北に生まれ、育った戦国男女のおののき、哀歓をただよわせている。