第52回 『マレビト』来たりて  能登の海と折口信夫

  今年もあとわずか、新年が必ず来る。旅の一年の終わりと始まりをどこにするか迷うところだ。国内に限らず、旅して、海や山、川を前にして「われわれはどこからきたのか」と、ふと、思うことが多くなった。古希まで2年の年齢が感傷を呼ぶ。あるいは「もっと若いうちから考えるべきで、遅いな」という指摘も受けた。その通りである。

  12月初め、能登半島を旅し、国文学者で歌人折口信夫の足跡を踏みしめ、能登の海を見ながら折口の生涯のテーマでもある「マレビト(客人・神)」の美しい響きを波音にかぶせ、改めて「マレビト来たりて」に思い起こした。マレビトは稀に来る人、客の意味から来ている。波路はるか、尋ねくるマレビトこそ、日本人の祖先崇拝、民俗信仰の根幹をなしていると、民俗学と国文学を融合した折口学を拓いた。

     

  能登半島の基部に位置する羽咋市。金沢から延々と砂浜が続き、能登千里浜の地名がある。もし、鳥になって大陸を飛び立ち、日本海を渡るなら、人が海に向かって両手を大きく広げた形の陸地に気づくだろう。西の端が丹後半島なら東端は能登半島になる。もし、魚になって九州から北上する対馬暖流に乗れば、半島付近で南下した寒流に出会うことになる。この羽咋から北はリアス式海岸の切たった岩場に変わる。松本清張の「ゼロの焦点」の舞台でおなじみだ。

  羽咋は、それまで続いた千里浜が弓状にでっぱり、くぼみになっている。古代の旅はここに安息の港を求め、あるいは上陸して陸路の旅に切りかえた。砂丘に石の鳥居が建っている。能登一の宮、気多(けた)大社の一の鳥居である。本来の玄関は海に面していた。

  気多大社の名が見える文献の最初は「万葉集」巻第17の大伴家持越中守として能登巡航した天平20年(748)、参詣したさいに詠んだ歌

     之乎路(しおじ)から直(ただ)越え来れば 羽咋の海 
     朝凪ぎしたり船楫(かじ)もがも

  大国主命(おおくにぬしのみこと)が祭神である。出雲から300余の神々、眷属(けんぞく)をひきつれ、能登の魔王、大蛇を退治した故事によるが、砂丘と白波打ち寄せる能登西海は伝説の因幡の白兎神話を彷彿させる。能登に春を呼ぶ平国祭は、大国主命が拓いたという2市2郡300キロを神幸の列がゆく行事で、地元では「寒さも気多のおいでまで」と、沿道は行列を迎える人たちでにぎわう。

     

  大社南、砂丘の松林一角にある墓地に折口信夫、春洋の親子が眠っている。父子といっても血のつながりはない。春洋は気多大社の寺家町に実家があった。折口が羽咋を初めて訪ねたのは、40歳の時だ。教授していた国学院大学生らと門下生の藤井春洋の実家に立ち寄った。この旅が折口と春洋の結びつきをさらに強くした。二人は同性愛の関係にあったというのが通説で、折口の師であり、民俗学のライバルであった民俗学者柳田国男は折口と弟子たちの関係に苦言を呈しているが、折口は同性愛を卑下することもなかった。

  折口の学風は柳田国男の弟子でありながら、異なっていた。柳田の歩いた旅先を回りながら、文献や聞き取りよりも日本人の魂の源泉を求めた。心の旅だった。

  昭和3年、折口は慶応大学教授に、春洋は11年、母校国学院大教授になり、父子は国文学をきわめ、歌を詠んだ。折口は太平洋戦争末期の昭和19年、春洋と縁組、父子になった。

  墓石の碑文にはこうある。

  もっとも苦しき たたかいひに 最も苦しみ 死にたる むかしの陸軍中尉折口春洋ならびに父信夫の墓

  春洋が金沢で召集入隊したため、折口は養子の届けを出したのが縁組経過になるが、春洋は昭和20年、硫黄島付近で戦死した。享年38歳。折口は日本海を見晴らせる砂丘の松林に墓を立てた。大阪出身の折口にとって春洋の生まれた能登は故郷同様の地であった。
  折口は硫黄島慰霊団に同行した記者から戦地の惨状を聞いて以来、体調を崩した。芸術院賞後は、春洋の歌集の編集に取り組むも、昭和28年の夏、幻覚に見舞われ、9月3日、66年の生涯を閉じた。はげしい雨の降り注ぐ12月13日、遺骨は春洋の眠る墓に納められた。

  気多大社の二の鳥居そばに二人の歌碑がある。

  けたのむら わかば黒ずむときにきて とほき海原のおとを聞き居(お)り 迢空

春畠に 葉の荒びしほどすぎて おもかげに師を さびしまむとす 春洋

     

  気多大社の祭祀は多い。かつては74もあった。暖流と寒流が遭遇する地形は民俗資料の宝庫だ。折口が砂丘に納骨された翌日の12月14日は鵜祭のための鵜が七尾で生け捕りにされる日。鵜は神になり、鵜は籠に入れられ、白装束の鵜捕部(うっとりべ)が背負い、2泊3日かけて気多へ運ばれるが、道中では地域の歓待を受け、「鵜さま拝まずして新年は来ない」と、鵜籠の周りは人だかりが絶えない。師走の能登の風物詩である。16日深夜、灯火以外の火が消された境内で鵜は神殿に放され、本殿の台に止まると、神職が吉兆を占い、鵜を一の宮海岸で海へ帰す祭りだ。海岸の波うち際に放された鵜は、しばらく首をかしげ、思案したのち、夜空に飛び立つ。鵜を迎え、送る氏子たちはどよめく。

  マレビト(神)きたりて、去る。折口は鵜の姿にそんな思いを込めたのだろうか。

  柳田国男は鵜祭を古代の祭りの形式を残しており、日本の祭りの原型ともいった。折口と柳田の民俗学の違いを感じさせる鵜祭見聞であった。

     

  気多大社には「入らずの森」と呼ばれる神域がある。社殿背後の自然林は3・3㌶におよび、立ち入り禁止になっている。神職でさえ、大晦日の夜、1年1度だけ、松明を灯して森にはいり、祭儀することが許されている。森の中は中心部にスダジイタブノキ、カラタチバナ、ムベなど暖地性植物が群生している。日本海側の暖地性植生の北限の地である。

  冬の日本海から吹きつける風雪を暖地性植物がさえぎり、社殿を守ってきた。直感を重んじた折口が暖地性の照葉樹であるタブノキから思いめぐらしたのは、波路はるか、魂の故郷、『マレビト』だったかもしれない。