第51回 仏像の源流をゆく その2 インド・マトウーラ

  ガンダーラが先か、それともマトウーラのほうが早いのか、仏像誕生をめぐる学術論争は、決着していないが、インドでは当然ながらマトウーラ説が定着している。しかし、疑問も多い。「ほぼ同時期に仏像は両地域で生まれた」とする見解が研究者の間では主流になっている。では、インド・マトウーラとはどんな地域なのか、訪ねてみたい。

  マトウーラはデリーから南南東145キロの中インドにある。ガンジス川の支流のヤムナ川西岸に位置し、中インドの最も西北部にあり、中インドの中心部とガンダーラのほぼ中間になる。西海岸にでる貿易ルートもここから分かれ、交通の要衝として栄えた。


 商業ばかりでなく、マトウーラは古来から宗教都市であった。インドの経済発展は、いま、IT分野ですさまじいばかりであるが、私のでかけた頃は、アメリカのシリコンバレーでインド人技術者が注目されて間もなく、まだインド国内では今日の芽が出た段階で、インド航空に勤務する友人から「インド人の数学的な頭はすごい」と、指摘されても、0(ゼロ)発見の民族の歴史と重ねる程度の関心にとどまっていた。シリコンバレーで活躍のインド人技術者は母国に戻り、南インド高原都市バンガロールを世界有数のIT都市に変貌させている。

 当時はITよりも、釈迦聖地を訪ねる目的のため、今日のインドの姿を予想もしなかった。むしろ、太陽の光に映える色彩豊かな民族衣装と香りに目を奪われ、原色の色に鼻と舌が反応する味わいをインドで初めて実感する体験をした。



マトウーラは交通の要衝のため、6世紀以降の異民族や異教徒による破壊を受け、仏教遺跡は地下に埋もれ、発掘もガンダーラのような組織的、学術的な形はまれで、その経過がマトウーラ仏像の起源に影を落としている。

マトウーラは紀元前後に西北から侵入のサカ族(シャカ族)の支配下になり、続いてクシャーン朝の時代になる。ガンダーラをはじめ、中インドまで支配したクシャーン民族は造形に優れ、多くの工人たちが移り住んだ。特にカニシカ王の時代はマトウーラの美術が繁栄したことが発掘遺跡や遺品からわかる。カニシカ王の時代は仏教、ジャイナ教ヒンドゥー教の宗教活動も活発になり、各種の石像彫刻が発掘されている。その中には仏陀・菩薩像の仏教彫刻のほかにヒンドゥー神像なども含まれている。

仏像制作の時期はカニシカ王3年の銘のある仏立像や、さらに様式が古いといわれる仏座像から紀元1世紀前半と研究者は考証し、ガンダーラと同じ時期か、むしろ早いというのがマトゥーラ起源説の理由になっている。


マトゥーラ仏像は、ガンダーラに比べてふっくらした純インド的な顔、形をしており、インドの学者でマトゥーラ起源説を唱えたクマーラスワミーは仏像以前からあったヤクシー神像をモデルにして生まれた、と考証している。ガンダーラ仏像の写実的な様式は影を潜め、赤砂岩の造形によるインド独自の様式をそなえている。ところが後にガンダーラの影響のある仏像がマトゥーラでも発掘され、この解釈が論争を複雑にした。

ガンダーラ仏像は人間に近い顔、形から、耳が大きい、いわゆる仏像の容貌に変化しており、マトゥーラはこの変化を継承したと、いえなくもない。これに対してマトゥーラ派は、マトゥーラ仏像はもともとインドの神像を先例にしており、ガンダーラ仏像の変化が影響したとしても、仏像誕生から後の話と反論する。




結局、話はなぜ仏像は釈迦入滅後、数百年して生まれたのかに戻らざるをえない。

仏像制作の契機になったのはなにか、である。ガンダーラギリシャ、ローマ文明との出会いがタブー視されていた仏像造形につながった。簡単にいえば、ギリシャ・ローマ彫刻の肖像に刺激された匠たちが釈迦の姿を形にしたという説明になる。仏像を求めるエネルギーは仏教徒に高まっていたとしても、その殻を破るには充分ではなかった。外からの要因が契機になった。


釈迦とその弟子たちが説いた仏法は、邦訳の教えをなんど読み直しても、私には理解を超える哲学であった。例えば、有名な大乗の教えのひとつ、空(くう)の論理。「去ったものは去らない。いまだ去らないものも去らない。去りつつあるものも去らない」の意味するところを考え、堂々めぐりのすえ、おぼろげながらわかったと思うと、またわからなくなる。この繰り返しであった。ゼロの発見も空の思想と無関係ではないだろう。後にゼロ発見の哲学、論理思考に優れたインド人であっても、釈迦の教えを受け継ぐ弟子たちの説話は、難しかったに違いない。釈迦は話す相手によって説法を変え、わかりやすく教えを説いたというが、弟子たちのその後の教義は一般信者には難解であった。

信者の多くは信仰の対象になる形、いうまでも釈迦の姿を信者は求めていた。しかし、約500年の長い空白が仏像誕生まである。異民族の侵入、定住の時代になって仏像が生まれた。ガンダーラ仏像誕生の時代背景、経過は確かに説得力がある。

マトゥーラはガンダーラに比べて純インドの地域である。仏教の戒律ははるかに厳しく、継承されていた。同じクシャーン朝下にあっても仏教徒の置かれた環境は異なっていた。そこから仏像を生み出すにはガンダーラ以上の創造力がいる。ヤクシャー、ナーガの民族信仰の神像が早くからつくられ、さらに仏教教団の思想的変化、民衆へ広がりを時代背景に求め、外的要因でなく、インドの内なるものから仏像が生まれたというのがマトぅーラ起源説の答えになるが、ほぼ同時代にガンダーラとマトゥーラで仏像が外部要因と内部要因から造りだされた説明は、やはり文化伝播から疑問が残る。ただ文化伝播とは別に、地球上において交流のなかった地域で同じような文化が創造された例は多いから、断定はできない。

時代の空気が仏像を創造した、というしかない。文化の受容・変容にこだわるよりも、学問的、合理的説明できない人間の心、力が生んだ遺産こそ仏像である、と、いまは思っている。空の論理、ゼロ発見のインドは取材の旅から20年後の現在、ますます謎めいた魅力と発展の可能性を感じさせる聖地である。