第50回記念 仏像誕生の旅その1 ガンダーラをゆく 

  この企画は始めてから50回を数える。1年のつもりが2年、そして3年というぐあいに延びてここまできた。ステアク江口編集長やアクセス数のバックアップあればこそ、と感謝している。今回は50回を記念して仏像の源流をたずねたい。安土城の回で仏像に誕生について仏教美術史の視点から指摘を受け、ガンダーラ、マトウーラ論争を再現したい思いもきっかけになった。

  私が西域からインド、パキスタン旧ソ連領であった中央アジア、さらにヨーロッパの取材をしたのは20年前である。政治状況は変化してもアフガンをのぞけば遺跡に大きな変貌はないと、聞いている。また仏像の起源をめぐる新たな発見もない。20年前の取材ノートをひっぱりだして、資料を読み返して、仏像の起源を再検証する旅の面白さを味わっている。

  仏像がなければ仏教がアジアに広がったどうか疑問である。また美術史において、これほど多彩な像はない。文化の受容と変容による仏像をうみだした人間の心、技術、風土に感嘆せざるをえない。

  では、まいりましょうか。釈迦生誕の地から仏教東漸の道の旅へ。

  

  パキスタンイスラムバード空港の警備はものものしかった。インド国境をめぐる紛争が影をおとしていた。銃を持つ兵士がいたるところに立っていた。テロが頻発する今は、それ以上の厳しさかもしれない。

  ガンダーラは古代インドの西北にあり、インダス川源流にはカラコルム山脈、西にはヒンズークシ山脈がそびえている。現在のアフガニスタンの一部、パキスタンペシャワール県の一帯が古代のガンダーラ地域になる。西北インドは、内陸アジアのシルクロードから分かれ、パミール高原を経て、インドにはいる交通の東西交通の要所になっており、インドで生まれた仏教の東漸ルートの道、つまりは仏像の道の出発点でもある。

  現在はインダス川沿いにカラコルムハイウエー(650キロ)が中国国境までのびている。ハイウエーというと、高速道路を想像するが、渓谷を走る、実にスリリングな道で、ここを結構な速度で車が往来する。道は赤茶けた崖のような斜面を巻くように続いている。

    カラコルムハイウエーのフンザから中国国境に近い高地

  西北インドは東西交通の要所であったから異民族の侵入を受けた。ガンダーラが歴史の舞台に登場するのは、紀元前6世紀からだ。ペルシャのアケメネス朝の属州になり、前4世紀末にはアレクサンドロス大王の東征があり、大王はガンダーラを征服後、1ヵ月も滞在している。その後、バクトリアアフガニスタン北部)にギリシャ人植民地ができた。ギリシャ系の子孫は西北インドにはいり、インドを百年余統治している。前2世紀には、サカ族(中央アジアイラン系遊牧民)、パルティア族(中央アジアからペルシャ湾岸を支配)、クシャーン族(中央アジア遊牧民)が相次いで支配した。

  特にクシャーン族は東西文明の交易に積極的で、ガンダーラが繁栄、仏教が隆盛した。

  仏教遺跡はタキシラ、スワトーなど各地に分散している。そのひとつ、カラコルムハイウエーのほぼ中間にあるチラスの岩絵から、仏像誕生の道にはいりたい。

  チラスはカラコルム登山の基地としても名高いギルギットの手前の町である。民家はずりおちそうな斜面に並び建つ。道沿いの岩に磨崖仏が刻まれ、さらに離れた岩に不思議な絵が刻まれている。仏塔に手足を書き込み、仏塔を擬人化した図柄。パキスタンの考古学者は仏陀の姿を仏塔から導いている、と解説した。釈迦の骨を納めた仏塔に釈迦の姿を見るのはごく自然な人間心理という解釈だ。

  釈迦の生まれは諸説あって、紀元前483年から563年と百年の幅がある。29歳で出家、80歳で入滅している。インド各地を回っているが、ガンダーラには釈迦の足跡はない。入滅時期はガンダーラに異民族の侵入が始まったころである。入滅後、弟子たちは教えにしたがい、偶像崇拝を認めず、教義を重んじた。仏教でいう涅槃は、釈迦の死と理解されているが、釈迦の死は入滅であって、涅槃は死後に到達できる理想の境地をいう。人間の形でなく、精神の世界を表し、釈迦の姿は礼拝の対象にならなかった。この教えは数百年余、守られたが、信者たちは仏塔、法輪、あるいは菩提樹などを崇拝した。それでも世俗の信者たちは仏塔を崇拝しながら、信仰の対象を釈迦に求め、その姿を脳裏に描くのは自然の成り行きだった。

  寺院から遠く離れたチラスの岩絵は、おそらく当時の信者たちの心の表現であったのだろう。仏像はいつ、誕生したのか。記録はない。ここからが考古学者や美術研究者の出番だ。

  地元インドでなく西洋の研究者たちが競ってガンダーラの遺跡発掘や研究に訪れた。

  古くは19世紀末に英国の元インド総督副官で、インド学者のアレクサンダー・カニンガムがイスラムバードから西北35キロのタキシラの発掘調査したのが最初である。

    ガンダーラ仏像

  タキシラは岩絵のあるチラスのインダス川下流にある。続いて英国人の考古学者ジョン・マーシャルが1913年から20年余発掘にあたった。余談になるが、ヨーロッパ諸国がシルロードの西域に探検隊を送り込んだのは20世紀初頭だった。西域探検隊は壁画をはじめ数々の仏教遺跡から壁画などを持ち帰り、多くはヨーロッパの博物館に展示されている。中国政府は、現在も探検隊の行為を批判し、外国の単独調査を認めず、遺跡の壁画などを持ち帰らなかったスエーデンの地理学者ヘデインのみが発掘の功績を認められている。私たちの西域調査は日本人で初めて本格的な西域調査し、仏教東漸の道を踏査した西本願寺の21世門主大谷光瑞の足跡をたどることが目的でもあったから、ウルムチの中国政府関係者の間で、大谷光瑞をめぐる論争があった。中国側は光瑞もまた西洋の探検隊と同様に遺跡を破壊し、文物を持ち出した「魔鬼」であると、非難した。私たちは「光瑞は仏教者として玄奘三蔵ら中国の僧が歩いた道を踏査したのが目的であり、美術収集は付随したものであって、それも仏教研究の資料になっている」と反論したが、中国側の態度は硬かった。

  ガンダーラも例外ではないが、タキシラには博物館があり、発掘資料の多くは保存展示されている。マーシャルの発掘が評価される理由でもある。

  タキシラの仏教遺跡から仏像の起源を考察したのはフランス人のフーシェである。アレクサンドロス大王の東征いらいのギリシャ系文化と仏教文化の融合がガンダーラで行われ、ギリシャ仏教美術が発生した、と推論した。 

  その後、異論、反論もあるが、フーシェの考察は、ガンダーラ美術研究の軸になっている。ただ、西方影響説は、文化の伝播は西からきたという西欧文明史観が色濃い点に留意する必要がある。

  では仏像はいつ誕生したのか。断定できる資料はない。紀元1世紀から2世紀というのが定説になっている。ガンダーラは紀元1世紀から5世紀までクシャーン民族の支配下にあった。イラン系の民族はアフガニスタンからインドに進出し、2世紀前半には中インドを治め、クシャーン王朝の時代を築いた。仏教に帰依し、仏教美術が花開く。中でも2世紀前半のカニシカ王治世下が仏像誕生の鍵になった。クシャーン民族は美術に優れ、アフガンのオクサス美術、ガンダーラ美術、さらに中インドのマトゥーラ美術を生み出している。このころ、西方、ヨーロッパはローマ時代にはいっており、ガンダーラ美術をめぐるギリシャ影響説とローマ説の論争の因になった。論争は仏像の起源でガンダーラ通説から、新たにマトゥーラ起源説を呼び起こした。

    マントゥーラ仏像
  
  パキスタンペシャワール。クシャーン朝の冬の都があった。いまは自爆テロが頻発するアフガンとの国境の都市である。アフガンはカイバル峠隔てた至近距離だ。ここのバザールのにぎやかさは傑出しており、貴金属製品の豊富なこと、特に24金の装身具が目をひく。みやげに買ったネクレスは、妻の愛用品で、猛暑のこの夏はひときわ輝いた。

  このペシャワールの中心街に博物館がある。パキスタンではラホール博物館とともに仏像所蔵の宝庫だ。この博物館にカニシカ王の舎利容器から発掘の仏像三体(複製)が展示されている。容器を台座にして中央に釈迦、左右の脇像が並ぶ。舎利容器におさまるから小さいものだが、この仏像が論争の源になっている。素人が見ても気づかないが、仏像は、荒削りのため、これが文化の創作初期に見るプリミテズム姿なのか、それとも文化の後退期に現れるデカダント姿なのか、欧米学者の意見がぶつかった。

  初期の仏像は釈迦を表現しているが、どの仏像も刻印などむろんなく、髪型、容貌、衣、耳、などから、時代考証して識別されている。人間の顔に近いのが仏像初期で、その後は耳が大きくなるなど人間から離れた容貌に変化していく。仏の姿だ。カニシカ王の仏像は唯一、時代を特定できる仏像といえる。

  カニシカ王は2世紀前半の王のため、まず仏像は2世紀には誕生していたことになる。しかし、文化の創作後退期の仏像なら、仏像はもっと早い時期に創作され、古くは1世紀末までさかのぼってもおかしくない。わずか100年余の幅であるが、ガンダーラ美術はギリシャ影響起源説に軍配があがる。1世紀ならローマの影響がガンダーラまでまだ届いていないからだ。

  逆にカニシカ初期とすると、ローマとの交流は始まり、ガンダーラがローマの影響を受けていたという見方ができる。さらにタキシラのクシャーン朝初期(1世紀)といわれる遺跡からは仏像やその断片すら発掘されず、ローマ説に勢いをつけた。

  アメリカのベンジャミン・ローランドがフーシェギリシャ影響説に反論し、強く主張した。続いてゴルベウが仏像ガンダーラ起源説に異を唱えた。カニシカ舎利容器の仏像を文化初期のものとして、この時代にはマトゥーラで仏像が生まれていた、と発表したから、学界は揺れた。さらにインドのクマーラスワミーが「仏像はガンダーラとマトゥーラで同時期につくられた」を提唱、オランダのヴァン・ロハイゼンがマトゥーラ仏像の時代考証を行い、「ガンダーラより半世紀早くマトゥーラで仏像は誕生した」という衝撃的な発表をした。インドでは、以後、この見解が一般化し、欧米のガンダーラ起源説と並んで研究が続いているが、日本ではガンダーラ説の研究者が多い。

                        次回は宗教都市マトウーラと仏像