第49回 球音と絵画が伝える戦争の爪痕

『君を亡くしただけでも戦争は悲惨である』
(サトウ・ハチロウ)

  猛暑である。8月は戦争を語り継ぐ旅にしたい。戦争の舞台でなく、家族や恋人、友人たちの思い出の中に生き続ける青春と、鎮魂への思いを伊勢、信州の旅のメモから綴った。

  沢村栄治。不世出の大投手。球速は160キロを超えていたというプロ野球の選手である。15年前、沢村栄治没後50年の企画で伊勢・宇治山田を訪ねた。

  沢村栄治の故郷だ。メモには「駅前は眠くなるような暑さに包まれている」とあるが、余りの暑さに気の遠くなる意味で書いたのだろう。駅から15分ほど歩くと、沢村の母校、明倫小学校がある。沢村の名前は故郷の子どもの頭から遠ざかる。かつての同級生が記念アルバムを作り、後輩たちに沢村を伝えた。長谷川三郎さんはこの中で書いている。

  沢村君、後輩たちのために今こそ、心静かに母校のグランドに立て

  壁にボールを投げ続けた頃の姿になって南の海から戻ってこい

  昭和19年12月2日、沖縄へ向う輸送船もろとも東シナ海に沈んだ。27歳。

     
     沢村栄治

  沢村栄治は青果商の息子に生まれた。病弱の父を助け、子どもの頃から大きな自転車に野菜を積み、配達していた栄治の姿を仲間たちは覚えている。あの野菜運びが足腰を鍛えたのではないか、と、話題になった。沢村は伊勢から、当時、開校間もなく、無名の京都商業へ進学する。沢村と子ども時代からバッテリーを組み、京商へともに進んだ山口千万石さん(2003年没)は、沢村の祖父が京都に住み、その関係であった、と語っていた。京商は沢村のワンマンチームで「バックスイングを大きくとり、左足を空中高くあげる独特のホームから投げる球は速かった。受けるのが難しかった。サインどころの話ではない。ドロップは直角に落ち、ミットはいつも地面すれすれに上向きに構えて、ドロップを捕球した」という。ただ天才というよりも、努力家が仲間評である。つま先で歩き、いつも手を動かしていた。春、夏の全国大会に出場した。予選での対平安戦は、平安応援団対沢村の戦いといわれたほど過熱した。京商に在学しながら、17歳で全日本のメンバーに選ばれた沢村は静岡・草薙球場で来日したアメリカメジャーチームとの最終戦のマウンドにたった。

  あのベーブルース、ゲーリック相手に三振をとり、一躍、ヒーローになった。

  ゲーリックは三振した球の速さに驚き、以降、直球狙いから変化球打ちに打撃改造したという逸話が残っている。

  日米野球がきっかになり発足した大日本東京野球倶楽部(現・巨人)に入団、大投手の名声を得た。戦争で沢村は2度、徴兵され、手榴弾を投げる戦闘で肩を壊して復員、プロのマウンドに立つが、もはや往年の球威はなかった。

  巨人から解雇通告を受ける前、沢村は福岡・春日原球場での冬季キャンプに参加、現役続行の夢を捨てなかった。キャンプの帰りの車中で買い込んだカステラを仲間と食べようとしていた沢村は、矢部川駅で乗ってきた親子に出会う。親子は空腹のためか、元気なく、沢村はカステラをすべて親子にやり、同僚たちは目を見張った。

  3度目の徴兵の赤紙が届き、沢村は沖縄戦に向う輸送船の人になるが、昭和19年12月、米軍の攻撃を受けた輸送船は沈没、帰らぬ人になった。サトウ・ハチロウは沢村の死を悲しみ、悼む詩を残している。

  ところで沢村より3歳下のプロ野球投手がいた。石丸進一。佐賀商業を卒業後、名古屋に入団して投手として注目された。兵役を遅らすため、日大夜間部に入学するも、学徒出陣で兵役をよぎなくされた。

     
     石丸進一

  石丸は海軍航空隊を志願した。数多くのプロ野球選手が兵役に着いたが、特別攻撃隊に志願したのは彼一人である。小説や映画で取り上げられた彼の出撃前のひとこま、ひとこまは、野球への情熱に満ちていた。終戦の年の5月、鹿児島・鹿屋における出撃前、石丸は法政大の本田耕一とキャッチボールをする。「最後のキャッチボール」で有名だ。石丸は5月11日午前6時55分の出撃直前、突然、ゼロ戦の風防をあけた。ハチマキをはずし、愛用のボールと一緒に地上へ投げ捨てた。

  特攻のシンボル、日の丸のハチマキをはずした石丸の真意に、想像をめぐらせば、いろいろ浮かぶが、本人しかわからないと、ここではとどめておきたい。ただ無念の思いだけは確かだ。彼の気持ちがこもるボールは見送りの隊員に投げ返された。

  ハチマキにはこう筆書きしてあった。

  われ人生24歳にてつきる

  太平洋戦争では沢村ら69人のプロ野球選手が戦死した。東京ドームの片隅には戦死した選手名を刻んだ追悼碑がたっている。

  スポーツ選手の戦死は、戦後の節目でとりあげられる機会も多いが、戦没学生の画学生になると、関係者以外の目が向くことはまれである。画学生であるだけで、兵役で上官の目は厳しかった。その彼らが家族や友人らに書き送ったハガキや、生前の絵画を展示する美術館が信州にある。

  信州上田。真田幸村の居城の地である。アルプスの山並み、上田城下、千曲川の風景は信州を代表する景観にあがる。美術館は千曲川を見下ろす高台にある。「無言館」。重い重い名前の美術館は太平洋戦争で戦死した画学生の作品300点を展示している。無言館をつくった樺島誠一郎(父は故水上勉)さんは全国の画学生の遺族を回り、作品、遺品を集めた。館内には自画像、女性のデッサン、風景画などの作品が並び、戦争とは無縁な素材なのに、来館者をくぎづけにする。画学生が自由に描けた日々から一転した激戦の地での殺戮は想像を絶している。画学生というだけでにらまれ、戦地へ送られた学生もいた。作品鑑賞のあとに読む戦地からのハガキの数々は、どれもが淡々と近況を伝えながら、余白がないほど字で埋まっていた。生き延びたいという心の内と、絵にはない無念が行間からにじんでいた。自分の明日はないのに、家族はむろん、恋人の身を案じ、切々と綴る一言一句が胸を射抜く。

     
     無言館

  館内を出て千曲川を眼下にするテラスに出る。年輩の女性が一人、座っていた。まるで力が抜けたような後ろ姿は、忘れ難い。おそらく長い時間、座ったままなのだろう。ハガキの受取人であった婚約者であったのかも知れない。

  帰りに松本の旧開智学校へ立ち寄った。重文の建物に気をとられ、見逃していたパネル展示の中の頭に手ぬぐいの小学生が輪になった「子守り教育」の説明文が目にとまった。  学校に行けない子守り奉公の子どもが学校の周りに集まり、体操のまねや唱歌を口ずさんでいるのを見た当時の教師のひとりが、簡単な授業をしたのがはじまりと書いてある。

  素晴らしいつくりの校舎に負けない、まるで映画のシーンのような信州教育の原点、子守り教育の美しい発端が目に浮かぶ。明治の教育現場のまなざしと志は、山並みと競うかのごとく、高く、まぶしかった。気心知れたグループの旅もいいが、信州は過ぎし日に浸る一人旅の地である。