第48回 来年の大河ドラマ舞台をゆく その2
琵琶湖畔に築城、城下にイエスズ教会の鐘
織田信長は浅井長政の小谷城を落とした1573年(天正1)、室町幕府足利義昭将軍を追放するが、もともと義昭は上洛した信長によって兄の義輝の後継になるも信長にとって傀儡にすぎなかった。反発した義昭は叡山、石山本願寺(大阪)、甲斐武田や浅井・朝倉と手を結び、信長に対抗した。
姉川合戦に勝利した信長はまず石山本願寺を攻め、翌年には反信長の拠点になった延暦寺を焼き討ちした。近江はまさに火の海になった。信長により焼かれた近江の寺は30ケ寺を越える。本願寺と叡山に関係する寺はことごとく火の粉をかぶった。
小谷落城から3年後、信長は安土に築城した。安土は琵琶湖湖畔にあり、対岸の湖西地区と結ぶ線は近江のセンターラインに位置し、この線の北と南では、冬の気候は日本海型と瀬戸内式気候に分かれる。東海道線で米原に始まる雪もようが、安土を境にぴたっと止む不思議さはよく話題になる。京に近い、商業地として繁栄する大津や草津の湖南を避け、湖畔の田舎町、安土を選んだ信長の読みは実に鋭く、深い。この安土山つながる南東に繖笠山(きぬがさ・標高433m)がある。この山には六角氏の居城である観音寺城がそびえていた。六角氏は信長に滅ぼされるが、近江源氏の血をひく名門。近江守護であるとともに西日本一帯に影響力がおよび、多くの公家、僧侶が応仁の乱で荒廃した都を逃れ、六角氏のもとに避難したこともある。
この佐々木六角氏の城下に石寺の町があった。戦国期、六角氏の肝いりで楽市楽座が開かれた。日本で最初の楽市楽座といわれ、石寺の地名がいまも残る。安土築城の10年前まで石寺の楽市には近江はもとより各地から商人が集まり、にぎわった。安土山は石寺から3km北の湖畔沿いにあり、繖笠山とは双子の山。琵琶湖につきだすようにのびていた。
標高は190mで観音寺城より、はるかに低い。古地図によれば、大手門と東門は陸続きながら、山は半島の形をしており、当時は南面を除いて琵琶湖に面していた。
琵琶湖の水運を利用すれば、京も北陸、美濃も距離的にほぼ同じ距離になる。安土築城は琵琶湖の水運を抜きには考えられない。ただ現在は埋め立てで往時の姿が変貌し、安土山は山と田園に囲まれ、琵琶湖に浮かぶ天主(天守)の姿は、県立安土城博物館の復元模型からイメージするしかないのが残念である。
安土城に関して謎は、繖笠山の観音寺城は安土城の東にそびえ、安土城天主や城下を睥睨(へいげい)する立地になっており、天下布武の信長は毎日、見上げなくてはならない。信長の誇り高い性格や戦略上から当然、連なる山城は廃城にするところだ。しかし、信長はそのまま残した。仮に、観音寺城が敵方に落ちれば、安土は孤立する。信長の真意は、後世の歴史家をしても謎である。信長にとって城の守りよりも攻めしか頭になかったのか、それともいずれ日本城郭史上、例のない双子の巨城を構える意図があったのか、安土の石垣に問うしかない。
信長がキリスト教の布教を許した宣教師ルイス・フロイスは「日本史」(Hisutoria de Jaoam)の中で信長人物像を記している。
『長身、痩躯で髪は少ない。声は甲高く、常に武芸を好み、粗野である。正義や慈悲の行いを好み、名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術巧みであるが、部下の進言に従うことはほとんどない。酒を飲まず、自分をへりくだることない』
フロイスは安土築城の13年前、日本に上陸、京で信長に会い、僚友オルガテイノとともに布教にあたった。フロイスは安土の楽市楽座の賑わいも記録している。信長が安土に楽市楽座の掟書を発布したのは城郭が完成した1577年(天正5)である。天主完成は2年後になる。
安土には「セミナリヨ跡」という公園がある。1581年にオルガテイノが設立した神学校の跡と伝わる。楽市の城下町に教会の鐘が鳴り響く。信長がセミナリヨでオルガンの演奏も聞いた記録もある。『信長公記』は、湖面隔てた長命寺の鐘の音が夕方になると聞こえたと記し、安土は東西文化を象徴する鐘の鳴る城下だった。
仏教伝来の奈良時代をほうふつさせる安土の町だった。異質な出会いが文化を生み、育む。仏像はギリシャとアジアの融合するインド・ガンダーラ、マトウーラで誕生した。いずれもアレクサンドロス大王の東征以来、ヘレニズム文化の影響を受けた地域である。
セミナリヨ跡公園
釈迦は偶像崇拝を禁じたが、後世の人たちは釈迦を慕い、教義だけでは満足せずに信仰の対象になる姿を求め、仏像を創造した。フランスの考古学者はギリシャを父に、インドを母にして仏像は生まれたと解説している。再び、歴史に「もし」の禁じ句を使うなら、安土における信長時代が続いていたなら、政治、宗教、都市計画など日本はまた違った国の形になっただろう。安土を歩く大きな楽しみは、いつも「もし」が頭をよぎり、想像の世界に時を忘れることだ。
宣教師たちは日本での布教に自信を持ったにちがいない。よもや、後に迫害の歴史が待っているとはかんがえてもいなかった。信長はこの年、安土城を描いた屏風絵をイエスズ会に贈っている。この屏風絵こそが安土城を描いた現存する唯一の絵である。狩野永徳の作といわれ、ローマ法王に献上されたが、まだ見つかっていない。
安土城は本能寺変後、炎上し、信長の夢は完成からわずか3年で姿を消した。
現代になって安土城の復元はなんども計画された。ところが文献の資料はあっても、肝心の絵がない。資料から推測の域をでないため、立ち消えになった。この屏風絵の存在を関係者が法王庁に調査にでかけ、探しているが、行方はわからない。
安土築城の頃、お市と茶々、初、江の親子は越前、柴田勝家の下で暮らしていた。勝家は越前から安土往還のため、近江最北の難所、栃の木峠を整備、安土への道にしていた。明智光秀は安土の西南の湖畔、坂本に城を構え、秀吉は北東の長浜である。すべての道は水陸とも安土に通じていた。
信長の死は平穏な暮らしを取り戻した市と3姉妹に別れと波乱の運命の始まりになった。勝家が拓いた栃の木峠越えの道は、後日、皮肉にも秀吉の勝家攻めの最短ルートになった。
安土城跡の大手道は直線的な石段が約百五十mも続く。つまり大手道から天主の眺望が可能な設計になっていた。石段の両脇には織田家の武将の邸宅が段上に並んでいた。ここにも守りを意識しない信長の城づくりが表れている。
安土城大手口
光秀は本能寺変の1582年(天正10)6月2日から3日後に安土城に入城するが、城の留守居役、蒲生賢秀、氏郷親子は、迎え討つことを避け、信長側室や子どもを伴い、居城のあった日野城(鈴鹿山麓)へ退去しており、勇猛で戦略家である蒲生親子をしても、城を守ることは難しかった。光秀は3日間、安土城主に座るが、8日には安土を離れ、上洛している。城には光秀の娘婿、秀満が残った。
光秀は13日、京都近郊の山崎で秀吉軍に敗れ、敗戦を知った秀満はあっさり、14日、安土を去り、坂本に戻った。安土城で戦端は開かれなかった。攻め手が天主まで一気に駆け上ることができる構造では戦いにならないという判断があったにちがいない。
安土城炎上は15日である。秀満が去るにあたり城下に火をつけ、その火が飛び火したという説もあるが、発掘調査から本丸放火説が有力になった。『イエスズ会日本年報』も信長次男、信雄の放火、としており、当時、伊賀を任されていた信雄は蒲生賢秀の要請で日野に駆けつけ、光秀の死を知り、伊賀へ引き揚げている。その際、安土に立ち寄り、放火したことになるが、父の築いた名城を焼く理由はこれも不明であり、歴史の謎になる。
戦国の世を力で平定した信長でなければできない、豪華絢爛の安土城の造りは、信長一代しか通用しなかったといえる。他の武将ではいつ、攻められ、落城するか知れない城であった。
まさに信長だけの城である。ただ城は灰になったが、城下の町並みは隣の八幡城下に移された。秀吉の甥、秀次の築いた八幡城である。近江商人の故郷として、豪壮な家並み、堀のある風景は映画、TVのロケ地になっている。蔵屋敷、堀、橋のある時代劇であれば、まず近江八幡城下と思っていい。