第47回 来年の大河ドラマの舞台をゆく  その1

**茶々、初、江の故郷、近江・小谷城跡から安土へ**


  来年のNHK大河ドラマは、幕末から戦国、江戸時代初期に舞台を移し、浅井長政、市の子ども、三姉妹の三女・江が主役になる。秀忠妻として三代将軍家光を生み、娘千姫豊臣秀頼に、和子は天皇家後水尾天皇)へ嫁している。和子(東福門院)の娘は、父の譲位で奈良時代孝謙天皇以来の女帝になった。

  近江出身の武将で、「もし」という言葉が歴史で許されるなら、歴史を大きく塗り替えた人物として浅井長政をあげたい。織田信長との同盟関係が継続していたなら、秀吉、家康の出番はなかったかもしれない。今回は浅井滅亡と織田信長の天下府武への道、近江侵攻と安土築城にいたる旅である。

  浅井長政の居城で3姉妹が生まれ、育った小谷城は琵琶湖の北東にある。城のある小谷山は標高495。離れてながめると、なだらかな山であるが、登ってみると、谷が深く、日本5大山城に数えられる要塞にふさわしい立地だ。山隔て東は岐阜県につながる。天下分け目の関が原も近い。北は山越えで日本海に通じている。つまり、京から東にのびる旧中仙道と彦根を起点にする北国道の要所に位置している。しかも、脇往還が麓を通り、戦国は軍馬の道になった。

  北陸から、岐阜側から都を目指すには、湖北を通らないといけない。天下の歴史は近江を北から都へのぼったものが勝者をしている。古くは壬申の乱天智天皇の弟、大海人皇子天武天皇)と天智天皇の息子、大友皇子が争った乱では、吉野挙兵の大海人勢は近江を迂回して湖北から近江京へ攻め、近江京は廃都になった。頼朝も東からである。信長、秀吉、家康も同じ道を進む。例外は明治維新。西から江戸へ向い、湖北を通過した。

  現代でも選挙のたびに湖北を制するものが勝つというジンクスは生きている。その湖北を浅井氏は押さえていた。しかし、近江には当時、観音寺城(湖東・安土)の近江守護、佐々木六角氏が湖東、湖南を支配していた。佐々木氏は源頼朝の平家打倒の挙兵に加わり、その功績で16ケ国をまかされた鎌倉時代有数の武将で近江を拠点にしていた。その後、佐々木六角、京極両家に分裂、湖北を京極氏が治めていたが、浅井長政の祖父が下克上で京極氏にとってかわるも、六角氏は、近江、京ににらみをきかしていた。

  居城の観音寺城は日本最大の山城といわれ、安土山を見下ろす山腹に築城されていた。

  一方、織田信長桶狭間の戦いに勝利、かつて美濃の斉藤道三の居城で、息子義龍が城主の稲葉山城攻めに挑んでいたが、三方を急峻な断崖に囲まれた城攻めに手こずっていた。道三は家督を譲った息子に討たれていた。長良川を見下ろす金華山(329m)にそびえる城は、円錐形の山頂にあり、小谷城以上に難攻不落の造りになっていた。

  義龍、息子の義興は近江の六角氏と同盟を結び、信長の行く手を阻む。そこで信長は湖北の浅井氏と手を結び、挟み撃ちの作戦にでたのが、織田・浅井同盟である。

  信長は上洛の道と美濃攻めの足がかかりを得て、天下布武の道を開く。信長にとって桶狭間と並ぶ天下布武の岐路になった。長政との同盟は外交による勝利に等しい。

  長政と市の間には男2人、女3人が生まれ、信長の越前・朝倉攻めまでの10年、長政一家は小谷城で平和と安穏の日であった。長政は信長の最初の上洛に同行、家康よりも信長の信頼厚く、15歳の初陣で勝利をあげ、父親を隠居させて後継になった長政の力量は誰よりも評価していた。

  長政は、お家の事情をかかえていた。無理やり隠居させた父久政ととりまきの家臣の存在である。織田との同盟には反対し、家臣の中には信長暗殺を進言するものいた。事実、近江に宿泊の無防備な信長を討つ機会はなんどかあった。長政は進言を取り上げず、父や一部家臣の不満の種になる。織田との同盟後も家臣は越前朝倉とのつながりを保ち、久政はその中心だった。

  信長が突然、長政の了解なしに朝倉攻めを始めたのも、非情な信長の一面と小谷城の反織田勢力への警戒と長政への配慮が働いたという見方もできる。

  長政は朝倉との関係から信長に反旗をあげ、ここで浅井家の命運は決まった。

  湖北を流れる姉川は、織田・徳川軍と長政・朝倉連合軍の戦場になった。川幅は、意外に狭く、標示がなければ見逃す川である。長政にとって誤算は、朝倉軍の力量を過大に評価していたこと。戦闘で朝倉軍は援軍でしかなく、撤退も早い。しかし、姉川の合戦は最初、浅井勢に有利に展開され、織田軍は引き揚げも検討していたが、兵力に勝る織田軍は勝利をおさめ、浅井軍は小谷城へ撤退した。

  信長は秀吉を使者にたて、再三、長政に降伏を迫る。命を保証し、別の領地を与える条件であったが、長政は拒否した。しかし、家臣の中には、秀吉に内通するものもいた。

  信長は2年後、湖北に侵攻するも果たせず、翌年、再度、攻め寄せ小谷城は落城した。長政は市、娘3人は、城から逃がし、それを見届けて自刃した。28歳。

  長政と秀吉。ここにも歴史のめぐり合わせがある。使者が秀吉でなければ、長政は違う選択をしたかも知れない。権謀術数、駆け引きを好まず、剛毅な若者は、取引や言葉による懐柔をなによりも嫌った。使者が秀吉であると、知った時点で長政の腹は決まっていた。秀吉は、朝倉攻めの際、長政の反旗で窮地に立った信長軍のしんがりを志願し、追討の朝倉軍から信長を守った手柄で信長の信を得て、浅井攻めの要である。後日、市が秀吉を嫌ったのは、落城の経過や夫の長政の影響もあったのだろう。

  秀吉は落城した小谷をまかされ、いったんは小谷の主になるが、長浜に城を移している。来年の大河ドラマを前に地元では小谷城跡でイベントを開催、普段よりも観光客の姿が目立つ。地元ではポスター、グッズも並び、観光の目玉になっている。

  山城跡には、宣伝のぼりが立ち、道も手入れされ山城めぐりもしやすくなった。長政自刃の地、赤尾屋敷、3姉妹の館跡、落ち延び道など案内もきめ細かい。

  登り口は、車で本丸すぐ下までいける伊部側と、家臣の屋敷のあった清水谷口の2ヶ所あるが、山城歩きの醍醐味は清水谷口からがいい。散策というよりも登山の趣がある。本丸まで1時間はかかる。一方、伊部側は整備され、あるきやすい。

  小谷落城の年、長女茶々5歳、初4歳、来年のドラマ主人公、江は生まれたばかりである。3姉妹のうちで浅井家安泰の日々を経験したのは茶々ののみで、初は姉川合戦で敗れた年に生まれている。

  戦国の申し子達にとって世は過酷である。嫡男万福丸は殺されるが、三姉妹は湖北の実宰園に身を寄せ、後に叔父の織田信包に引き取られた。

  長政の自刃した赤尾屋敷は本丸から離れた山際にあり、「長政自刃の地」の標が立つ。幼少時は六角氏の人質として観音寺城で過ごし、15歳から戦場に出た長政にとって市と子どもたちと過ごした数年こそ、家族とのくつろぎの日々であった。屋敷跡にたたずみ、長政をしのぶ。死を前にした長政に去来したのは裏切りと信義が交錯する戦国の世の習いでなく、子どもたちの行く末しかなかった。落ち延びた報告まで待った長政。すでに湖北には秋風が吹き始めていた。木々のざわめきは、城の包囲と家臣の寝返りを伝えていた。京極家の家臣として仕え、やがて主にとって替わって湖北の盟主になった浅井氏は3代、51年で幕を閉じ、その血は3人の娘たちに引き継がれた。

  信長の安土築城は小谷落城から3年後である。(次回は安土築城)