第43回 オランダの宮殿、町を佐世保に再現

 〜長崎ハウステンボスに見る壮大なまちづくりの光と影〜


  テーマパークの苦戦はバブル崩壊後、いわれて久しい。東京デズニーランド、デイズニーシイの好調のみが際立っている。そのテーマパークの先駆けが長崎ハウステンボスである。当初は運営会社の長崎オランダ村の名称だった。
  1992年開業した。バブル景気が前年終焉、バブルがはじけつつある年の開業であったが、オランダの町並みと建築をそっくり再現したテーマパークは、開業時は、人気を集め、この成功に習って岡山のチボリ(デンマーク)、志摩スペイン村など外国の町並みを取りいれたテーマパークが次々に誕生する。東京デズニーシイもアトラクションのランドとは違う「海の国」がコンセプトになっている。長崎ハウステンボスに刺激されたところがあり、かなり調査したと聞いている。
  広さは東京デイズニーランド、シイを合わせたほぼ同じの152㌶の面積。テーマパークというものの、中身は長崎にオランダのまちづくりであった。旅の面白さのひとつは、想像と現実の落差を現地で味わうことにあるが、想像を超える風景は、旅人の心を魅了する。ハウステンボンスもそうだった。

     

  佐世保大村湾に面したこの『町』は、映画のセットのごとき、予想を見事に覆して、本物の趣があった。ハーグでも、アムステルダムでもない、運河沿いのホテル、レストランは、演出であっても生活の臭いを身にまとっている。特に夜は、テ−マパークの顔が隠れ、ひとり歩きが様になる。しかも、犯罪の心配がない。夜の散策が訪れる楽しみになった。
  運河の近くにバーがあった。レンガづくりの内部で女性が歌っている。つられて中にはいり、テーブルの片隅で聴くと、とてもハードボイルドな気分になる。人探しの探偵役だ。  
いい大人がと、思いつつも、長崎方面へ旅すると、決まってハウステンボスの夜をさまよった。しかし、テーマパークの経営は苦しかった。そのはずで、莫大な投資による金利負担が、この魅力的な町を圧迫していた。
  もともと、ここは水田跡で、戦前は江田島兵学校があり、戦後は引き揚げ者の援護局があった。バブル経済前、オランダを訪れた日本人が途方もない、まちづくりを思い立った。 この目でみたオランダをそっくり持って帰りたいという夢のプロジェクトである。
  奈良時代、奈良から伊勢の海を見た万葉人は、沖の白波を家族の土産に包んで持って帰りたい、と、歌を詠んでいるが、その心境に近い。歌どころか、丸ごと実行に移した。
  唐の都にならった都を奈良、京につくった古代の壮大なプロジェクトには及ばないにしても、異質な文化を土産にしたい願望は大小の違いを別にして、共通する心理である。
  創設当事者から直接、聞いたことがある。
  「日本とオランダは400年の交流の歴史がある。森をつくり、町を再現する。最終的には、博物館的なまちづくりをめざした。その中心になるのがベアトリクス女王の宮殿、パレスハウステンボス。たまたま見学を許可された宮殿に、私(池田武邦さん)も彼(神近義邦さん)も魅せられた」と、プロジェクト設計を担当した池田さん。彼とは初代ハウステンボス社長の神近さんである。平地をオランダと同じ小高い丘に盛り土、植樹した。運河は大村湾の干満潮位差を利用して水を入れ替え、さらに汚水、排水を高度処理し、中水道として利用するインフラは、株式会社が仕上げた水の循環システムである。行政の手は一切、経ていない。大村湾に戻される水は湾の水質よりも良かったというから、環境時代の先駆的な試みであった。計画では周辺の宅地化、別荘分譲まで組み込まれ、住民の暮らしとテーマパーク一体のまちづくり開発。ヨット、ボートに親しみ、運河の町に住み、孫や子どもたちが休暇でやってくるリゾート地にする計画もあった。
  ハウステンボスの150余の建物のうち、12棟がオランダの本物を完全な形で再現している。内部、壁画は許可がおりず、再現は外観にとどまったが、日本の鎖国時代にオランダ王家始祖が妻のために建築した夏の離宮は、王制崩壊、フランス占領、ナチス占領、再び王室の住まいになる数奇の運命をたどった。長崎での再現には装飾金物、照明などオランダ特注である。レンガにしても、日本とオランダでは大きさが異なり、1千万個を輸入して積み上げた。
  オランダになくて、長崎で実現したものがある。フランス式庭園の巨匠ノートルの弟子ダニエル.マローの設計した庭園だ。マローの設計庭園はなぜか、つくられなかった。オランダの了解を得て、一部修正のすえ完成した幻の庭園は直線と直線の出合いが連続する見事な配置である。庭園を取り巻くウバメガシの回廊は、一辺が100㍍に及ぶ緑のトンネルになっていた。庭園を歩いて感じる不思議な静けさ。かつて、ハーグ郊外の離宮に招かれたであろうモーツアルト、ベートベンのコンサートの夢の調べが聞こえるようであった。
  当然、コストがかかる。環境保全とコストの関係は、地球温暖化対策をめぐり論議になっているが、17年前の株式会社の挑戦と、その後の経営難は、コスト負担のあり方を考える上で、今日的な宿題を与えている。入場料に上乗せできれば、解決するが、それでは人は来ない。台湾、中国、韓国から旅行者が目立ち始めた創業から10年余で会社更生法申請、経営主体は創業者たちから離れた。不況が追い討ちをかけ、引き継いだ野村グループも苦戦している。環境に配慮したテーマパークは成り立たないのか。当初の夢が大きすぎたのか。ハウステンボスが突きつける宿題は、一観光事業にとどまらない広がりがある。バブル遺産というのは簡単である。ここでこの事業を育てられないなら、観光立国の前途は暗いと、いわなくてはならない。「九州がんばれ」である。