第44回 凛として奈良  東大寺お水取りと修二会の花

 京の冬も寒いが、奈良はそれ以上に冷え込む。奈良観光も2月の平日は、これが奈良かと思うほど閑散としている。奈良公園内の鹿も木も、興福寺の塔すら凛としている。ところが、2月末から人の動きが頻繁になり、3月の声とともに奈良はお水取りの季節を迎える。毎年、奈良散策はこの時期と決め、歩いている。道筋も定番があって、まず近鉄奈良駅前の東向商店街の和菓子の店をのぞく。修二会は椿と関係が深い。2月23日は本行前に二月堂に籠る練行衆が本尊十一面観音に供える椿の造花をつくる花ごしらえの日である。
 椿は修二会の花。二月堂須弥壇の四隅を飾る高さ1・7の椿の枝に紅白の仙花紙でつくった花びら5枚をとりつける。荒行に向う練行衆の心をなぐさめる花だ。余談になるが奈良の椿は東大寺開山堂の『のりこぼし』、伝香寺の『散り椿』、白亳寺の『五色椿』が三名椿になっている。のりこぼしは、赤い花びらに糊がこぼれたごとく、一部白くなった様から付いた名前。散り椿は花びらが一枚ずつ散る様をいい、五色椿は字の通りである。


東大寺二月堂修二会お松明

 二月堂の花ごしらえにあわせて、和菓子の店も店頭に「花」をそろえる。椿の菓子だ。町の花ごしらえは、店によって名前が異なる。御堂椿、修二会の椿、糊こぼしなど形も特徴がある。この椿菓子はお水取りの間しか販売しないから、奈良に行かないと口にできない。「奈良の人はこの時期になると、こぞって買わはります。進物にも。見てきれいやし、おいしいというて」と、店の女将さんの顔がほころぶ。早速、買い込み、店を後にした。 
 定番散策の道は、猿沢池南に広がる旧奈良町。京都の町は観光向けの装いになっているが、この町を歩き始めた40年前、まだ新聞社の駆け出し記者の時代であったが、ごちゃごちゃした迷路のような通りに、間口の狭いい古い町並みが続き、足をとめさせた。

 京都が高層化し、町がオフィス街になりつつある時で、うなぎの寝床の町に「京都よりも京都的」と、思ったのが最初の印象である。なんでも京都と比較しないと、収まらない京都病にかかっていたから無理もないが、町にすれば迷惑な話である。そのうち、この町の持つ魅力に取り込まれ、通うようになった。

 建築物も多種多様で、例えば日本聖公会基督教会。商店街の中に建つ和風のキリスト教会は、奈良公園内に洋風建築はそぐわないという理由から宮大工の手で建てられた。昭和5年の建築である。明治28年建築のレンガの奈良国立博物館の景観論争が尾をひき、和風教会建築につながったという。京都病のついでにいえば、京都は明治時代に疎水をはじめ、南禅寺周辺の景観に近代の装いを加え、博物館もできたが、景観論争があった話を聞いたことはない。まちづくりの歴史は、奈良がはるかに古い。奈良は古いままに、京都は新と旧の調和が世間の古都を見る目になっている。

 奈良町は元興寺の旧境内地にできた門前町。「ならまち」と書くほうがぴったりくる。

 元興寺東大寺興福寺と並ぶ南都七大寺のひとつで、飛鳥の法興寺平城京造営で移転した、日本最古の寺院の流れを汲んでいる。
 平安以降、衰退して、いまは西大寺末寺として一部の伽藍を残すのみであるが、国宝極楽坊、禅室は鎌倉時代再建であっても、簡素で、流麗な飛鳥様式の建築美を誇り、奈良町の象徴といえる。町は20年前から町家の保存が進み、格子戸の家並みで観光スポットになった。各種施設、店もそろい、観光客がそぞろ歩きを楽しんでいる。民家の軒先に吊るされた朱色のぬいぐるみは、奈良末期に中国から伝来の庚申信仰(かのえのさる)の名残りだ。

 60日ごとにめぐる庚申さんの日は、町内徹夜で迎えたというが、いまは魔除けのぬいぐるみが親子代々の信仰を伝えている。見ざる、聞かざる、いわざるの故事は、でしゃばりで、調子のりの子どもには耳の痛い話だった。よけいなことに首を突っ込まず、前を向いて歩け、と、祖母から注意されたのを覚えている。

 この庚申さんの通りから、しばらく歩くと、「春鹿」銘柄で知られる蔵元今西清兵衛店がある。ここを奈良歩きの休憩所にしている。酒を飲むわけでなく、併設して建つ重文建築の「今西書院」に上がりこむ。元は興福寺坊官、福智院氏の居宅を今西家が買い取り、一般に開放している。室町時代の書院づくりの遺構ともいわれ、座敷、縁側からの庭のたたずまいがなんともいえない味わいがある。喫茶店でなく、この書院でコーヒーを飲むのが奈良へ行く理由にもなっている。風流というつもりはないが、重文の座敷で飲む300円のコーヒーはやはり、豪華だ。

 今西書院の離れには、かつて志賀直哉が6年ほど滞在している。ちょうど「暗夜行路」の執筆時期と重なっている。文人たちのサロンにもなった。

 奈良町をあとにして、おきまりの新薬師寺、高畑、春日大社を回り、東大寺へやってきた。駅前から3時間は経過している。三月堂前の塔頭の土塀越しに白い椿が咲いていた。二月堂前には松明の青竹が立てかけてあり、準備整い、お水取り近しを告げている。

 二月堂の法会は奈良時代から旧暦2月1日から14日間、営まれ、修二会の名がある。新暦の今は3月1日から始まる。お水取りというのは12日深夜に若狭井の井戸から香水を汲み、観音に備える修二会の行事のひとつで、神仏習合の伝統を継承している。

 この夜は大松明が二月堂の欄干で振られ、火の粉をかぶると、無病息災、家族安泰の言い伝えがあり、多くの観光客でにぎわうが、松明は3月1日から毎日、欄干に登場するので、混雑を避けて3月になると、参拝する信者も少なくない。

 天平時代から続く国家鎮護と万民快楽、五穀豊穣を祈願する法会は、華厳宗東大寺のみならず真言密教天台密教神道まで含めた実に懐の深い行事であり、日本仏教の水脈が集まっている。歴代天皇から現職総理大臣、神社名、仏教功労者までの名前が読み上げられ、国家安泰を唱和する一方で庶民の生活の安泰祈願も法会の目的である。

 次々に高々と読み上げられる人名の中で、そこだけ声が小さくなる時がある。

 「青衣の女人」

 鎌倉時代、法会で名前を読み上げていると、青衣の女の幽霊が現れ、なぜ自分の名をいわないと、僧に質した。そこで僧は「青衣の女人」と呼び、幽霊は姿を消したという。名前もわからぬ「女人」であっても法会の対象にしたところが、東大寺修二会の素晴らしさである。天皇も幽霊も同じように弔い、安泰祈願する行事は、お水取りの日を置いてないだろう。

 南都仏教というと、天台、真言、浄土、真宗と続く平安仏教や禅宗の鎌倉仏教が宗派色濃く、拠点になる教団を確立したのに対して、南都は宗派色薄く、現代では寺の名前、建築、仏像など文化財的な面で一般に知られている。南都6宗の名前をいえる一般人はまれだ。どちらかといえば、仏教思想、哲学を重視し、互いに研究交流しながら発展してきた歴史があるため、庶民とのつながりは薄いと、みられがちであるが、生きとし生きるものを救い、導く衆生救済、大乗仏教の教えは、1250年余の伝統行事の心である。

 お水取りが終われば、待望の春がくる。