第42回 大分・臼杵城下町  冬本番の町に♪早春賦の調べ

  年末寒波にふるえあがっている。肩叩く落ち葉に来年の再会を約束した晩秋の余韻に浸っていると、冬本番である。もう1カ月もすれば、暦は早春になる。このごろ、時間は年齢によって異なり、加齢とともに時計の針は早く回るように思えてならない。朝おきれば一日がほぼ終わり、夜、床につけばもう明日がくる。子どもの頃の正月まで数えて待った日々は時計の一時間の長かったことが思い起こされる。そんな一日千秋のころがなつかしい。最近、歌が記憶の旅をたぐり寄せる。ラジオで聞いた『早春賦』。独特の調べは大分、臼杵の町へ運んでいく。

  ♪春は名のみで始まり、3番が特に心をとらえている。

  ♪春と聞かねば知らでありしお 聞けば急がるる胸の思いを いかにせよとのこの頃か いかにせよとのこの頃か

  早春賦

  作詞の吉丸一昌臼杵出身である。ただ、詩の舞台は臼杵でなく信州安曇野だ。しかし、臼杵には、吉丸の原風景がある。安曇野の風景と重ねるこの歌もいいが、彼の故郷で聞く「早春賦」は胸熱くし、心に迫る。吉丸は、維新直後の明治6年、下級藩士の家に生まれ、成績は優秀のため、地元の後押しで中学、五高に学び、当時、教鞭をとっていた夏目漱石にも教えを受けた。東京帝大に進む彼は、学生でありながら下宿で勉学の志を持つ少年たちのための塾を開き、世話をした。苦学した少年時代が東京で学びながら、親身の世話をする糧になっていた。心配する友人たちは、忠告するが、彼は耳を貸さなかった。

  臼杵の記念館に流れる歌は1番の叙情豊かな詩から、3番で劇的に一転する。驚きどころか感動をともなった。臼杵のフグ、関サバ目当ての旅は、歌の旅になり、いまも心に響く。この歌は明治45年にできており、吉丸39歳のときだ。4年後、彼はこの世を去った。

  臼杵にはもうひとつのドラマがある。臼杵の石仏。日豊線臼杵駅からバスで15分の臼杵川沿いの深田の里に着く。里の周辺は阿蘇の噴火による凝灰岩で覆われている。臼杵石仏はこの凝灰岩に彫っている。いつごろ石仏が彫られたのか、記録はなく、謎を秘めているが、地区民の伝承と大正時代以降の調査で平安後期から鎌倉の作といわれ、60体を越える石仏のうち59体が磨崖仏では平成7年、全国初の国宝指定を受けた。指定が遅かったのは訳がある。

  深田地区の信仰の対象として守られてきた臼杵石仏が立ち入る人もまれな薄暗い藪の中から全国に知られる有名な出来事が1910年(明治43)の京都で起きた。

  埋もれた文化財が世にでる時、不思議な縁や、偶然がともなう。中国から帰国した京都帝国大学教授小川啄治(湯川秀樹の父)は、学生に中国で見た磨崖仏について興奮冷めぬ顔で、「あのような石仏は日本にない」と、語った。講義を聞いた学生のひとりが東京にいる彫刻家志望の友人に、中国の石仏は見る価値がある、と中国行きを勧めたところ、彼は「郷里の臼杵にはいくらでもある」と、答え、その話が小川教授まで届いた。

  半信半疑の小川教授が臼杵を訪ねたのは、それから4年後になる。偶然、石仏のお参りをしていて、小川教授の一行と出会った地元の理髪業宇佐見辰治氏は、調査を手伝い、石仏にのめり込む。小川教授の発表で臼杵石仏は全国に知られた。宇佐見氏の子どもで石仏ガイドをしていた宇佐見昇さんは、父親の人生を変えた出会いを「石仏の夜明け」と、書いている。

  国宝指定で屋根ができ、道は整備され、深田の環境は大きく変わった。13仏の中央に安置の大日如来像はかつて、仏頭が下に置いてあったが、いまは復位し、特徴のある切れ長の伏し目の顔は角度によって表情を変え、左、右に回ってみれば、横顔の唇の紅が鮮やかなのにきづく。

  石仏の里から臼杵の町へ戻る。キリシタン大名大友宗麟が450年前に築城した城下は、臼杵川河口に開け、海外との交易も盛んであった。唐人町の町名が往時のにぎわいを伝えている。

  町を歩いて、あれっと、思った。京都の東山の風景に似ている。そのはずで龍泉寺の三重塔は、江戸時代、臼杵の名匠高橋団内が京、奈良の古寺をめぐり、臼杵にあった塔を探したすえ、図面をひいてできあがった。三重塔は近くからだ町中からの遠望にたえる造りになっている。切り妻2階建て、平入りの町家、商家越しに見える塔は、この町のシンボルである。小京都のたたずまいの臼杵の名物はフグ。うどん店と同じくらいの数のフグ店の看板が並ぶ。臼杵のフグはもちもちした味に、もうひとつ宣伝しないが、秘密の味がある。現地でしか食にできないため、遠くからも食通が集まる。日が落ちて、人通りもまれな町に、灯りが客を招く。川を渡る風は、寒波でとてもとても春なんてと、うなりをあげているだろう。