第40回 旅の記憶 筑後川を日田から阿蘇 ダムの歴史をたどる -その2

     

  九州の山里に根付く共同体、地域重視の思想は、このあとに訪ねる壮烈なダム反対の抵抗運動にも流れ、感慨を深くしたことを覚えている。日田からダムの旅は佳境にはいる。国道212号線を阿蘇へ向う。川は玖珠川と大山川に分かれ、東に行けば大分である。大山川沿いをさらに進むと、道は渓谷色合いが濃く、道が分かれる。南東に続くのが日田―竹田街道、南は阿蘇大観峰に通じている。ダムサイトに着く。松原ダム。このダム湖隔ててもう一つのダムが下筌ダム。日本のダム反対運動はおろか、巨大プロジェクト事業に住民が体を張って立ち向かった「蜂の巣城紛争」の舞台である。紛争と呼ぶのは、正しくない。これは建設省、マスコミが使った名称で、ダム建設がこじれ、争いになったイメージを与えるが、実際は、まぎれもない地域住民が国に対して体を張った異議申し立ての闘争だった。

  夜明ダム決壊の西日本水害が契機になり、昭和28年、建設省は洪水対策と称する筑後川総合開発事業を立ち上げ、多目的ダムを計画する。日田市に属する松原ダム、大分・熊本両県にまたがる下筌ダム計画に熊本・小国町側住民が反対の狼煙をあげる。


下筌ダム

  運動の先頭に立ったのが地元地主、室原知幸である。強引な建設省のやり方に態度を硬化させた住民は、予定地右岸に砦を建て、住民が常駐して監視したことから蜂の巣城の名がついた。裁判、敗訴、強制代執行の過程で流血事件が発生、指導者の室原の逮捕で運動は転機を迎え、反対派は分裂する。代替用地の取得、生活再建の言葉がマスコミに登場するのもこの頃だ。小国町も条件付賛成に回った。
  孤立無援の室原の抵抗は終わらない。室原は、第二の蜂の巣城を構え、川にアヒルを放ち、牛、馬まで抗議に参加させた。山の木には支援者の名前を書いた名札をくくりつた。日本の立ち木トラストの原点はここから始まった。13年におよぶ室原の抵抗の原点はまず地域の暮らしにあった。交渉過程で提案した湖水の景観、観光資源活用の遊覧船就航などの要望は、すべて取り入れられ、ダム建設後、旧大山町(現日田市)で始まった梅栽培も室原の地域主義の延長線から生まれた。大分の一村一品運動の源流である。

  黒部に代表されるダム観光は、ダム完成後の景観観光になるが、ここ松原・下筌ダムには、全国の自治体、ダム関係者、技術者が必ず訪れる、もうひとつの観光名所だ。ダムだけでない公共事業のあり方を問い、転換させた運動の地の視察が目的になる。室原はダム完成2年前、昭和45年6月、波乱に富んだ一生を閉じるが、室原の足跡はダム銘版「下筌ダム」に残る。
  この字は「下筌ダム反対」の室原自筆の看板から建設省が無断で写したもので、水をたたえる巨大ダムの姿に消えた「反対」の2字を重ね、室原の名言をしのんだ。

  『公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わければならない』

  政治家はおろか、学者すら語れない公共事業の哲学を育んだ蜂の巣城は湖の底に眠る。

  記憶をたどり、筑後川上流ダムの立地、経過を綴りながら、思い起こすことがあった。私の住む滋賀県は琵琶湖をかかえている。京都新聞社に入社後、琵琶湖総合開発事業が着手された。名前も筑後川総合開発とよく似ていて、時代は松原・下筌ダムの完成時にスタートしており、琵琶湖の保全、利水、治水を目的にしていた。10年間の事業で琵琶湖はどうなったか。当時、琵琶湖は近畿の水がめの考えが国や下流自治体にあった。いろいろ事業目的は並んでいるが、琵琶湖をダム化して、琵琶湖岸をコンクリートで固め、さらに川の整備でもコンクリート護岸にし、上流にはダムをつくる、文字通りの総合開発になる。

  この事業の思想は水の管理にあると、いっていい。上流から下流までコンクリートで固め、水を自在に調節して、下流に提供する考えだ。水道の蛇口をひねれば、水が出る仕組みを作り出す計画の結果、琵琶湖は、川は、山は、どうなったか、改めていうまでもない。事業は見直しの名目で、中止か縮小され、環境保全が事業の主体になった。全国で展開されたダム建設と河川整備の総合開発は大なり、小なり、この水管理の考えから立案されてきた。もう山や湖をコンクリートで固める、人間の環境破壊行為は終わりにすべきである。水の管理から、共生に変わらねばならない。


川辺側ダム建設予定地

  球磨川上流の川辺川ダムについて熊本県知事は、注目すべき見解を表明している。「洪水を治める発想から脱し洪水と共生する治水対策」。税金の無駄使いという経済効果の論理からではなくダム計画の思想まで踏み込んでいる。環境に軸足を置いた発言である。明治以後の日本の国づくりは西洋文明に学んだ水、自然を管理する『土木事業』にあった。知事発言は脱ダム以上のインパクトを持っている。北海道洞爺湖の住民から聞いたことがある。有珠山噴火被害の直後であったが、「火山と共生していく以外に道はなく、ここを離れるつもりはない」。ダム計画中止で民主党政権が留意すべきは、地元住民にとってダム計画の持ち上がった時代と、いまでは地域社会のありようが余りにも変わってしまい、追い詰められている事実だろう。地域にあの蜂の巣城のエネルギーはもはやない。小泉改革の経済合理主義は地域を破壊している。ダム計画は当初、住民にとって絶対反対の青天の霹靂の出来事だった。ところが歓迎すべきはずの建設中止はダム計画当初の水没の驚きと同じに等しい、衝撃と怒り、苛立ちを招いている。計画に反対したあの頃は地域に力があった。いまは高齢化と生活不安がのしかかる。計画から40年余の歳月は、ダムなしで成り立たないという経済の呪縛から抜けられない地域社会に変えてしまった。

  ダム計画中止の代案を国は地域に提案しなくてはならない。八ツ場ダムの現地に比べて、川辺川源流、流域の自治体、住民に地域再生の希望を感じるのは、本籍熊本にこだわる私の身びいきもあるが、蜂の巣城闘争の歴史が水脈にあるからと思っている。地域再生運動では生ぬるい。地域再生闘争あるのみだ。 


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