第39回 旅の記憶 筑後川を日田から阿蘇 ダムの歴史をたどる -その1

     
  政権交代で八ツ場ダム(群馬)と川辺川ダム(熊本)が脚光をあびている。

  いずれも計画から40年を経過しながら、完成に至らないダムだ。この両ダムの半世紀におよぶ歴史は、日本のダム建設の経過のみならず、問題を浮き彫りにしている。今回は、旅のメモ、記憶をもとに九州筑後川流域に飛んでみることにした。旅からすでに20年経っているので、最近の姿はわからないが、時の流れは暴れ川といわれ、筑紫次郎の名を冠する筑後川をめぐるダム建設と地元の反対運動を見つめる妨げにならない。むしろ、当時、見逃していた反対運動の先見性を浮かびあがらせる。

  時空を超えたといえば、大げさになるが、筑後川上流の三隈川沿いの小京都で名高い日田から旅の記憶をひもとく。

  天領日田を代表する商家「草野本家」、幕末の儒学者廣瀬淡窓の生家「廣瀬家」の豪壮な造りは、京町屋、近江商人屋敷とは異なる歴史の輝きがある。天領日田には日本四大郡代のひとつ、日田陣屋が置かれ、豊前、豊後、日向、筑紫の天領を統括、実に16万石に上ったから、大名顔負けである。この公金を掛屋と呼ばれる豪商が無利子で預かり、九州の諸大名に大名貸し付け、莫大な利益をあげた。

  草野本家(本業は製蝋)にはいくつもの応接間があり、借金を頼みにくる各藩の藩士が互いに顔をあわせないですむ造りになっていた。そんな日田商人の家が豆田町を中心に並び、江戸の町並みを形成していた。この日田は良質の木材の産地で、久留米などに筏流み日田往還のにぎわいは水陸におよんだ。この筏流しは、江戸時代から明治、大正、昭和と続く水運ばかりか川の風物詩になっていたが、戦後間もなく幕を降ろした。福岡県うきは市と日田市夜明にまたがる「夜明ダム」の建設(昭和27)ためである。
  筑後川流域は大正2年、女子畑発電所が完成後、電力需要の増大を見越したダム式発電所が建設される。夜明ダムというロマンチックな名前はもちろん地域名で、もともと開墾地であった当地区は『夜焼き』と呼ばれ、聞こえも悪いから『夜明』になったという。

  夜明けダム

  このダムで江戸時代から筑後川四大取水堰であった袋野堰が水没した。完成の翌年、有史以来といわれた豪雨が筑後川流域に降り、西日本水害が起こる。堤高15の夜明ダムは決壊、下流の大水害とダム決壊の因果関係をめぐり、論争を呼んだ。夜明ダムが規模でなくダム史で有名なのは、決壊のためだ。夜明ダム完成と同じ昭和27年、カスリーン台風の被害を受けた首都圏利根川流域に9カ所のダム計画が持ちあがる。わずか2年で完成した夜明ダムが先例になるが、いま問題の吾妻川の八ツ場ダムもこの時の計画だ。完成直後の決壊は、洪水対策の一面と、河川整備の必要性をうながし、ダム建設の目的は電力開発から河川総合開発へ転換していく。

  旅は日田から小鹿田焼(おんた)の里に移る。日田から17キロの距離にある山里。水車による唐臼の土打ちの音が迎える。黒田長政が朝鮮から連れてきた陶工八山が開窯と伝わり、歴史は古い。地元では日田もので知られ、小鹿田焼として、一般に知られるのは民芸運動柳宗悦が昭和初期に紹介してからだ。昭和29年、英国人陶芸家バーナード・リーチが滞在、ろくろを回しながら飛び鉋の先で生乾きの土に削り目をつける技法に驚き、雑誌で取り上げたから一躍、有名になった。大皿を2枚買い込み、いまも使っているが、素朴さとモダンな風合いが素晴らしく、我が家の一品である。しかも、安かった。同じデザインの皿を信楽などで見かけるが、作家の名前がはいり、手もでない。しかし、小鹿田焼は共同窯の伝統を受継ぎ、展示会でも個人名をださない民陶を守り続けている。

    

    (その1 続く)

    「その2」 は10月19日より掲載