第38回 八幡さんの発祥の地、宇佐神宮へゆく

〜大陸と土着の文化が生んだ神仏習合のふるさと〜

  東京や京、大阪に住んでいると、大陸との距離が実際以上に遠いと、感じがちだ。だから、福岡からプサンまでの距離がわずか200キロ、福岡―広島間と変わらないと、聞いて、驚く人が大半である。福岡―プサン間が高速船で3時間の日帰りコースと教えられ、また驚く。九州が東アジアの玄関口と、マスコミに取り上げられても、関西では大阪のほうが玄関にふさわしいと、大阪びいきになる。ところが、改めて地図を広げ、海上を福岡ープサン往復して、納得した。東アジアの玄関は、改めて北九州だと再確認する。こんな話をしばしば耳にしてきた。

  まして国境のあってなかった古代には、九州と大陸からの行き来は、頻繁であった。

  大陸の先進文化は九州の北から南へ向かい、さらに東へ伝播する。幻の邪馬台国論争の九州説の根拠になる遺跡の分布は、巨大な王国の存在を語りかける。古代ロマンを求めて今回は国東半島北西の付け根にあたる宇佐への旅である。

  JR小倉からの日豊本線の特急ソニックに乗る。JR九州の特急は、外観、車内とも旅心を満足させる造りで、JR各社の中では群を抜いている。カーブでは内に大きく傾き、迫力がある。中津、柳ケ浦を過ぎて、海沿いから山間に向い、車窓の外にはおだやかな起伏を連ねる山、麓に田園が広がってくる。宇佐が近い。どこかで同じ風景を見た記憶がある。大和・明日香の風景に似ている。神々の里だ。

  大陸の文化は、船に乗り、渡来人によって運ばれたが、物資のように積まれ、降ろされ、いきなり根を張ったわけではない。新しい土地の文化と融合しながら、根付き、新しい芽を出した。宇佐には大陸文化につながる数多くの出土品が遺跡から発掘され、正倉院の「大宝戸籍」には宇佐の渡来系の姓が書きこまれ、戸籍と出土品を結ぶと、古墳時代後期の渡来人の生活の輪郭が浮かび上がる。山と川、海。豊かな自然の地に古の人たちは先進的な技術を持ち込み、灌漑用水による水田開発をした。駅(やっ)館川(かんかわ)沿いの大分歴史博物館・宇佐風土記の周辺は豊かな水田に囲まれているが、用水は上流の辛島井堰から引いている。辛島の名称こそ、古代の渡来系豪族であり、豊国づくりの功労者であった。

  この旅の目的地である宇佐神宮は、駅から西へバスで10分の距離である。神々の降り立つ地域はなだらかな山、盆地、川という形で共通するが、宇佐神宮は奥宮のある御許山(おもとさん)に連なる山並み西に流れる駅館川(やっかんがわ)、東の寄藻川のほぼ中間に位置している。境内は源流、支流に囲まれ、堀のごとく流れて、周防灘に続く。

  全国の八幡社の総本宮である宇佐神宮の祭神は八幡大神、比売大神(ひめおおかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)の三神である。表参道を上宮に行く東側に菱形池が水をたたえている。イチイガシと楠がうっそうと茂る境内の一角は八幡神誕生の伝承の地だ。いまからおよそ1440年前(欽明天皇三二)、大神比義なる翁が池のほとりで祈ると、3歳の童が現れ、「辛国の城に初めて八流の幡(はた)を天下して、われ日本の神になれり」と、告げる。この伝承は祭神の八幡神は外来であることを宣言しており、古代宇佐の渡来系豪族辛島氏につながっていく。一方、大神比義は宇佐の豪族大神氏を暗示し、八幡神の妃神である比売大神は土着の神という見方ができる。当時の日本は大和朝廷の動揺期にあたり、宇佐では在来、渡来の豪族が手を結び、勢力を伸ばしていたと、考えられる。

    宇佐神宮 一の殿

  その頃、日本は百済から仏教伝来し、仏教採用をめぐり、蘇我物部氏の対立が表面化していた。八幡神は、大和朝廷の混乱を背景に、宇佐にうぶごえをあげた。しかも、神と仏も一体の神仏習合の発祥の地であることも記憶されなくてはならない。わが国の信仰の源流のひとつが宇佐から始まり、やがて全国に広がる。

  神仏習合は当初、苦悩する神が仏法の力で救いを得て、仏になる神身離脱から次には神が仏教(国家)を守る鎮守神信仰に発展する。平安期になると、神は仏が姿を変えてこの世に現れたとする本地(ほんじ)垂迹(すいじゃく)の考えが広まり、熊野権現春日権現など権現信仰の時代を迎える。インドに興った仏教は西北インドを経て中央アジアシルクロード沿いに中国へ伝播するが、途中、さまざまな宗教と習合を繰り返し、形を変えながら朝鮮半島から日本に伝わった。

  『日本書紀』は豊国法師と奇巫(あやしきかんなぎ)が天皇の病を直すため宮中に招かれたと記し、『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』によると、宇佐には法蓮なる僧がいて、優れた医術、巫術により、朝廷から土地、宇佐君の姓を受けている。法蓮は宇佐の古代仏教の指導者として文献に登場するが、大陸渡来の道教的な巫術、医術を行うシャーマンでもあったと、考古学者は推測する。

  法蓮は宇佐神宮に建立の神宮寺(神社に付属する寺院)の別当になり、朝廷と宇佐神宮を結ぶ役割を果たしている。土着の神と仏教が習合した八幡神は、行き詰っていた国家事業の大仏建立に協力、豊前産出の銅と、大陸渡来の鋳造技術を提供して完成に導く。完成時には御輿に乗った八幡神が宇佐より上京、天皇一族、5000人の僧の参会の中、大仏を礼拝した。八幡神東大寺の鎮守になり、仏教を守護する最初の神として崇敬を集めるまでになった。

宇佐神宮 二の殿

  宇佐神宮の境内巡りは表参道を進み、突き当たりの広場が御神幸祭宮司が輿に乗る御輿掛、その右に祓所がある。石段が二つに分かれ、右に行くと、下宮だ。まわりは常緑広葉樹林に包まれ、千年このかた斧がはいったことはないという神域である。石段の上に宇佐鳥居が見えた。これをくぐると、桃山時代の華麗な形式をとどめる西大門が迎える。

  国宝上宮本殿の前に立つ。江戸末期に再建の八幡造りは屋根と扉の位置に特徴がある。奈良期の形式を受継ぐ社殿側面からみると、よくわかる。内院と外院が3殿とも前後に軒を接し、桧皮葺のふたつの屋根がつなぎ合わされたところに黄金の輝きが下へ延びている。宇佐の黄金樋と呼ばれる雨樋で、内と外を区別しており、殿内にはいるには、正面から廊下を回り、雨樋の前にある東西側面の扉を開ける。外院には椅子が置かれ、昼間、神が腰掛けられ、夜は内院で休まれるが、内院にはご神体の薦(こも)枕(まくら)が安置される。薦枕は神の寝所の枕。椅子といい、枕といい、宇佐の神々は親しみやすいが、奈良、平安、鎌倉と続く歴史では遠路、勅使が通い、時には中央の政治まで動かした八幡神の神威は謎めいている。

宇佐神宮 三の殿

  有名なのが弓削道鏡事件である。聖武天皇の娘である孝謙天皇は退位後、病にかかり、道鏡の看病を受ける。病全快で信頼を得た道鏡上皇の寵愛を受け、上皇が復位して称徳天皇として返り咲く頃には、道鏡は、朝廷の実権を握り、天皇後継すらうかがう。

  天皇のもとに、九州大宰府から「宇佐八幡神道鏡天皇にすれば、天下泰平になると託宣した」という報告が届く。大宰府長官には道鏡の弟が送り込まれており、託宣報告は予定であったのだろう。この確認の勅使に選ばれたのが和気清麻呂。宇佐宮に参拝した清麻呂は神託を受ける。「天子には必ず皇統に連なる人物を立てよ」。

  奈良へ戻った清麻呂は御所で大宰府からの報告は偽りと、上奏し、道鏡の野望は崩れ、称徳帝の死で失脚する。以来、中央の政治で変事あれば勅使が宇佐へ派遣され、神託を受けるのが慣わしになった。

  その神威の源泉はどこにあったのか。神威だけでは説明がつかない謎が残る。宇佐神は九州の隼人の乱鎮圧に出兵、大宰府次官の藤原広の反乱においても朝廷は宇佐神に戦勝祈願している。中央が無視できない蓄えた力があったと見るのが妥当である。勅使ばかりか最澄空海をはじめとする僧がはるばる宇佐を訪ねている。最澄にいたっては入唐前、帰国後に参拝、八幡神から法衣を授与されている。遣唐使や学僧の入唐にあたり大陸の情報、物心両面からの援助が会った可能性は高い。

  二拝四拍手一拝の参拝をすませて、本殿の流麗な造りにみとれる。古代史と神々の関係はロマンと謎に満ちている。この疑問に、いまだ神秘の扉は固く閉ざされたままである。 仏教史をひもとくと、釈迦は偶像崇拝を禁じ、弟子たちは教義を重んじた。しかし、仏像の出現なくして、仏教がアジアに広まったかどうか疑問だ。東西文明の接点であるガンダーラで仏像は誕生したごとく、神仏習合の歴史とその造形もまた大陸文化との交わりのあった豊前の地を源にして発展した。しかし、明治維新政府の神仏分離により、八幡大菩薩と敬われてきた称号が廃止され、千年以上続いた神仏習合の宇佐宮境内から仏教につながるすべての仏像、絵画、襖絵などは取り除かれ、景観も一変した。境内巡りで、あそこに弥勒寺、阿弥陀如来の像と、往時をしのぶしかない。

 =宇佐のメモ=

  宇佐の歴史を知るには県立博物館、風土記の丘を訪ねるのが一番。立体的なテーマ展示の博物館は宇佐、国東の寺、文化遺産を再現している。風土記の丘は宇佐邪馬台国説の古代をさぐる神話の里の構成になっている。駅から車で10分。