第37回 相変わりませずという京の食彩歳時記 その3

「つの字のハモ」の故郷をゆく (後)

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  福良から由良まで、またバスに乗った。旅は一直線、乗り換えなしの便利さが客を呼ぶ。旅のデジタル化が進んでいる。しかしハモの話を聞きながら、歩いてみると、つなぎの悪い、淡路のぶつ、ぶつになった交通機関をつないで行くアナログの旅も捨てがたい味がある。発見がある。秘境、未知の土地を探さなくても、近場で、ここは不便という土地なら、宝の山が隠れている。沼島から福良への道が峠越えの雰囲気を持っていたのに比べて、島の中央を高速道で一気に走る。収穫前のタマネギ畑がいたるところにあり、海沿いの淡路と異なる農業の島のもうひとつの顔を見せている。

   由良の町も由良大橋の開通で海岸線ががらりと変わった。軒の重なり合う迷路の漁港の面影は、姿を消している。由良に来た目的はセリを見るためだ。昼下がりの由良漁港。夏の日差しでくらっとする。漁港では正午から昼セリが始まる。由良は紀淡海峡にのぞむ漁村。淡路舸子(かこ)二十四浦の一つであり、潮流が早いため、海峡を南へ出た海では延縄、内の大阪湾では漕ぎ網漁。荒海での延縄であるため、幹縄の大きいのが特徴。船が戻ってくるが、ハモの水揚げされる気配はない。由良は、淡路のハモの集散地であったはずである。セリの前は、漁師、仲買人らがめいめいで会話を楽しんでいる。緊張感もまったくなく、これからセリが感じられない。

   昭和20年台カンカンをリヤカーに乗せて行商へ出る淡路の女たち

  合図もなく、セリが始まる。いままでのなごやかな空気が一変した。表情も厳しい。あの高校野球の開会式や式の始まりにつきものの、形式はここでは一切ない。これは日本のどの漁港のセリでも同じだった。雑談がぴたっと止み、セリが進んでいく。それぞれが役割を知って、動く。プロの集団。誰かが指揮をとるということなしに、物事を現場で処理していく。その雰囲気が朝のセリにはあった。奄美の喜界島で女たちのセリ風景も合図もなく、セリ開始とともに、おしゃべりがすうっと消えたのには、びっくりした。

  ウインブルドンの全英テニスの表彰式が流れるように進んでいく、あの感じに良く似ている。農業は、四季の変化に合わせて計画を立て、収穫する。天候に左右されるが、漁業ほどとっさの判断を必要としない。海の人間と農耕人間との間に違いがあるのだろうか。船底の下は地獄の世界の漁師にとって労働とくつろぎは一体、切り換えが早い。臨機応変の対応ができなくなった日本経済、特にグローバル経済の担い手には、ぜひ、見てほしい風景がここにある。変化の時代は海型の人間が向いているのかもしれない。

  魚のブランド化は、近年、流行にもなってきた。大分県の佐賀関のアジ・サバ、長崎県五島列島のごんアジ、和歌山県由良のアジ・サバ、神奈川県松輪町のサバなど数多い。産地、いわゆる地域ブランドと一本釣りや巻き網漁の新鮮で脂ののった漁法別ブランドに分かれる。つの字のハモは、この両者を備えている点で魚ブランドのルーツにあげてもいいだろう。

  つの字のハモは、おそらく産地ブランドのさきがけであった。

  由良の町を歩く。由良の魚は瀬戸内では最高の評価を受けている。値も高い。産地ブランドがある。由良では昔、カンカン担いでの京通いがあった。早朝、船で大阪、神戸へ渡り、電車を乗り継いで京へ向かった。カンカン部隊のもう一つは岩屋で、ここは明石へあげる。



   鱧切り


  「京へは、もういかん。岩屋なら、まだあるかどうか。それも、大橋の完成でしまいやろ」。明石大橋開通までは、大阪まで船が通い、午後三時、大阪からの船が着く。大阪へ行商に出かけるカンカンのオバチャンが商いを終えて帰ってくるのに出会えた。いまは、カンカン行商は残っても、車である。

  「朝六時に出ての帰り。三十年やっているが、京は御無沙汰。京のハモは明石あたりで寸法合わせて、まとめてもっていく。大阪よりも小振り」

  大阪、神戸とちがって、なんでもこちゃごちゃといかないのが京なのだそうである。京都専門の業者がいる。京風に仕立てあげないと、喜んでもらえない。注文が多い都だ。

  自宅へ戻るおばちゃんと話ながら歩く。狭い道の両側に木造の民家がひしめき、文化財級の理容店は、商売よりもサロンの名がふさわしい。魚屋をのぞく。種類は多いが値はついてない。

  「客はおなじみさん。値札はいらん」

  地元なりの相場があるからだろう。ハモ、もいる。

  「これはあがりめ、自然に死んだ魚。いき絞めは値がちがう。肉は生きている。タイよりも高級魚。ここらでは、夏のハモを食べると、目に汗がはいらんいうて。要は精がつく意味やがな。味がいいのは、大きいのよりも一あっちこっち(前後の意味らしい)が一番やろ」

  目に汗が入ると、精力が衰えるのは、初めて聞いた話。根拠はわからない。

  細い路地を通って、現役のカンカンさんでは最高齢の須賀満子さんの家を訪ねた。年齢をまず当てることはできない若さと、かっちりした体格は、際立っている。

  「京まで行ったことはあるが、しんどうて。ハモ、車エビがよう売れる。その縁で夏に お屋敷の一家が泊まりがけできてもらったこともある。京都から淡路へ夏、海水浴に来たもんや。つながりがあるからな」

  そんな交流もカンカンさんが京都へ行かなくなって、途絶えている。淡路は遠い島になった。

  「嫁入りしてこの仕事を始めた。お父さんは漁師。魚は採れても、漁師は魚を売ることができん。夜の漁、昼は網や縄つくろいで時間はない。女たちが売るのを引き受けた」

  「朝、三時前、魚を仕込み、六時の船で堺へ渡って、あとは南海で難波へ出た。電車はカンカンさんで貸切り、そらにぎやかやった」

  須賀さんが裏からブリキのカンカンを持ってきた。

  「重いやろ。これを三缶、両肩と背に担いだ。四十はあったのとちやうか」

  空のカンカンを担いでみたが、ずっしりと肩にくいこむ。この中に七段重ねで魚を入れた。魚は、浜絞めである。

  須賀さんには、子供が四人いる。つわりの時は電車に新聞紙を敷いて、横になった。得意先で予定日を聞かれ、大きいおなかをさすりながら、明日や、と答え、そのとおり、長男が生まれた。得意先でこの話はいまも、話題になる。

  「ここらでいう団子汁をつくるお金もなかった。お父さん(夫)は漁、私が売る。家を開けるのは九時間。家へ帰るのは四時前、子供が喜んで。娘一人が体も弱く、今は、この子のために続けている。カンカン商いは、船、電車を乗り継いだ時代から車になった。

  「兄ちゃん(長男)が車で行ってくれるから、楽になったけど。大橋ができたから、確かに便利になった。けど、五月の連休は困るのや、大阪を九時に出て、こっちへ戻ったのが夕方、車が混んで動かへん。明日の段取りができん」

  淡路の魚をどんどん、運べるようになって、肝心の魚が減った。ブリキ缶の頃なら、もう一缶担げたら、と何度、思ったかしれない。

  「港へ帰ってくる船を見て、船の足がしずんどるとよく言った。それだけ、魚が採れていた。種類が減り、ええ魚がとれん。それでも、ここの魚は日本一やとおもうてる。生活のために始めた担ぎやけれど、届けるとみながええ魚やというてくれて、これが嬉しくてな。仕事して自分が大きいなった。肉もついたが、心もや。育ててもろうた」

  カンカンに変わって、発砲スチロールが入れ物になった。軽く、魚の持ちもいい。良かったですね、といったら、そやないね、兄ちゃん。こういわれて、驚いた。兄ちゃんと呼ばれたからではない。

  「カンカンなら、重くても持って帰った。今は、車であって手ぶら。スチロールのゴミを町へ置いてくる」

  ごく一部にしても、巡りめぐって川へ捨てられ、海へ戻ってくる。スチロールで運ぶようになったのは、七十年代初め、三十年前になる。保冷性に富んだスチロールの登場と海洋汚染、公害問題の発生とは時期的に近い。カンカンからスチロールへの転換は、社会構造の変化と重なる。須賀さんは、楽することが素直に喜べない。これまでの毎日の経験が教えている。あのきつい、南海電車の難波の階段をあえぎながらのぼって、魚を届けたあと、さあ、子供にあえると思った帰り道、カンカンを重く感じたことはなかった。子供の世話とカンカン商いは、二つの歯車だった。貧乏でも、がちっと歯車のかんだ生活は、振り返れば涙も出るが、喜びも大きかった。

鱧は小ぶりがいい。生簀へ移される鱧

  夕方の港へ出る。風景は変わっても、変わらぬものがある。男たちの溜まり場での語らい。潮風受けて、出港する仲間や息子、孫たちを見送りながら、思い巡らすのは波しぶきかかる漁だ。何年も繰り返してきた語らいであっても、日没前の光と陰の転換時、海は輝く。一瞬に近い、海の返照が、男たちを寡黙にする。延縄漁の船がきらめく海に、幹縄を入れていく時間である。港、港に共通する風景は、一線を退いた男たちの目が海へ注がれていることだろう。若いもんの無事を見守る一面と、過ぎ去った日々の記憶を呼び起こして、重ねてひたるロマンがこめられている。労働で汗を流し、寒さに震えて培われた人間の顔は美しい。日本の港はこんな男たちが一杯いた。日本が失ったもののひとつに、こんな男たちの美しさがあるのではないか、そんな感傷すらこみあげてくる。

  京都からハモの取材に来たと告げると、夕日の見ながらの会話は、予想もしていないところに飛ぶ。「日本の経済がおかしくなったのも、官僚がだめになったのも、それは百姓や漁業という田舎出身のもんが、企業や役所におらんようになったからや」と、老人は面白いことをいう。いきなり、政治の世界に話がいったため、この老人はどこかの政党シンパと考えてしまった。

  こちらのためらいに「まあ聞いてな、百姓も漁師も毎日、天気をみながら対応を考え、収穫したら、売らないかん。百日先とか来年のことを準備しておく余裕はないわ。その日その日が勝負で、それが、経済やろ。毎日、魚をとり、買ってもらう。その金をわしらが使うから、お金は回る。天気を見ながら、臨機応変。それが、都会生活の秀才が経済をやりだしたら、天気を知らん。風も知らん。毎日,同じ天気なら、それでいける。そうやない。漁師の息子なら、そのぐらいのカンはある。企業でもそうや。それが、同じ進学校エスカレーターの高校、大学の集まりのもんが、経済を論じても、あかんわ」

  淡路の漁師のいわば反骨経済論は的を射ている。学歴、机の上での知識でない、労働によって磨かれた知性は、まわりくどさがない。

  瀬戸内に点在する島を行き交う情報を鋭くつかみ、生業にしてきた進取の気風に富んだ地域なればこその会話に魅せられた。

  淡路のハモへの郷愁が失いつつあるものの大きさをまた大きくする。明石大橋開通で淡路から京都はさらに近くなったはずなのに、ハモがつないだ祇園囃子は淡路に届かない。

  七月二十八日夜八時。四条大橋に神輿が据えられている。もう祇園囃子も聞こえてこない。祇園祭の締めくくりにあたる神輿洗の儀式だ。鴨川の清められた水を神水桶に入れて、運び神輿に注いで終わる。祇園祭の巡行の前と後で行う大切な神事は、鴨川の水が使われる。鴨川の水は淀川を経て、大阪湾から、やがて沼島へも届く。

            この項は二回に分けて掲載しました