第36回 相変わりませずという京の食彩歳時記 その2

「つの字のハモ」の故郷をゆく (前)

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 土生(はぶ)は、紀淡海峡に面した小さな港町である。淡路の中でもはずれにある。沖合に島が浮かぶ、沼島(ぬしま)。太平洋から大阪湾に向かう貨物船が行き来する紀伊水道のちょうど蛇口に位置している。土生から沼島まで郵便船が通う。十年前は郵便旗をなびかせ、ポンポンと音たてて走ったが、いまは高速船になった。時間にすれば二十分たらずの距離だ。沼島百隻の縄船ということわざが伝える沼島の昔。島の周辺は砂まじりの泥で海底が覆われ、潮の流れも早いことからハモの漁場になってきた。

    紀淡海峡に浮かぶ「沼島」手前は南淡市 (写真は筆者自身)

 訪れた日、漁師は土曜で漁を休んでいた。沼島漁協の職員は「淡路の中でも沼島のハモは京都で喜ばれたものや。残念ながら、五年前から一隻も沼島から延縄に出ていない。夜の漁、しかも漁を終えてから縄さばき(整理)、餌買いが重労働で嫌われる。それに水揚げがさっぱりでわりにあわん」と、苦笑いした。

 沼島の漁師は、以前なら瀬戸内での漁が終わると、ハモを追いかけて、九州までハモ漁に遠征した。一晩で百十キロは固い。いまは三十キロを切る。カツオがいなくなり、こんどはハモ、やがてはアジの番。明石大橋がのしかかってくるようで気が重くなる。

 「京都では淡路のハモが一番といってますよ」

 「町では値が高いやろ」

 「祇園囃子が聞こえると三割はあがる」

 「昔は、とれたから、ここのもんも、よく食べた。いまは忘れた味になった。食べてみたい。産地でこんなことをいうのはおかしいが、現実なんや」

 淡路のハモは、沼島漁業の歴史を抜きに語ることはできない。ハモ専門の延縄は江戸時代、悦蔵、佐吉という漁師が和歌山からの帰りに、ハモの群生を見つけ、生きたまま採る方法がないことを聞き、延縄を改良して子アジを泳がせて釣るかけ延縄を開発したのが始まりになっている。すでに秀吉の時代には、大阪の雑魚場(ざこば)へ鮮魚を持ち込み、漁業にかけては定評のあった沼島は、京都が商業都市で栄える文化文政の時代にハモ、タイを送り込み、黄金時代を迎える。

 嘉永年間に沼島五人組の一人、清右衛門の文書によると、ハモ延縄七十一人にのぼり、漁場は五島列島から熊野灘まで広がっていた。瀬戸内は半ば閉じられた海であり、半ば開かれた海である。ここを拠点にした沼島衆が日本各地に出ていくのは、この立地と古くからの歴史の継承である。波止で網つくろいをしていた漁師に話かけた。六十八歳。とっつきは悪くても、結構、話好きである。

 「沼島は明治維新と戦後の二回、大きく変わったな」

 沼島漁業の転機は、偶然にも京都の経験した時代の変化と一致している。沼島は秀吉が雑魚場を開いた天正の初めから、大阪、堺へ魚を積み出している。明治以降、公家の儀式用魚の需要がとまり、沼島の漁業は衰退に向かう。沼島の漁師はよそいきと称して、西日本各地に遠征した主な目的は儀式用の魚をとることにあった。春に出漁して旧盆前の七月に戻るのを常としていた。

 「ハモは二十歳の頃はよく採れたな。仲買人が京へ持っていった。それが、いまは、ボチボチどころか、とれん。ハモがおらんようになれば、島から若いもんも出ていく。赤子が泣くのを聞いたことがない」

 ハモ漁が目に見える形で不振を極めていくのは昭和三十年(一九五五)代後半からだ。船が木船からプラスチック製になり、四人乗りが二人乗りに。漁業人口は変わらなくても船は三倍以上に増えた。もはや戦後でない高度成長の幕開け。船は乗合から一人か二人乗りの小型船になり、少数精鋭の漁業の時代を迎えた。設備投資分を回収するために、とれるだけとらないといけない。ハモの消費地である京の鉾町では、夜間人口減が静かに始まり、やがて祭の後継者問題か持ち上がる頃、ハモは淡路の海の底からあがらなくなる。いまや当たり前になってジャーナリズムも取り上げない過密過疎が同時進行していた。

 沼島が瀬戸内の漂白の民の定住から出発したように、大阪湾に注ぐ川の源流の京都北山でも炭焼きの場や木工の場を求めた人達が移り住み、自然相手の生活を営みながら、都市へ食材や燃料の供給、貧しくても豊かな生活を築いた。山の水が流れ流れて、たどりつく沼島。海と山で人間の営みに激動が訪れるのは昭和三十四、五年を境にしている。

 島の高台にある小学校を訪ねた。春休みのため日直の教諭が「昨年の新入生が八人、今年は七人。全盛期の人数ですか」といって、資料を開いてくれた。いくつかの波があるが昭和三十四年の三百八十三人を頂点にして、児童数は減っていく。現在児童はかつての十分の一になった。

 「テレビで沼島の春という番組をやったあと、島へ嫁が来て、子供が生まれた。その子たちが入学時になったのが、明るい材料ですが、昔とは比較にならない」

 京都の鉾町でも、人の流出はとまらず、小学校は山の学校と同じ規模の生徒数になり、小規模校の仲間入り、ついに統合された。

 これはどの鉾町にも共通する。都市も海沿いも山沿いも、社会構造の変化が進む。沼島小学校の生徒数変遷と大都市の中心部の学校とは類似している。戦争で生き残った町と島の地域社会がもはや戦後でなくなるエネルギー革命の昭和三十年代から変貌していく様は、過疎過密を単なる人口の都市集中でとらえきれないことを教えている。

 沼島の漁師が続ける。「ハモ漁は網に比べて、きつい。昼は泥の中で寝ている。夜、エサを求めるから漁は真夜中。エサは生きた子サバ、子アジでないと食わん。夕方に出て、朝に戻り、昼から準備して出港の毎日、それも夏や、みんな敬遠するわ」

ハモの本場にいながら、漁師の口からは過ぎし日の思いでが語られることに、戸惑い、気を取り直して、話題を変えた。

 ―ハモは梅雨の水をくぐっておいしくなるといいますが。

 「韓国産は五月頃が脂ののりがよく、淡路は六月から七月。産卵期前やな。旬やからうまいこともあるが、塩がなるい(あまい)ところの魚はうまい」。この話、和歌山でも聞く。瀬戸内海の塩分濃度は六月から八月にかけて低い統計は確かにある。河川からの水、雨水で海水の濃度が変化して、ハモの生態に影響するのだろうか。雨水の温度は海水よりも低いから比重の重みで底に沈み、その水をハモが飲んでおいしくなるという理屈はつく。

 「ハモは韓国でも資源問題化しており、このままいくと、韓国も淡路と同じ道をたどりかねない。産卵期の捕獲が原因だ」と、学者は、梅雨期の捕獲を懸念する。

 梅雨期のハモはやがて死語になる可能性を否定できない。食べられなくなると思うと、食欲がでるのが人間のあさましいところだ。

 ―沼島ではハモ料理を食べさせるところはあるのですか。

 「すき焼きにするかな。木村屋でやっている」

 船着場近くの料理旅館の名前だ。元祖ハモスキの看板があがっている。主人の木村一さんが説明する。

 「もともとは、漁師料理。ハモ漁を終えて戻ってくる。朝、フンドシひとつになり、浜であがりめ(死魚)をぶつぎりにして、サトウ、醤油ですき焼き風に食べた。味が濃くて体力のいる漁師の栄養補給にはもってこい。ただ、これを一般の人に食べてもらうには工夫がいった。それがハモスキになった」

 昆布出汁を醤油で味付け、そこへハモの頭から肝、白子にいたるまでぶち込む。淡路のタマネギとハモが出会いの味なっている。頭は、いわゆる白身の魚に近く、うまい。

 木村屋は祖父の代からこのハモスキをはじめ、淡路のいたるところで看板のあがる名物料理「ハモスキ」元祖らしく、店の構えは繁盛ぶりを物語っている。

 沼島の歴史は古い。紀貫之が船で通りかかった心境を歌にしているが、海賊横行の時代ゆえに、おびえながらの航海であった様子が歌に綴られている。日本書記のイザナミイザナギの神が日本列島に最初の地を印したオノコロ伝説の島としても名高く、港の山手に神社が祀ってある。石清水神社の荘園、都と西国の航路の要港として栄え、徳島藩おかかえの時代には、藩主立ち寄り港としてにぎわった。特に、黒潮にのって瀬戸内に入る魚は、いったん沼島沖に集まる。タイの入り込み時期の三月は入り縄といって一年のうちでも活況を呈した。

 ハモからはずれるが、回遊魚のタイのなかで、鳴門の渦潮が起こる瀬戸には漁師たちが「瀬つき」と呼ぶ、背中にコブ状になったタイがすみついている。この瀬つきこそ、身の締まりのいい極上のタイとして珍重された。このタイ漁が終わるとハモだった。

 ハモ漁は、沼島から南淡路の福良へ主力は移った。福良は由良とともに、中世から江戸時代にかけて造船地で知られ、漁業は一本釣りである。福良と沼島は、十五年前まで郵便船で結ばれていたが、いまは、土生港からバスの陸路しかない。山超えの道から遠く沼島を眺めてうつらうつらしていると、福良に着く。入江が深く、波静かな港町だが、外へ出れば、紀伊水道鳴門海峡の流れが海の男たちを待っている。

 午後三時半、じりじりと肌にくいこむ日差しを受けて九隻の船が出港した。ひとつの船に二人が乗船、一晩かかって延縄をいれる。沖野六十二さん、四十九歳。船には延縄を巻いた桶が二十積み上げられ、これが漁の生命線である。船に乗せてもらったが、桶だけは絶対に触らないでほしい、と注文をつけられた。ハモ延縄の構造を説明すると、幹縄に枝糸を下げ、その先に針をつけ、子サバ、子アジの生き餌を泳がす。幹縄の長さが七百五十あり、この間に四十五本の枝糸・針を垂らす仕組みで、一つの延縄で最高なら四十五本のハモが水揚げの計算だ。幹縄を合計すると長さ十五にもおよび、針の数は八百本にのぼる。水深五十だ。

   鱧漁に出港の福良の漁師

 「潮流は横に受け、幹縄がたるまないように投げ込むが、最初の起点に標識灯を点け、順次いれる。この呼吸がむつかしい。漁には出るが、水揚げは期待できない。淡路のハモがいくら質が良くてもまとまらなければ、買値でたたかれる。さあきょうはどうなるか」と、紀淡海峡へ舵を切った。船はリモコン、一隻あたり装備入れて二千万円はするから、家一軒分の投資に相当する。夕方から延縄を入れ、真夜中にあげる漁は、やはり、過酷というしかない。

 「沼島へ着くと、まず延縄の生きた子サバを沈めるが、休むのは晩めし時ぐらい。すぐに引き上げる。四時間から五時間はかかる」

 午前三時すぎ、船が真っ暗な海にランプを灯して、寄港する。漁師の顔色は、土色に変化している。顔を手拭いで隠した姿から目のみが輝く。砂漠の民のイメージに近い。「きょうは三十あたりかな」と、活け間を指した。のぞいてみると、太いハモが泳いでいる。「大きすぎて、カマボコ用、二まででないと値がつかん。京向けの一未満はわずか」。つの字のハモは幻のブランドに近づいている。

 「京はハモの質もよく知っている。最高のハモも最高の料理で味わうところや、漁師には励みになる」と語る沖野さん。離れていく京都と淡路を漁師のロマンがつないでいる。

 福漁には、漁師たちが宴会で歌う魚節が残っている。タイに始まり、延々と続いてハモで閉める。

 いまの唄、もろうてごめんなり 一にゃタイの魚

 長う申すはハモの魚

 酒と唄、酒盛りは、漁の話に自然といきつく。手を合わせているうち、時間を忘れていた。

                   続く

            この項は二回に分けて掲載します