第35回 相変わりませずという京の食彩歳時記

  −−つの字の「ハモ」その1−−

 京都では、相変わりませずというあいさつが、親戚、ご町内改まった日、場所での決まり事になっている。戦乱の時代を生き延びた町衆たちの、これからもよろしくと、希望を込めたあいさつであり、また浮き沈みの激しい商売人が今後とも、変わらぬおつきあいをしたい意思表示にもなった。それは互いの家の安定を示している。

 京都は祭りの町、上、中、下に分かれた町はそれぞれの神社の氏子になっているから祭の日が異なる。祭になれば、各家が相変わらずのシルシに物を届けた。代表的なものが、家庭でつくったサバ寿司とハモ寿司で、各家、町の交流の仲介をしてきた。

 西陣が実家の主婦は、五月の今宮祭には実家からサバ寿しが届き、祇園祭の鉾立て時に、こんどはハモ寿しに赤飯を添えて「お祭にはきておくれやす」と、あいさつにでかけた。両親が亡くなり、実家から「もうしんどいからやめよう」と申し出があり、ここで交換は取り止めになった。

 サバとハモの交換は、ごく一部でしかなくなっている。仮に継続している家があっても表に出すのは自慢たらしく聞こえるほど、少ない。裏を返せば、時代の波、各家の変化がそれだけ押し寄せていて、相変わりませずと、言える家が少なくなってきていることにつながる。

 五月、御霊(ごりょう)神社大祭。上京区の室町筋を回った。同志社大の北側、近くには表、裏千家の家元が並び、人形の寺で知られる宝鏡寺など神社、寺が随所にある。構えの古い家には玄関先に祇園祭のチマキがかかっている。そのうちの一軒で、サバとハモの交換の話を持ち出して、尋ねてみた。最初、応対の三十歳台の息子は、けげんそうに聞いていたあと、「おふくろを呼んでみんと」と、母親を呼んだ。

 「ここに嫁いできた当初(昭和二十六年頃)は、確かにサバ寿司を家族総がかりでつくり、改まったあいさつをして届けていました。他から来たものには、正直いって、大層でいやどしたけど、これがしきたりと教えられて続けていた。ところが、この商売、浮き沈みがありますやろ、いつとはいわんが、その家にはその家の事情ができる。うちも、商売がしんどい時期があり、他のことにかまっていられん。それでやめたんですわ。いまからすれば、変わらぬ付き合いは難しいからこそ、みんな力を込めていうのだと、思っていますのや」

 このサバとハモの交換は双方向で行われてきた。一方が届けなくなると、相手もやめて長い習慣も付き合いも終わる。仮に一方のみが届けるなら、いやみになる。冷たいようで相手の事情を察しての交換は、かくてひっそり京都で続いている。

 サバとハモ、産地は若狭と淡路。京の魚の二大ブランドである。いずれも漁獲減で慣れ親しんだ味が口にはいらなくなっている。皮肉なことに交通の発達による産地との距離が短くなればなるほど京都から遠去かり、相変わりませず、に見られるサバとハモ交換の京の町と町、家と家の交流も薄らいでいった。

 京の中心部の空洞化と、この魚たちの減少は不思議な関係がある。そのことを知ったのは、淡路と若狭からの京への海の道、山の道を訪ねてからだった。

 鉾町に祇園囃子が響く七月の午後。新町通りを上ル下ルする。この通りはまだ町家が残っている通りである。烏丸から西へ三つ目の通りは上京と下京を結ぶ連絡道路としてにぎわい、新の字がついても、そこは京都、秀吉の天正年間には名前が見える。平安京造営時には宮廷の修理一切を担当する職人の町の町口が上京側、南が町尻にあたる。

 四条新町の九階建てのビル屋上に上がった。眼下の陽光を返して、まぶしい瓦屋根の輝き。京都が失いつつあるもののひとつだ。土蔵を四隅に配したつくりは瓦と壁、白と黒の対称を際立たせている。江戸期の京は産業都市として発展し、京普請、京間、京細工、京染など京風のデザインを次々に生み出した。経済の繁栄は商、手工業者の仕事場と住まい併用の住宅の大量需要を呼び起こした。経済の持続的成長は、都を焦土にした応仁の乱の荒廃をもはや戦後の昔語りにした。新町通は商業の中心通りになり、祇園祭の鉾にしても四条南に船鉾、北は放下鉾、山にいたっては四つもある。瓦は江戸の輝きでもある。

    祇園祭京都新聞

 江戸時代の相次ぐ火災は、規格化住宅の町家を生み、焼けても町は蘇(よみがえ)った。取り澄ました、よそものを受け付けない印象の格子戸の構えも、猛火に立ち向かった町衆たちの心意気がこもっていると、考えるなら、ぐっと親しみを増してくる。

 夕方、祭見物の知らない町でも一歩、踏み入れると、まるで自分の町のような雰囲気が漂う。ふだんの京の町が持つ緊張感がなく、どこの町も、おいでやす、となごやかになっている。桟瓦(さんがわら)の屋根が昼間に比べて表情豊かに思うのも、人の出入りがあるからだろう。入口での立ち話がことのほかはずみ、京都の人がこんなにあけっぴろげだったかと、顔を見つめてしまった。

 京女は、どこの誰それの消息から町の出来事に、精通している。慶弔のつきあい、しきたりをこなしていくものすごい情報化社会で育ってきた。夕方の町のなにげない会話の風景からはうかがえない、聞けばびっくりの情報が飛び交っている。

 祭の町歩きには、そんなふだんの京が秘めた素顔をのぞく楽しみがある。

 祇園祭の浄妙山の世話役を長く務めたおばあさん、生まれも育ちも中京だ。

 「サバとハモ寿司の交換は、やってました。しかし、いまは上の親戚(御所より南は下ル、御所に向かっては上ル)はおこわ、うちは蒲鉾(かまぼこ)になりました。宵山に持って届けますのや。ハモとサバではこちらの身上がもちまへんさかい、中身は相変わりませずというわけにはいかんようで」

 鉾町の新旧雑居はもう当たり前になった。うなぎの寝床の町家の地形を空へ延ばしたペンシルビルに対して、入口をぴしゃっと閉ざした奥行きの京の町家が通りで張り合っている。ビルに負けへんで。こんな京都人の自負が聞こえるようだ。

  変わらぬ町で気づくのは、どの町にも仕出屋があることだ。料理屋に様変わりしている店も多いが、いまも仕出し一本の店も少なくない。暖簾(のれん)がひらひらと、通りへ匂いとともに、京の味をおくりだし、道ゆくものを招く。

 鉾町の粋人で有名だった今村耕三さん(故人)から以前に聞いた話は心を満たし、含蓄に富んでいた。

 「仕出屋のオヤジと立ち話していたら、忙しうて、足が張り、ハモ切りができんとこぼしとった。足の踏ん張りがきかんと、ハモ切りはできません。いまは、町内でも客を呼ぶ家も少なくなったが、昔は十五、十六日は客であふれ、錦あたりは夜通し開いていて、明け方に得意先の軒下に、だいたいここの家はこのくらいの客やから、ハモもこのくらいというて籠に入れ、置いておく。それを朝、仕出屋が集めて料理する。客はまずおみやげを届けなあかん。これは予約ですな。すると鉾町の家は、今日のお客さんはこういう方が見え、ご一緒になりますが、それでよろしいございますかという案内をして、祭の客を迎える。家のもんは客の接待に忙しいから、めったに家で料理はしない。仕出屋が心得ていて、勝手知った家の中から客用の器を取り出し、盛りつけまでした。もうこんな風景はなくなり、昔を知るものからはさびしいおすな」

 今村さんは戦後、山鉾連合会の結成に参画し、菊水鉾の復興と運営にたずさわった。写真館の主人だったが、お茶、花、能楽、料理のほか、剣道は師範七段の多趣味の人であり趣味の便利屋を自称していた。

今村さんの思い出が残る仕出屋の暖簾を威勢良くはねて「おとしもらおうか」。

 おとしとは、ハモを骨きりして、熱湯に落すことからついた名前だ。この骨きりが難儀で、ハモ料理の良否がここで決まる。仮に口の中で骨と皮に舌が出合うなら、店の骨きりの技術とハモの質、つまり値段と関係がある。それほど骨きりをたんねんにしたハモおとしは、あの骨の多いハモがどこへいったのか、思うほどなめらかである。

      鱧おとし

 食欲においても目、鼻、さらに指、耳の役割は大きい。出てきたおとしの白さと梅肉の色の組み合わせは鼻から酸味、目から色が飛び込み、いったん頭へのぼって混じり合って舌を刺激する。

 「ハモは十年前までは淡路のものが一番やった。チリメンハモいうて花のように開く。ハモの身に包丁を入れると、シャッリと切れる。いまは韓国産のハモが最高」と、店のおっちゃん。京で国産でなく輸入ものが人気になるところが、意外である。

 「つの字のハモってなんですねん」

 「あれは、昔、ブリキのカンカンに入れて淡路から京へ運んだ。缶の中では、ハモは長い体を『つ』の字にならざるをえない」

 水槽で運ぶ現代でも、つの字が幅をきかせている。この神話に近いブランドはどこから生まれたのか。 御所に近い中京区のハモ専門店、「堺萬(さかいまん)」の暖簾をくぐった。

 店の創業は文久年間、幕末。五代目の澤野輝彦さんによると、初代萬助は上賀茂神社出入りの料理屋「堺屋」で修業、独立して仕出屋を始めた。名前の萬と、修業先の堺屋の一字をとって店の名前にした。萬助は当初から鮮魚、なかでもハモ料理を特技にしていた。江戸時代、京都で鮮魚を扱う料理屋が増えていくのは文化・文政の頃、京が商業都市として繁栄して、物流さかんな時だ。江戸時代の俳人で食通の其角はこんな句を残している。

 飯酢のなつかしき都かな

 京都は江戸期に旅ブ−ムを迎える。都名所図絵は爆発的に売れ、京都案内書が相次いで出版される。現代の旅のように、仕掛けや演出を必要としない京の魅力が旅人の心をとらえ、観光地にした。人馬往来の激しくなる幕末には、鮮魚の需要が増加、京の町には瀬戸内や若狭、伊勢から魚が届く。

 現代と合い通じる流通戦争が江戸時代の京で繰り広げられていた。

 瀬戸内から運ばれる夏の魚がハモ。生命力があり、京都へ着くまで、おそらく生きていただろう。それよりも、炎暑でも鮮度を保つ方法が浜締めである。

 「浜締めとは、水揚げの魚の首のところから血を抜き、運ぶもので、これだと、ハモは死んでいても、肉は生きている状態だから、トレトレよりも食べ頃になる」と、堺萬の沢野さんは説明する。

 つの字のハモがその輪郭を表してきた。浜締めから四、五時間くらい経過してから食べるハモがおいしい。堺萬は生け簀(す)全盛のいまも浜締めのハモを使っている。「つの字に曲げることで締まりもよく、持ちもいい。刺激を与えるのか、味もいい」。つの字にこだわる理由も経験が裏打ちされている。

 調理場ではハモがまな板にのっている。糸が口についていた。「延縄(はえなわ)漁の印、網漁のハモは、痛みがあり、また延縄は淡路のハモの証明になる」。ハモの流通は、韓国、中国産の輸入ものが主流になった。

 「韓国産のハモも質がいい。ただ淡路とは微妙に違う。外洋のハモは皮が固い。料理していれば、どんないい韓国産でも淡路とは違う。お客さんには、わからないかもしれないが、こっちはわかるだけに他のものは使えない」

      境萬の鱧料理

 つの字のハモの漁獲量は激減している。仕込みに出かける沢野さんと町へ出た。

錦、京の台所。東から西へずいーと流して見れば、おもしろい。店売りもするが、料理屋へも納める。沢野さんは、錦へ出かけるのは魚の仕込みと、もうひとつ、錦の情報を仕入れるためだ。小売り、卸が並ぶ錦は産地、料理屋、一般家庭までの情報の宝庫。情報が集まり、ここから発信もする。沢野さんが立ち寄る店は、「丸弥太(まるやた)」。祇園囃子に交じって聞こえるあの音が耳から舌へ信号を送る。さくさく…、店先での骨切りがささやくように呼び寄せた。

 十年前、丸弥太のおかあさん、西川幸さん、七十六歳に聞いたことがある。魚にかけては錦一の目利き、産地にも詳しい。「うちは担ぎと市場もんが四と六の割合で仕込むが、祇園の店に卸すのが多い」と西川さん。担ぎは死語になりつつあるが、錦の産直ルートの運び屋をさしている。夏のハモは産地の淡路から京都まで船と電車を乗り継いで運ばれた。トラック便になってまだ十五年足らずだ。明石と和歌山の簑島の担ぎ屋が大半を占めていた。

 鉄道開通までは、大阪の八軒屋(天神橋・天満橋の川岸)から上り船で淀川を伏見まで一日、もしくは一晩かけて京へ届けた。

 沢野「ここに来ると、魚だけやない、情報まで集まっているようで、つい長話になってしまいますわ」

 西川「ハモも、みなさん、最近は食べるのが早ようなって、五月からもうハモ。つゆをくぐっておいしうなるのは昔話になりました。カンカンで担いだ頃は、浜締め(血抜き)いまは生けすでくるから店で締める。これは大きな違いです」

 沢野「淡路のハモがほとんどとれんから、韓国産が中心になりました。質もいい。昔は東(東京)はハモを食べんかったのに、近頃は東の需要が増えた。漁獲が減り、需要が増えれば、品薄、値もしっかりとられる。もう、庶民の味やない」

 西川「そうですな、昔はいまの半分も扱わなかった。骨切りは京都でしかできなかったし、食べる工夫もしなかったのが、東も西もハモというようになった」

 沢野「蒲鉾にした古い文献はあっても、ハモの鮮魚は京都でしか扱わなかった。安うておいしいから、もてはやされた。骨の数は背骨が百五十八、小骨が三百十六、これに腹骨を入れると倍近い。その骨を切って、食べることを考えだした昔の人は、貪欲というか、えらい」

 西川「寸法、鮮度、産地が京都のこだわりですわ。ええハモは、頭が小さくて、目玉も小さい。胴体がいかっている。惚れ惚れする体をしていますわ。それを食べたらおいしいはずですわ。ハモの安い時に、丼鉢でせんど食べたいと、いつも思うけど、なかなか機会がおへん。おとしは梅肉といいますやろ、けど私はポン酢かワサビ好み」

 沢野「店では梅肉、ポン酢、ワサビ、酢味噌も用意しますが、私は疲れて食欲がないとしょうゆの勝った二杯酢でたべます。好みですな」

 西川「このまえ、買い物の奥さんが骨切りせんと、ぶつぎりでほしいといわはって。鍋でたくと、骨が浮き出て、抜ける。それをかぶりつく。出汁(だし)もいい。ほんまにおいしい話で、聞きほれました」

 沢野「淡路では味噌汁にいれるそうです。これもうまい。錦は料理人から家庭の奥さんからも情報が届く。これは参考になります。よそではないことです」

 西川「うちなんか、ハモの頭を店に並べますのや。これを素焼きにして出汁採ったら、どんなにおいしいか。お客さんに勧めますのや。また、買いにきてくれはる。ハモがこのまま、減っていったら、心配やけど、今年は淡路の方はどうなっているのやろか」

 京には都のさきがけという言葉があるが、ハモ料理は京が生んだ食のさきがけになる。 六月の新聞の記事が「つの字のハモ」の故郷への旅を思いたたせた。

  JRの車窓から明石大橋が見えてくる。淡路まで大橋経由で渡ることも考えたが、明石から、フェリーにした。久しぶりの明石は、以前と印象が変わった。城よりもビルが目立つ町になった。

 魚棚通り。かつては、ここに淡路のハモが集まった。アーケードのない頃、タコが籠から抜け出して、通りで店主に捕まったり、逃げたりするなど魚河岸の雰囲気を持っていた。通りの並びがスーパーと変わりのないつくりになって、タコも飛び出しにくくなったが、タコが相変わりませず、と足をくねらせ、魚の威勢の良さはかつてのままで、ほっとする。

      魚棚商店街

 「ハモ?…、そうや、前の島からあがらん。以前は明石で大阪向き、京都向きと、そろえて出荷した。この頃は、ここでも淡路のもんは手にはいらん」と、店の人が語る。鮮魚の卸・小売の『かねき』の主人は「かつぎやさんがいまもうちから京へ運んでいるが、一店だけでなく、かき集めて、数を確保していると違うか。外国産が半分、残りは四国、九州からになる。この間も下津井(岡山)であがった。流通が変わり、どこの港にあがるか、わからんから、情報が勝負」と、季節になれば、各地の水揚げを把握するのが日課になった。

 「以前なら京にまかせておいて、といえたが、とてもうちでまかないきれない。さびしいといえば、さびしい話や」

 魚棚通を抜けて港へ出る。対岸の岩屋まで船で十五分。大橋開通で交通の流れは、貨物はもとより、神戸、大阪からの直通バスに移るが、岩屋と明石間に限ればフェリーは時間、料金すべてで大橋経由に勝る。

 明石海峡の流れは早い。瀬戸内海へ黒潮紀伊水道と豊後水道の二カ所から流れ込む。広くて底の平坦な灘ではゆっくり、狭くて起伏のある瀬戸では川になる。大きな流れは高松沖と岡山沖で合流、さまざまな島をぬって瀬戸内をうねる。

 岩屋から洲本、洲本から土生までバスを乗り継ぐ。時間待ちの連続で、大橋開通による交通システムが島のバス便に影響を与えている。大阪や神戸からは直行バスが運行され、便利になったが、肝心の地元の足はブツブツになってつながっていない。しかし、待合室でのんびり、時間をとりとめなく過ごしていると、なんとなく、地元に溶け込んでいきそうな気がするから、路線バスの楽しみも大きい。目指すはハモの漁場、沼島である。

                                 続く