第33回 このたびは、幕末日本を流行病が

     長崎から列島縦断の史上初の「ハシカの旅」


  時代の変革期には、いやな病が流行る。新型インフルエンザに関西はいささかあわて気味であるが、維新前夜の日本ではハシカが猛威をふるった。九州から東北まで駆け抜けたハシカは、薩摩藩大名行列が運んだといわれる。尊王攘夷、幕政改革をめぐり、京と江戸では政治の綱引き最中の幕末日本で小杉元蔵という近江商人が記録したハシカ騒動記をみなさんに届けたい。もちろん、初の試みの旅のはずである。

  時代は黒船来航による開国をめぐり、徳川幕府と京都朝廷が対立、安政の大獄を指揮した大老井伊直弼桜田門外で水戸浪士に暗殺された。その事件から2年後の文久2年2月、長崎でハシカが流行した。4月には、九州から中国、5月には大阪、京へ広がった。

  このハシカを広めたのが薩摩藩の上洛といわれている。島津斉彬没後、異母弟の久光が後継藩主になり、彼は京における薩摩の影響力を高めるため、上洛を決意する。

  久光は3月16日、千人の供を引き連れ、鹿児島を出発。薩摩街道を北上して長崎街道にはいり、28日下関に到着している。長崎流行の「ハシカ」がどこから一行に合流したかは、定かでないが、薩摩の長崎屋敷から途中、藩主初上洛を出迎えや差し入れは当然、あっただろうし、長崎街道にハシカは広がっていたかも知れない。山陽道を進み、4月6日姫路、9日兵庫、10日に大阪に着く。この上洛には西郷吉之助が反対、独自行動をとったから、久光は激怒している。

   島津久光


  京都伏見には4月13日に着き、薩摩屋敷に落ち着く。4月16日、御所参殿し、持論の公武合体を進言する。ところが薩摩屋敷内で高熱、下痢症状の藩士が続出した。出入りの商人にうつり、たちまちハシカは京へ蔓延する。口うるさい京の人たちは「島津はんが運んできやはった」と、噂した。というのも、久光一行の上洛に合わせて、ハシカも移動していたからである。

  ハシカは感染から10日前後の潜伏期間があり、発症しても初期の3、4日は風邪に似た症状で推移、しかもいったん、回復したように思わせたあと、高熱が出る。久光道中日程から、感染が長崎街道とすれば3月26、27日ごろだ。大阪ではかぜかな、というぐらいの初期であり、旅の疲れも重なって京で落ち着いたとたんに発熱はつじつまがあう。
  騒動を記録した近江商人は、大阪で感染した。大阪では、商家はことごとく感染して、店はいずこも閉店状態になっていた。そこへ商いの近江商人がでかけ、いわゆる濃厚接触のあげく、ハシカをもらい、郷里の近江で発病することになる。

  この商人は京と大阪の間は、淀川を夜船で行き来した。例えば午後4時、伏見に向かい、宿で休憩後、夜船で下ると、守口で夜明けを迎えた。帰りは、大阪の用をすませて、とんぼ返りで本町から夜船に乗り、早朝、伏見に着く。飲み食い、客同士の盃回しもあっただろうから、大阪からハシカは水陸両方で京へはいる。島津藩行列のほうが先である。

  京の薩摩屋敷は大騒ぎになった。大熱脳乱のおこりのような症状で下痢もとまらない。いったんおさまるが、再び熱が出て、10日余り、断末魔の苦しみを味わう。薩摩家中600人がかかったという。

  薩摩藩では大釜で薬を煎じて、飲ませたというが、症状の重い大人に比べて、町の子どもは軽くてすんだ。

  久光はハシカがおさまる間、京で1カ月滞在した。この間、寺田屋事件が起こる。

  薩摩藩士の攘夷過激派の有馬新七らは久光上洛を挙兵による倒幕と思い込み、幕府と融和を進める九条関白と所司代の暗殺を計画していた。しかし、久光はまだ倒幕に舵を切っていないから、過激派の動向に神経をとがらし、御所でも藩士の過激な行動を抑える約束をしている。有馬ら60人は寺田屋集結して謀議していた。久光の命を受けた大久保利光が計画中止を説得するも、拒否され、上意討ちの藩士の間で激闘になった。有馬ら6人は死亡、残りは投降して薩摩藩同士の戦闘は終わった。

      伏見寺田屋


  久光は勅使大原重徳とともに5月22日、江戸へ出発する。むろん、ハシカも一緒だ。久光らの江戸行きは、幕府に安政の大獄責任者の処罰と、慶喜将軍後見職に、松平慶永を政治総裁への起用を迫る勅旨を伝えるためだった。

  ハシカは久光江戸道中に合わせてまず近江、北陸、中部、江戸に広がり、さらには東北もハシカ流行圏になる。維新前夜のあわただしい政局の陰で、武士から庶民にいたるまでハシカに見舞われた。

  近江ではこんな話が伝わる。

  ハシカで苦しむものの、枕元に死に神があらわれた。家内8人のうち6人が罹り、達者だった男の枕もとに「われはハシカの疫神なり。お前の家のものは、残らずあの世へおくる」といい、男が「なんのうらみがあるのか」と、くってかかると、口論のすえ逃げ去ったという。他の家では「酒一合飲ませたら、退散する」と、いって、言葉通り、酒を飲み干していなくなった。おそらく、高熱にうなされた夢の話しであろうが、当時は疫病神の存在を信じていたようである。熱は20日も続くこともあったから、笑い話ではなかった。       季節は夏を前にした梅雨前後の気候不順なころで、新型インフルエンザ流行と、良く似ている。外国との窓口、長崎から始まるところも興味深い。

  ハシカ騒動が下火になる7月、京では政変が起きた。公武合体派の九条関白がお役御免になり、四条河原に九条家の諸太夫島田左近の首がさらされた。井伊直弼の腹心、長野主膳が死罪になり、井伊直弼暗殺後の彦根藩は、直弼の開国に反対して蟄居の家老岡本半助が実権をにぎり、尊王攘夷に舵を切った。国学者長野主膳は、直弼の命を受け、京で朝廷工作にあたり、天皇彦根還幸を反対派公家に広言して、物議をかもすが、最後まで直弼側近をつらぬき、遺書には「先君を知るものはわれなり。われも、また業終わらずして中途に逝く、天命なり」と、記した。

  久光一行は江戸の帰り、横浜でイギリス人殺傷の生麦事件を起こしている。一行とともに江戸まで同行のハシカは、東北まで旅している。庄内地方の寺に残る過去帳には文久2年の流行り病で40人死亡とあり、日本全国の死者は20万とも30万とも推測されている。飢饉も重なり、農家の暮らしは困窮、打ち壊しが相次いでいる。

  幕末日本の経済は、横浜開港後、一挙に国際化の大波をかぶり、アメリ南北戦争が日本の綿織物の輸出にたちまち影響した。また外国通貨の洋銀も国内に持ち込まれ、金、銀の投機に失敗した京都一の両替商が50万両の負債を残して倒産するなど、ハシカは不況と激動・政変を運んできた。


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