第27回 お伊勢さん参り 〜江戸から現代に続く聖と俗の旅〜

 時代の激動期には、神仏信仰が時には政治情勢と連動してブームを呼ぶ。幕末の慶長4年の伊勢神宮札が空から舞い、民衆が「ええじゃないか」と、乱舞し、全国各地から伊勢参宮の行列が続いた。伊勢神宮へのお蔭参りは江戸時代、60年周期で集団参詣を巻き起こしたが、近年の社寺めぐりのにぎわいも、時代の閉塞感や先行きへの不安感の裏返しといえなくもない。そこで、伊勢参詣に見られる江戸時代の風俗をたどりながら、お伊勢参りに旅立った。いまは、京都からなら電車で日帰りも可能であるが、江戸時代は7日をかけた。多くは年末に旅発ち、大晦日に伊勢、外宮に参拝して元日に内宮に参拝するのが通常のコースである。

     
         第二鳥居と参道(内宮)

 江戸時代の伊勢参詣は伊勢講と呼ばれる積み立てで順番を決め、順繰りにでかけた。最初こそ、全員が参るが、後は代理参りになった。この講は、明治になり、伊勢講の多くは解散するが、祭りの神輿の担ぎ手はじめ、地域の連帯に影響が出て、復活し、現代も続いているところはあるが、関西では小学校の修学旅行が伊勢・鳥羽になり、役目を終えている。年輩者が同窓会で伊勢参りを企画し、人気があるのは、伊勢参詣だけでなく、枕投げに興じた旅の思いでの地であるからだ。かつての講が若者たちの生涯の友との語らいの旅になったのと同じだろう。

 講からの参拝が正規なら、子供や女たちが親などに無断で行く抜け参りがあった。民俗学宮本常一は著書の中で、元禄宝永珍話から引用した話として、宝永二年の四月、京の童男童女、七・八歳から十五歳のものが貧富を問わず、抜け参りした。この抜け参りがその年の巨大な参拝客の塊のおかげ参りに発展したと書いている。

 ともかく、京や大阪からの若者たちの参拝の服装も派手で奇抜にして、沿道の目をひいたらしく、若者たちのパーフオマンスの様相を呈していた。伊勢参りはファッションとしての要素もあったようだ。若い男女が畑仕事の帰りに打ち合わせて、グループで伊勢参りする。親は夕方になっても帰ってこない娘の身を心配するが、抜け参りとわかると、安心した。道中、若い男女が笑い転げていく旅であっても、親は目をつむった。

何よりの土産は、伊勢の出来事。「握りこぶしの大きさのサザエ、お頭つきのタイは潮の香りがしてうまかった」と、伊勢の食事がやや誇張気味に語られ、若者たちを刺激し、旅へ駆り立てた。土産のひとつにアラメがあった。

  アラメはかつて関東のヒジキ、関西のアラメと並び称された伊勢特産の海草である。荷物にしても重くなく、数持って帰れる重宝な土産として喜ばれた。

 アラメの食材としての歴史は奈良時代正倉院文書にもあり、京都では精進料理の材料に使用され、やがて一般家庭まで普及する。

     
            アラメ

 京都市内はもとより、山城地方のお茶の産地では茶摘みの頃、お茶の葉の荒い芽がでるようにと、アラメを食べた。アクセントも「メ」に力を入れるが、志摩では単に「メ(芽)」で通じる。いまは、ヒジキに押されて、影が薄いが、カルシウムは牛乳の十二倍、鉄分豊富、植物繊維はゴボウの六倍もある健康食品で、江戸時代の文献では女性の病にもいいと記されている。

 現代の旅は京都からなら近鉄特急が速い。車窓で昔話を手繰っているうち伊勢神宮宇治山田駅まで2時間余で着く。おかげ参りが最も盛んだったのは、一八三〇年(文政十三年)。この年、京都は大地震に見舞われた。春の参拝客は四百五十七万人で、一日最高十四万人を記録した。

 内宮の宇治橋に立つと、かなたにやさしく二つの山、神路山と鳥路山が弧を描く。五十鈴川にかかる宇治橋は、俗と聖の境の橋といわれるが、橋を渡った参道は、玉砂利が敷きつめられ、歩くたびに足下から音がする。深夜の道を思わせる響きは押すな押すなの雑踏を玉砂利の音の中に吸い込み、神宮リズムに編曲して参拝気分を高めていく。一歩一歩踏みしめて歩く。反対にお参り後、宇治橋を渡って、おはらい町へ向かう足元は軽く、雑踏を求めている。風景に合わせて気持ちも変わる。神域の森はため息の出るほど飾りがない。風もためらう静寂jが包んでいる。


 さあ、ぱっといこうか。厳粛な一瞬から、この変わり身の速さ。これが伊勢参りの楽しさだ。おはらい町は関西の小学校の修学旅行の舞台である。通りの建物は一時、鉄筋づくりが増えたが、木造に建て直しが進み、表は昔づくりにして、江戸情緒に近く。名物の赤福餅店は心機一転、営業再開している。

 井原西鶴は三百人もの泊まった宿の料理の手際良さを書き留めた。煮湯にかごをしかけて炊いた湯取り飯という方法で早炊き、魚は片焼きという少ない人手でまかなう段取り良さは、旅慣れたものでさえ目を見張るものがあった。

 名物の赤福餅、生姜(しょうが)糖はいずれも江戸後期の商品で、剣先(けんさき)御祓(おはらい)形の生姜板は明治時代、熨斗(のし)形もそのあとに生まれた土産品になる。

 町の料理屋は清火屋と呼ばれ、火のけがれにやかましかった伊勢らしく、不浄の火で煮炊きしたものでないことを強調していた。入り口に「清火」の提灯がかかっていた。

 通りの立ち話から往時をしのぶと、もっと面白い。「店の名前なら『底入れ』。これは花街へ行く前にちょっと腹の底に入れておくのが屋号になった。どこで遊ぶか迷う道筋には『思案』が待っていた」という具合に客の気持ちを鮮やかにとらえている。

 うどん屋の暖簾をくぐる。伊勢のうどんは独特で、太いうどんに、濃いタレのかけうどん。京風の色合いからすれば、ダシ汁の色でびっくりするが、口にすると辛くもない。 ソバ湯ならぬ、うどん湯をもらって、残ったつゆに入れて飲むのは伊勢通か地元民。冬には風邪殺しの名前がつく。

 おはらい町は、年々、古くなっている。徹底して江戸時代を再現するまちづくりが軌道に乗り、町そのものが映画のセットに使える江戸の雰囲気を取り戻した。

 いい匂いのする方向には焼きハマグリの店。おかげ横丁には芝居小屋つくりの「おかげ座」、その隣は招き猫の吉兆招福亭、伊勢たくあん、牛鍋の店と数えてみたら、屋台も入れて二十八軒の店が並んでいた。地酒の伊勢萬を見学して、端麗でこくのある「おかげさま」を口にして、伊勢参りを締めくくった。

 伊勢から鳥羽。近鉄鳥羽駅は、平日ともなると、閑散としている。志摩地方は、近鉄の賢島線開通をきっかけに京都、大阪からの人気の観光地の座についた。伊勢参りの小学校の修学旅行の思い出の地であり団体、個人客が伊勢から志摩、さらには、渥美半島伊良湖岬までつめかけた。

 観光地志摩の特徴は、伊勢参りの歴史を背景にした斉王らの雅びの旅と江戸時代の庶民の旅が融合した観光地であることだろう。二十世紀初頭に三木本幸吉が開発した養殖真珠は世界に伊勢・志摩の神秘の輝きを広めた。神々と真珠の地のロマンは、旅心を刺激しないはずがない。宿舎にしても、皇室ゆかり、海外賓客のホテルから、民宿がそろい、ヤマハのリゾート施設は七十年代のユースカルチャーの舞台でもあった。幅広い客層が宿泊できる受け皿が伊勢・志摩にはあった。

 旅が個人客中心になっても、伊勢・志摩は本来、影響を受けない観光地のはずが、いつしか、客足は国内の観光地並みに落ち込む。民宿まで団体専門になり、俗化していく。

 付け加えるなら、各地にあった伊勢講に見られる地域コミュニティが崩れ、伊勢とのつながりを希薄にした結果、旅先としては、数多くのある観光地の一地域に変化したことも大きい。アラメ需要が激減する経過と、観光は同じ道を歩んでいる。地元漁協のアラメ復活の取り組みも、伊勢・志摩観光の再発見が底流になっている。

  鳥羽駅から車で二十分の「海の博物館」は二年前から、アラメ講座を開催して、地元民や観光客の間で評判がいい。学芸員の平賀大蔵さんは、海の恵みの源であるアラメを説明する。

      
             海の博物館


 「伊勢エビは貝を求め、エビを追うタコがアラメの海中林に集まっている。海岸からわずか二百の岩場がアラメの海中林です。多くの生き物がここで命を育んでいる。アワビやサザエもアラメを食べて成長する。志摩のアワビが別格の評価があるのも、この海中林の存在が大きい。千五百人もの海女が海の恵みで生活しているが、アラメはこの源なんです」

 アラメは水深五から十の岩場に成育する。根本から二股に分かれていて、ヤツデ状の姿をしている。海女が潜って採るほか、浜辺に漂着したものも多い。夏、浜辺に打ち寄せられた茶色の海草といえば、わかりやすい。

 海の博物館から車でさらに二十分の国崎。くさきと読む一帯は、暖流と伊勢湾回遊の潮が交じり合う。伊勢神宮の神戸(かんべ)の名の通り、ここで美味なるアワビが捕れるから天照大御神が鎮座されたという神話も伝わる。神々はアワビがことのほかお好きだ。伊勢の大神にお供えする神饌(しんせん)の代表がアワビであり、海から遠い京都の下鴨神社でも葵祭の神前メニューに欠かせない。

 国崎は神宮鎮座とともに、アワビを納めてきた。「そう二千年変わらず、ずっと」と、国崎漁協の小口幸作さんはいとも簡単にいうが、古いものには自信のある京都でさえ、二千年となると、かなわない。

 小口さんの案内で荒波洗う鎧(かぶと)崎の付け根にある御料鮑調製所へ出かけた。サザエ、アワビの殻が積み上げられている。毎年、五月中旬から海女のアワビ漁が解禁になると、古老たちが調製所に集まり、熨斗鮑(のしあわび)づくりにはいる。漁師の一線を退いた男たちが生アワビをリンゴの皮をむく要領でひも状にのしていく。七百ク゛ラム のアワビでのした長さは三半にもおよぶ。

 「昔は大きさが洗面器ぐらいのアワビがいた。最近はめったにない。数と大きさをそろえるのが大変やのう」と小口さん。熨斗鮑をつくるのは、全国で国崎しかない。のしたアワビを天日干し、飴色になったところで寸法に合わせて三種類に切り分ける。これが熨斗鮑である。もっとも神宮では鮑でなく鰒の字を使うから「熨斗鰒」と書く。

 アワビは昔から百年の生を保つといわれた長生きの貝で知られ、国崎には七十人の海女がいるが、七十歳を過ぎてなお現役も珍しくない。瀬古きみ子さんは、元気の秘訣はアワビを食べるから、と、先輩海女たちのたくましさ、働きぶり語る。

 「妊婦は目のきれいな子供が生まれるというて、アワビの腸をふんだんに食べさせられる。海の人間にとって目は命ですから」

 枕崎のビンタ料理で子供が親からカツオの目を食べさせられると同じ理屈だろう。

 神々の食事からお腹の赤ちゃんまでアワビづくし、うましの国の幸である。

 「昔は国崎でのしたアワビを売っていた。もともとは保存食、それが儀礼の縁起ものになった」

 伊勢の神々は年間、どのくらいのアワビを召し上がるのか。小口さんによれば、生アワビにして七百キロを国崎から神宮へ納める。

 「仕上げは最上座の古老が包丁で切りそろえる。それを次席が幅広のアワビ十枚に束ねる。これが大身取(おおみどり)鮑、次に中位のアワビ五枚を束ねて小身取、下座では小片二十四枚を一連にした玉貫(たまぬき)鮑にする」

 国崎の人たちは気の遠くなるような歳月をかけて、熨斗鮑づくりを代々、受け継いできた。

 この国崎はアワビと磯の雄、伊勢エビの産地でもある。神々が指定した歴史は、志摩の海でも国崎ブランドとして名高く、価格も高い。地元漁師たちは、黒潮の影響と、伊勢湾に流れ込む川の水と海水が交じり、伊勢湾を回遊する立地をあげる。

 「黒潮がまともに流れ込む尾鷲あたりに比べて国崎の海は塩分が薄い。それに潮の速さ。しかもここは、磯近くが漁場になっている」

 伊勢エビ漁は師走解禁だ。午後三時の網入れは海岸から百も離れていない磯へ、各漁船が一斉に飛び出していく。手漕ぎでいける距離だ。伊勢エビは夜、岩礁でエサを探す道を決めており、ここへ網を入れる。網の引き上げは翌朝の六時四十分、志摩の海に朝日がのぼる頃、漁は最盛期を迎える。アラメが網についている。サザエもイシダイもかかる。伊勢エビを好物にするタコも網にしがみついている。

 「タコはきれいに伊勢エビの中身を吸い取るように食べる。アラメの海で一番、おいしいものを食べているのはタコ。ここらのタコは明石よりもうまいはずだ」と、漁師たちは笑って自慢する。

 倭姫命(やまとひめ)が国崎の海岸で海女の差し出したアワビを大層、気に入られ、神宮の御饌(みけ)に供するよういわれたのが始まりという。国崎には、この時の海女の霊を祭る海士潜女(あまかつぎめ)神社があり、大祭には神宮から舞女が舞楽を奉納する。神宮の神饌は国崎で持っているといっても過言でない。

 いわゆる一般にいう熨斗鮑は公家文化よりも武家文化の範疇にはいる。室町時代は祝い事で反物や刀を贈る時、アワビを高盛りにして一緒に届けた。しかし、生ではかさばるから、アワビを打ちのばし、薄く広げた。国崎の方法とは違うが、このアワビを末広に切り、重ねていくのが礼儀になった。敵を討つ、と、打ちのばすをかけて打鮑(鰒)がカチグリ、昆布とともに武家三種のさかなになり、一般化していく。「京都は、どちらかといえば、つながりが薄いほうの土地になるかな。ただ茶席には熨斗鮑を使う」と。茶席と熨斗鮑の関係、武士が戦陣の前に茶を一服たしなみ、気を落ちつかせたことを考えるなら、閑寂の世界と秘めたる闘志の象徴の熨斗鮑の組み合わせは異質であって、かつ、一期一会に合い通じるものがあった。

       〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜