第118回 奈良・秋篠寺をゆく

  〜謎めいた日本唯一の伎芸天女像〜

  秋篠寺は平城宮跡都の西北にある。近鉄奈良線西大寺駅から歩いて10分ほどで着く。バスもあるが、乗ってすぐに降りるため、慌ただしく、ここは晩秋の道を歩くに限る。女性にはだんとつの人気で、道筋で出会う人の列も中年を中心に華やかさがある。男は影がうすい。
  こんもりした森の 中に寺の門として控えめな構えの南門がたっている。駐車場のそばは東門のため、この門をくぐる人が大半であるが、南門が正規の門。人の出入り少なく秋篠寺 の山号がなければ、見逃すかもしれない。秋篠寺は奈良末期に建立の法相宗寺院。法相宗三蔵法師こと玄奘三蔵がインドから持ち帰った大乗の教えを受け継 ぎ、日本では南都仏教の中心になった。現在は興福寺薬師寺大本山。秋篠寺も官寺として隆盛をきわめ、その後、真言宗、浄土宗を経て現在はどの宗派にも 属さない単立寺院になっている。昭和16年の秋、堀辰雄は奈良を訪ね、秋篠寺まで足をのばした。すでに『風立ちぬ』を発表して人気作家の仲間入りをしてい た堀辰雄だったから婦人公論連載の『大和路・信濃路』は、それまで注目されることのなかった秋篠寺を有名にした。
   ―午後、秋篠寺にて
  いま、秋篠寺という寺の秋草の中にねそべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女の像をしみじみみてきたばかりのところ だ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののような気がせられてわけてもお慕わしい。(中略)此処はなかなかいい村だ。寺もいい。いかにもそんな村のお 寺らしくしているところがいい。そうしてこんな何気ない御堂の中に、ずっと昔から、こういう匂いの高い天女の像が身をひそませていてくださったのかとおも うと、本当にありがたいー
  堀辰雄の文章にもあるように昭和初期の秋篠寺はひなびた村の中にぽつんとあり、奈良の有力社寺に比べて知名度は低かった。白洲正子も戦前、『野中の荒れ寺に ひとしい秋篠寺を訪ねた』とまで書いている。堀の文章やひっそりしたたたずまいと、あきしのという名前からロマンを求めた観光客が訪れる奈良の隠れ寺の評 があった。この寺が雑誌に紹介されたのは明治半ばの美術誌による「伎芸天」像の紹介が最初だったという。
  平安末期に火災に遭い、寺の大半を焼失し、鎌倉時代に講堂を修復再建した。南門を進むと、東塔礎石と基壇が残り、西大寺の礎石と類似していることから官寺として伽藍整備の時期を推定するヒントになっている。
     
  苔庭には金堂跡の礎石があり、南大門、中門(現南門)、東西両塔、金堂、講堂の伽藍配置になっていた。現存するのは国宝・講堂のほかわずかしかない。奈良時 代の建築様式を踏襲した簡素な外観はゆるい勾配の屋根と調和し、モダンさえ感じる。内陣はうす暗く、照明の中に仏像が浮かびあげるさまは、演出効果も行き 届いている。正面一列の中央に本尊の薬師如来座像、左端に伎芸天像(重要文化財)が立っている。
  首をかしげ、やや前傾して伏し目がちの腰をひねった独特のポーズは、ギリシャ神話のアテナになぞらえた東洋のミューズの呼称を生んだ。開きかげんの口びるは 歌を口ずさんでいるかのようでもある。205センチの大柄な像の頭部は奈良時代の作、体は火事で焼け、鎌倉期に修復されたため、天平・鎌倉合作ということ になる。この種の像として日本で唯一の天女像だ。伎芸天はインドのシバ神が天界で器楽に興じている時、髪の生え際から生まれた天女。容姿端麗、器楽の芸が 群れを抜いて優れ、芸能を司る神になった。もともと中国では崇拝されたが、日本では広まらなかった。
     
  ここでひとつの疑問が起こる。なぜ日本唯一の伎芸天像が秋篠寺に残ったのか。
  像に関する文は残っていないため、美術家らの考証によっても真偽不明のまま今日にいたっている。経典に出てくる伎芸天像は左手に花を乗せた皿を持ち、右手で 嘗裾をつまんでいる。秋篠寺の像は右手のひとさし指と小指を立て、左手を裾にからめたポーズのため、経典経軌の記述とは大きく異なっている。そこから伎芸 天像説に疑問を生んだ。天平期に伎芸天の経典経軌は伝来していないといわれ、東大寺八角堂燈篭にみられる音声菩薩(おんじょうぼさつ)像説が根強くある。 しかし、当時、経軌がわからないゆえの異なったポーズの見方も可能だから、半開きの像の口から流れる声に耳を澄ますしか語るものはない。
  伎芸天像の関する解説書は数少ない。辞典類でもふれていないものもある。希少性と像の美しさが憧れを生み、女性フアンの心をとらえた。
  秋 篠寺は奈良末期から平安初期の政変の渦に巻き込まれた。建立は寺伝によると、776年(宝亀7)、光仁天皇の勅願で興福寺の善珠が開いたというが、定かで はない。続日本紀宝亀11年に光仁天皇が秋篠寺に百戸の封戸(税を納める民)を与えたとあり、寺伝の由来と大きなずれはない。光仁天皇の先帝は女帝の称 徳天皇聖武天皇光明皇后の娘に生まれ、父の跡を継ぎ孝謙天皇として即位。その後、いったん退位するも称徳天皇として再び実権を手にした。女帝は夫を持 てず、後継の子も許されていないため、在位中は後継争いが激化した。
  有名にしたのは僧が天皇の位を狙った道鏡事件。法相宗僧、道鏡は病気になった称徳帝の介護で信任を得て、法皇と称したNO2の地位にのぼりつめた。日本霊異 記など説話集には天皇とは男女の仲の記述もあり、一介の僧が権力を握る構図は、よほどの寵愛を受けたとしか思えない。和気清麻呂が奔走した宇佐神宮の神託 により、即位を阻止され、失脚した。
  問題は後継天皇である。天武系の後継者は相次ぐ政変で限られ、壬申の乱に勝利して即位の天武天皇系は称徳帝の死で終わり、逼塞していた天智天皇の孫(施基親 王の子)白壁王(光仁天皇)が浮上した。白壁王の妻は聖武天皇の娘で称徳帝とは腹違いの妹井上内親王で、その子他戸親王は天智系と天武系の双方の血を受け 継いでいた。
  誰もが高齢の光仁の後継は他戸皇太子と思っていた矢先に不可解な事件が起きた。
  皇后であった井上内親王と他戸皇太子が天皇呪詛の罪に問われ、廃后、廃太子のすえ怪死する暗闘が繰り広げられた。歴史は冤罪であったことを証明するが、皇太 子には光仁高野新笠の子、山部王(桓武天皇)が決まる。天武没後、持統(女帝・天武の妻)、文武(天武の孫)、元明(女帝)、元正(女帝)、聖武、孝 謙・称徳と続いた天武系の皇統は天智系になった。奈良末期のすさまじいばかりの政争を書いたが、秋篠寺の建立は光仁即位後のため、光仁桓武と同寺のかか わりがポイントになる。
  秋篠寺の地域は秋篠といい、土師氏が力を持っていた。土師氏は百済の貴族末裔といわれ、光仁の妻、高野新笠は土師氏の一族にあたる。つまり妻の実家につなが る秋篠に寺を建立したことになる。土師氏は桓武の代になり、秋篠姓を許され、貴族に登用された。桓武は当初、母の出自が悪く、皇族でなく一般官吏として道 を歩んでいたが、井上皇后、他戸皇太子の死により、母の高野新笠は皇后に、桓武は次期天皇が約束された。ところが、光仁天皇と皇太子山部(桓武)が相次い で病にかかり、井上内親王他戸親王の怨霊のたたりと噂された。この時期に秋篠寺が建立されているため、謀略により追い落とされた怨霊を鎮める役割を担っ たというのが寺にまつわる因縁話だ。
  光仁崩御で寺の整備は桓武に引き継がれ、秋篠寺は官寺として崇敬を集め、秋篠一族は取り立てられ、僧職においても、在唐30年の高僧永忠を輩出した。永忠は 唐・長安インド哲学につながる難解な三論宗を極め、桓武に唐事情の書簡を送っていた。桓武遣唐使派遣も永忠書簡が心動かしたともいわれ、皇帝の急死に 遭遇した一行が無事、帰国できたのは永忠の人脈が大きかった。遣唐僧も世話を受け、なかでも空海は永忠の西明寺の宿舎を譲り受けている。空海と入れ替わっ て帰国した永忠は、大僧頭になり、南都仏教の重鎮におさまり、空海最澄の平安仏教と南都仏教の橋渡し役になった。空海は永忠を兄と慕い、当時、無名の空 海の後見を果たした。
  永忠は幼少から土師の氏寺に出入りし、出家した。土師氏は河内、大和、山城の古墳造営や葬送する一族で、大阪・藤井寺の道明寺は土師の氏寺にあたり、秋篠寺 も最初は氏寺だった可能性は高い。これは偶然なのか、永忠は音曲に造くわしく、唐みやげに笛を朝廷に贈ったという。伎芸天、音声菩薩のいずれにもつながる 経歴からは、寺・僧を管理監督する僧綱職にあった永忠が中国の経験から関与、または助言して伎芸天像が生まれた推測も成り立つ。
  桓武没後57回忌(35日)も大安寺と秋篠寺で営まれ、桓武と秋篠寺の深い結びつきを示している。その糸は母の一族、土師・秋篠氏にたどりつく。即位後も奈 良の旧勢力、怨霊に悩まされた桓武は、長岡京、平安遷都を断行するも、ここでも事件は続き、実弟早良親王長岡京造営使、藤原種継暗殺関与に問われ、絶 食のすえ抗議死する。この事件も不可解な事件であったが、桓武にとってわが子である安殿(平城天皇)が皇太子につくことで桓武の政権は安定した。早良親王 は出家して東大寺僧になり、還俗して皇太子になった経歴が語るように、南都六宗から信頼され、桓武は嫌っていた。
  伎芸天像の本堂を離れ、本堂正面から見上げた。大棟の端には円筒状の飾りの付いた鳥休めがのっている。緩やかな勾配の屋根と桁行5間に梁間4間の柱、窓の直 線が調和する眺めは見飽きることはない。流麗ともいえる本堂をみながら、称徳・道鏡政権から光仁桓武朝への移り変わりの背後で展開された暗闘のすさまじ さを思い浮かべた。
  称徳帝の道鏡寵愛を批判した藤原仲麻呂の謀反と一族皆殺しに始まり、天武系から天智系移行の過程で演じられた暗殺、その結果の怨霊出現。秋篠寺が伽藍を整え ていく道筋には実にどろどろした人間の業が待ち構えていた。桓武の身分なき母のへの思いやりは、秋篠寺を整え、秋篠氏に肩入れする一方で母の出自をさげす んだ南都の政治、寺への怒りを強めていたのだろう。百済からの渡来人を優遇した天智系の天皇として天武系の政敵を排除し、政権基盤を固める大義名分があっ た。
  秋篠寺は謎が多い。記録がないためだ。あえて記録を残さなかったという見方もできる。桓武にとって母方につながる寺の記録を避けたのかもしれない。伎芸天の ふくよかでやさしさあふれる顔と唇は見るものをさまざまな想像の世界に引き込む。口をあけて歌うのは、鎮魂歌。血の歴史を浄め、安寧の願いを託された天女 像が歌い、語り続けているのではないか。歌声に誘われ、秋篠寺はきょうもにぎわう。帰り道の境内でかすかな歌声を聞いた気がした。
  平城宮跡に来た。桓武の後継、平城天皇は怨霊にたたられ、弟の嵯峨天皇に譲位して上皇になった。妃の母、女官長の薬子と男女の仲に陥り、平安京を離れ、奈良 へ戻ってきた。薬子は暗殺された長岡京造営使、藤原種継の娘である。薬子は実権をふるい、平城に遷都を勧め、旗あげするも、あっけなく鎮圧され、毒死し た。薬子の変と呼ばれる造反劇の舞台が政治の表に出た平城京の最後になった。奈良末期から平安初期の混乱はこの事件で終わり、名実とも平安時代の幕があい た。宮跡には大極殿朱雀門などが復元され、往時をしのばせるが、なんといっても不滅の風景は生駒に沈む夕日の美しさである。あれは幻か、夕空に伎芸天が 歌いながら舞っている。
     
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