第105回 湖国に春の訪れ

  〜香り満喫,長浜まち歩きと日本一の梅盆展〜
          
  頃は立春、外は雪が舞う。私の住む琵琶湖湖畔では春は盆梅で始まる。梅林の花は3月 の声を聞くまで、香りを蕾の中にしまい込んでいるが、すでに満開なのが長浜梅盆展である。町はどさっと雪をかぶっている。長浜のある湖北は雪模の日々が続 いているが、長浜駅の近く慶雲閣からは梅の香りが漂う。この頃琵琶湖は北西の風が打ち寄せ.白波がしぶきをあげる。大津の湖畔はおだやかであるが、長浜か らながめる琵琶湖はさながら日本海。この勇壮な琵琶湖が近江商人を育てた。徒手空拳で故郷をあとにした彼らの一部h日 本海から北海道を目指した。北の海の海産物を北前舟で恭、大阪絵へ運び、莫大な利益をあげた。琵琶湖の存在なくして織田信長安土城、秀吉の長浜城はな く、江戸期の近江商人の活躍もなかった。長浜は秀吉が去り、徳川期には彦根藩の治世下で商いの町として発展していく。質素を旨とする彦根城下とは対照的に 子ども狂言の長浜曳山祭をはじめ町人文化が育っていった。盆梅展の歴史は昭和27年に始まるという から新しいが、旧浅井町高山の市民が趣味の盆梅を寄贈したのがきっかけに、今日まで続いている。湖国の春に欠かせない風物詩として県内外の観光客が訪れ る。藩主の肝いりで始まる行事は各地にもあっても市民寄贈の梅を大きく育てた長浜の文化の土壌は豊かで華やかだ。
  長浜は旧北国街道沿いに中心街が形成され、長浜御坊の名のある大通寺の門前町の賑わいが長浜の懐を深くしている。
  盆梅の会場になる慶雲閣は中心部からはずれた旧長浜駅近くに建つ明治の迎賓館である。明治天皇行幸に合わせて、長浜の豪商浅見又蔵が私材を投じて建築した。名前は当時の首相、伊藤博文命名した。敷地は野球場がすっぽり入る6千平方メートル。中央の総ヒノキ造りの寄棟が庭園に面している。日本建築と国名勝指定の庭園の組み合わせが盆梅のスケールを大きくした。
  100年を経過してまだヒノキの香りを失わない館内には紅梅、白梅の盆栽が並んで、蕾の可憐さは、人のつくり上げた美であることを忘れさせた。
  サクラ切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿は、剪定の教科書に出てくる格言であるが、梅は剪定を欠かすことはできない。梅の花は翌年。同じ枝に咲かないからだ。1年、丹念に手入れの梅は、師走に慶雲閣に運ばれ、新年を迎える。盆梅が花をつけるまで植栽から3年を要するが、会場の梅の多くは100年を超えている。代表するのが「不老」と「さざれ岩」。「不老」は推定樹齢400年とされ、朽ちた幹は高さ2.5㍍もあり、幹の先端から枝を伸ばして八重の紅梅を咲かせている。その姿が不老長寿を連想させるところから名がついた。400年 前といえば関ヶ原の戦いから大坂夏の陣・冬の陣のころだ。もっとも鉢植えになったのは、幹が朽ちた近年の事だろう。それでも何代かの人の手を経ている。 「さざれ岩」は八重咲きの淡紅梅。高さ3㍍に近い。350年の推定樹齢を感じさせない力強さがある。風雪と人の手で育った梅盆はどこか洗練され,赤じゅう たんと庭の雪とも調和している。「不老」は、曳山祭りに始まりとほぼ機を同じくして長浜に根づいている。生きた歴史だ。
  盆梅鑑賞のあとは雪の町を歩く。冬の北国街道は商家の屋根に雪を乗せ、一年お家で最も情緒がある。北国街道は彦根から長浜を経て木之本をぬけ、福井県境の山から北陸に向かう。観光客は足元の悪さを避けるが、長浜の冬を歩かないと、風景、味覚とも街道を素通りするに等しい。春を待つ湖北の思いが凝縮されている からだ。小股でちょこちょこ歩く雪国歩きは長浜も同じだ。秀吉は長浜城下を開くにあたり、攻め落とした浅井長政小谷城の建築材の大半を長浜城へ、小谷城 かから主だった町を移した。長浜には、伊部、市場など小谷の町名が随所に残る。浅井長政と湖北浄土真宗10か寺は信長と激しく戦った。中でも真宗中興の 祖、蓮如はここを拠点にして最後まで信長に抵抗した。このため、秀吉と町衆の間には溝があり、秀吉は町衆を優遇して特権を与え、融和に努めた。質素倹約の 彦根に対して秀吉譲りの自治組織を守り、子ども狂言の長浜曳山祭りを受け継いだ心意気は、町衆の背骨から尾てい骨まで通っている。今から20年前町衆の燃 えたことがある。北国街道にあった旧第百三十銀行が解体に危機にひんした。黒壁銀行と呼ばれた百三十銀行は明治33年の建築。洋風土蔵…知恵を絞った町衆 が描いた活用は頃壁ガラス館を中心に日本建築と国名勝指定の組み合わせが盆梅のスケールを大きくした。
          
  料理の紹介がままあるが、これは間違いである。琵琶湖の鴨は江戸時代、将軍家に献上するなど冬の名物だった。藤蔓に鳥もちをつけて、琵琶湖に流して鴨を捕えた。最初は魚の網に鴨がかかり、これを集めて売ったというが、長浜ではカモ肉を魚屋に並べる風習が残っているのも漁師が魚と鴨を一緒に捕まえた歴史からという。琵琶湖の鴨漁長い間、冬の風物詩として全国に知られ、食通を集めたが、昭和46年位禁猟になり、琵琶湖産の鴨は食べられなくなった。マガモの保護のためである。ところが長浜では天然の鴨を売り物にした料理屋が多い。密漁と勘違いする向きもあるが、いずれも禁猟でない北陸、新潟で網捕獲の鴨になる。天然の表示はあっても琵琶湖産の表示はないはずだ。
  江戸時代には数多くの鴨専門店が軒を並べた。禁猟で名物がなくなるというっ心配もあったが長浜の電燈は北陸からの仕入れで継承されている。長浜城大手門跡にある「鳥新」は店舗の創業の老舗。長浜城は徳川期に廃城となり、彦根城へ石垣、建造物は移された。
  大通寺の台所門がかっての大手門といわれている。現在の長浜城は1983年(昭和58)に天守閣を再現して博物館として公開されている。
  博物館のかっての城模型は、水城にふさわしい縄張りになっている。本丸、二の丸、三の丸、家臣屋敷は堀に囲まれ、琵琶湖の小島だ。しかしすべて埋立てられ、内堀、そとぼりも姿を消した。仮に、堀復活が始まるなら、鍬、鍬かついで駆け付けたくなるほど惜しい。
  鳥新鴨鍬は、骨、レバーなどをたたいてペースト状にし、丸めた団子でだし汁をとり、豆腐、ねぎなどをいれ、すきやき風に食べる。ペーストの骨のこりこりした 食感鴨独特の風味は魯山人ならずとも通いたくなる。合鴨特有の脂身はなく,青くびと呼ばれたオスの肉は野性味たっぷりだ。
          
長浜盆梅のあと、春の曳山準備にかかる。雪の空に花吹雪とおぼろ月夜の春の宵が思い浮かぶ。シャギリ(囃子)の調べにのって曳き山で演じられる子ども狂言は、冬の夜、まちまちで稽古を積み上げ、春本番を待っている。
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  盆梅展は3月10日(火)まで。8日までライトアップや俳句まつり、長浜梅酒まつりがある。
  鴨鍬は「鳥新」で11000円前後。長浜にはこのほかカモ料理店大奥、」一万円か前後から3000円の鴨鍋もある。
  長浜観光協会0749-65-6521
          

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