第104回 人波かきわけ京都初弘法

  京の新春のにぎわいは21日の東寺・初弘法。弘法大師の月命日にちなみ、境内から門前までありとあらゆる露店が軒をならべる。この露店、いずれもプロ、店を 持ち、弘法さんに出張してくる。人気は骨董品。プロや目利きは朝早くから掘り出し物を求め、素人は夕方の店仕舞いの頃の値引きをねらうのがこの道の鉄則で ある。本物かまがい物かを聞く様では、おっちゃんに軽くあしらわれるのがオチだ。
  東寺の五重塔。JR京都駅南の塔は入洛客にとって車中から見える「京都」である。駅北に京都タワーができて、印象は薄まったものの、古都を代表する建築とし て平安京以来、入洛客を迎えてきた。東寺は平安遷都に伴い、羅城門をはさんで東西に東寺、西寺が建立され、西寺は衰退して東寺のみが残った。空海が嵯峨天 皇(桓武天皇次男)から東寺を賜ったのは823年(弘仁14)で、東寺は真言密教の根本道場として現在に至っている。教王護国寺が正式名である。それより 7年前、空海高野山を開いた。
  高野山開山は空海最澄に決別の手紙を送った直後になる。最澄空海は同じ遣唐使船で渡り、空海は2年遅れで帰国した。最澄天台宗比叡山に開き、護持僧として天皇の加持祈祷もするなど奈良仏教に代わる平安仏教の顔になっていた。空海は20年の就学期間を中断して帰国するが、大宰府に留め置かれ、桓武後継の平城天皇の譲位後、嵯峨天皇の代に都へ戻ってくる。空海の持ち帰った密教の加持祈祷は皇室に浸透し、空海の政治力も加わり、短期間で最澄と並ぶ平安仏教の開祖になった。
  交友のあった二人は空海最澄の経典閲覧を拒否したことや最澄の弟子泰範が空海のもとに走り、決別宣言で袂分かった。まさしく両雄並び立たずである。
  空海は835年(承和2)3月21日、高野山で入寂。東寺では一月遅れの4月21日を「正御影供」(しょうみえく)の法要を営み、毎月21日を御影供の日に して大師の遺徳をしのぶ。高野山には空海没後、大師は生きていて、再び彼が出現する弥勒信仰が根付いているが、東寺はその後、仁和寺醍醐寺におされ、寺 は衰退していく。この東寺復興に尽力したのが西行と同時代の文覚上人。政治にも口をはさみ、後白河法皇に直訴してにらまれ、配流先で知り合った源頼朝に与 して平家追討の功労のあった彼は大師を崇拝していた。東寺は大師の彫像をつくり、生前の住居、御影堂に安置し、大師は生きている信仰を東寺でも広めた。こ れが御影供になり、縁日につながる。弘法さんは大師に会う日でもあった。
  東寺は都の南玄関に位置し、奈良、西国、東国への街道が延びている交通の要衝にあたり、参拝者と旅人目当ての茶店が商売を始めたという。東寺百合文書(国 宝)には室町時代の「一服一銭請文」話が出てくる。茶売りのための許可申請書といえるもので、茶店が文献に登場する最初になる。茶売りは床机に茶道具を置 き、求めに応じて茶をだしていたが、火を使うため、寺は許可に慎重だった。一銭は代価でなく、茶の量を指していた。江戸時代になると、茶店、植木屋、薬屋 が仲間入りし、縁日に発展した。薬屋は、旅の道中の必需品の薬の量り売りをしていた。
  縁日というのは神仏がこの世で縁を持つ日のことで、この日、参詣すると、大きな功徳があるとされている。ただ現在のように境内に店が出るようになったのは戦 後といい、現在は露店の数2千を越える盛況である。1月の初弘法はとりわけ人が集り、20万人が境内から沿道を埋め尽くす。中でも骨董市は他の店に比べ て、緊張感が漂い、真剣勝負の世界である。値札がついているものもあるが、大半は値札なしで、高いか安いかは買い手の眼力しだいだ。こんな話がある。さり げなく置いてある青絵の大皿に目をつけたプロが300万に逡巡して、午後、出直してみると、売れていた。後日談はその大皿が10倍で取引され、買い損なっ たプロは地団駄踏んで悔しがったという。逃げた魚は大きい。
  骨董は縁のものである。ぽつんと、買い手を待っている。一瞬のためらいを許さない。気に入れば買うだ。出所のしっかりしているものは、間違いないが、そんな ものは骨董屋がお得意さんに回し、露店に並ぶことはまれである。半面、出所不明の掘り出し物に出くわす楽しみが弘法さんにはある。
  包丁の実演があった。口上もなめらか。木を大根のように削る。熊本・人吉の刃物屋が出張してきて、700年前というノコギリを客寄せにしていた。九州、四国の店が結構多い。
  ここで境内を歩いてみたい。まず南の九条通に面する南大門。門の東にある五重塔は高さ54・8㍍あり、新幹線から真近かにみえる。創建から4度、雷、火災に あい、1644年(寛永21)に再建された。初層は密教空間の曼荼羅の世界にあり、塔をつらぬく心柱が大日如来とみなされている。本来なら西にも塔がある はずであるが、西塔は当初からなかった。代わってあるのが灌頂院。真言密教の秘儀、伝法灌頂と結縁灌頂を授ける堂である。目隠しのまま花を敷曼荼羅の上に 投げ、有縁の仏を求める「投華得仏」により、大日如来と合体する儀式なるが、空海は3度投げて大日如来の上に落ちたという。灌頂院は4月21日の正御影供 当日に開門され、一般人も塀の中に入ることができる。
  灌頂院に向かって右、南大門の北前には金堂がある。東寺造営の最初の建築であるが、室町末期に火災で焼失、関ヶ原後の再建である。薬師如来坐像は脇の日光、月光菩薩坐像とともに高さ10㍍もある巨像。見上げる目線の先に仏像のまなざし。目の交錯位置が素晴らしい。
  金堂の北が講堂。空海はここに大日如来を中心に21体の彫像を安置した。21体の意味についてさまざまな解説があるが、いまもって空海の意図は謎のままだ。 奈良期の仏像は金銅仏、乾漆仏が多いが、講堂の像はいずれも木彫りで、平安期の仏像に大きな影響を与えた。21体のうち15体は創建時のまま、つまり空海 の息のかかった仏さまになる。東寺は国宝だけでも30余を所蔵し、この大半が金堂、講堂の仏像である。
  再び雑踏にまぎれこむ。たこ焼き、おでん、焼き鳥、焼きそばの臭いが帯びになって押し寄せてくる。ちくわと大根を求め、2刀流で人波みをかきわけて進む。食べながら歩くからうまいのか、歩きながら食べるからうまいのか、いずれにしても立ち食いはうまい。東京で立ち食いのレストランが人気のようであるが、露店の味と環境がヒントになっているのだろう。
  弘法さんの味は露店に限らない。この日だけお目見えの珍味が門前町にはある。常連はあまり宣伝しない。数に限りがあり、売り切れると困るからだ。
  その一つが東門傍のぼ川魚料理「鮒末」。民家の中にある仕出し屋ながら、21日だけ店で食べさせる。まむし定食には鮒の刺身、吸い物付きで1500円。まむ しは関西独特の鰻飯の名称。由来はいつもながら諸説ある。鰻飯(まんめし)がなまった説、鰻を蒸して油を抜く「真蒸す」からの説、蒲焼をあつごはんの間に はさみ、蒸して食べるままむし説、飯にまぶす説など。ここで食べる鰻は表面をかりっと焼いているのが特徴で好みはわかれそうだ。狭い店内でかきこむ味は弘 法さんの味だ。余談になるが、鰻飯で忘れられないのは九州・柳川のせいろ蒸し。うまかったなぁ。
  もうひとつはどら焼き。普通、どら焼きは丸いが弘法さんのどら焼きは竹皮に包んだ棒状になっていて、これを輪切りにして食べる。門前から離れているが七条堀川の和菓子店笹屋伊織の特製品。由緒は江戸末期に5代 目が東寺の坊さんから副食にもなる菓子をつくってほしい、と依頼されたのが始まり。5代目は鉄板でなく、お寺にもある銅鑼を使って焼く菓子を工夫した。外 かわの上にこしあんを伸ばして、棒状に丸めて焼き、竹皮で包んでおけば日持ちもよく、人気を呼んだ。手のかかる菓子のため、月命日の日に限り、販売してい る弘法さん名物。いまは20日から21日まで売り出しているが、どら焼きを楽しみに来る参拝者も多い。外かわはもちもちして、あんの甘みをおさえた味は弘 法さんの格好の土産になった。
  境内めぐりの最後は御影堂に参拝した。空海の弟子真済の『空海僧都伝』によれば、空海は死の2年前、世間の食事を避けて坐禅に務め、「命には限りがある。その時がきたと知れば山へはいる」と、弟子に伝えていた。
  834 年5月、「永く山に帰る」と、いって場所を定めた。翌年1月からは水おも避け、たまりかねた一人が天から降る寒露のような飲み物をすすめたところ、「止 (やみ)ね、止ね。人間(じんかん)の味をもちいざれ」と拒絶して2ケ月後に入滅したという。「人間の味」うんぬんは人を離れ、もはや食事を必要としない 意味になるだろうか。高野山では空海の死を「入定」と表現するが、これは石室に「定」したことを意味している。
  御影堂では毎朝6時、大師に一の膳、二の膳、お茶を供える。生身供(しょうじんく)とよばれ、僧たちは大師が東寺においても生きていることを、心の支えに精進している。
  空海の言葉がある。『仏法遥かに非ず 心中にして即ち近し(ほとけは心の中にいる)』
  
  =メモ=
  骨董市は21日、大阪・四天王寺でも開かれ、にぎわう。京都では1月25日に初天神に露店がそろう。このほか百万遍知恩寺でも毎月、ガラクタ市が開催され、店の種類も多い。
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