第75回 奈良・女帝と公家たち  「謙譲の美徳」を訪ねて その2 

  「謙譲の美徳」は孔子を始祖とする儒教に端を発している。飯能の帰りに、東京・湯島聖堂へ立ち寄った。JRお茶ノ水駅聖口から橋をわたり、右手の森の中に聖堂がある。徳川5代将軍、綱吉建立の孔子廟である。幕府の昌平坂学問所もあった。昌平坂孔子の生まれた昌平村に 由来し、上野から湯島に移転した。明治には国立博物館、東京師範(東京教育大)、女子師範(お茶ノ水女子大)などの教育機関が生まれた。聖堂は関東大震災 で焼失、昭和になって再建された。白梅で名高い湯島天神はすぐ近くだ。今も昔も変わらぬ学生街を歩きつつ、孔子とその教えをたぐり寄せた。
           孔子
  孔 子は紀元前552年の春秋時代、現在の中国山東省南部にある曲阜に生まれた。生地はユネスコ世界遺産に登録され、孔子廟がある儒教の聖地だ。観光地にも なっている。孔子は73歳で没するまで多くの弟子を育てたが、孔子の生涯は不遇であった。孔子が評価されるのは死後だ。
  高弟の子貢は『われらの先生は穏やかで素直な恭しく慎ましい謙譲の精神を持っている』と書き残している。
  紀元前の中国・戦国時代において、徳によって国を治める儒教思想は広まり、漢が国を統一すると、国家の教学になり、仁、義、礼、智、信の徳をもって天下を治めるべき、とされた。
  孔子と同時代の思想家、老子は謙譲を君子の徳として説いた。
  「君主は自らの功名をいわない。それはただの謙譲からではなく、人の功績を覆い隠すことを憎むからである。臣下の人材の才は君主をしのぐことはまれではないから、君主が功名をいえば、臣下の才を隠し、抑え付けることになる。だから聖人は譲るを尊ぶ」
  ま ことに言いえて妙である。上司かくあるべきだ。儒教道徳では自己顕示欲を戒め、傲慢不遜を抑制する謙譲精神が高く評価されていた。中華思想と矛盾するこの 教えは、万人に対してあてはまらない。あくまで中国人を対象にしており、中華思想儒教は、矛盾をかかえながら一体になり、朝鮮半島に浸透していく。韓国 が小中華思想儒教の国といわれるのも、古代における中国との政治、経済交流が源になっている。
  日本に文字が定着するのは大和政権の統一が進む5世紀以降である。儒教は日本において天皇をはじめ、皇族の学問になったが、中国語の読み書き指導には、朝鮮半島からの渡来人があたった。当時の朝鮮半島と日本は現在よりもはるかに『近い国』であった。
    聖徳太子の凡夫のすすめ
  百 済から五経博士が来日、儒教の古典を教えるようになった。五経博士は漢代に設置された儒教学者であって、官職名にもなった。『日本書紀』は欽明天皇の後継 である敏達天皇のことを「文史をこのみたまう」と記し、儒教の古典を中国語で学んでいたことがわかる。敏達天皇聖徳太子の叔父。百済と大和政権の交流が 盛んになると、半島で対立する高句麗も牽制の意味から日本との外交に力を入れ、聖徳太子の仏教の師である慧慈、儒教や技術を指導し、紙をもたらした曇微が 来日している。
          聖徳太子ゆかりの法隆寺
  文献に謙譲の美徳の思想が初見されるのは、聖徳太子憲法十七条である。
  十七条憲法は和を尊び、仏教を信じ、礼法をものごとの基本にするなどからなっている。読んでいくと、儒教の考えが色濃い。その10条にこうある。
  ―怒るな。人の心はさまざまでお互いに譲れないものをもっている。相手が良いと思うことは自分には良くないと思ったり、自分が良いと思っても相手が良くないと思うことがあるものだ。自分が聖人で相手が愚人だと決まっているわけではない。ともに凡夫なのだー
  アップル社の故スティーブ・ジョブズ氏の「愚か者であれ」を思わず重ねたくなる言葉である。聖徳太子は遣隋使を派遣、隋の政治制度、文化を仏教とともに取り入れた。この頃の東アジアは隋を中心に、半島には高句麗新羅百済が互いに競い合っていた。
  白鳳・天平時代を経た奈良時代は半島の王の末裔が政権の要職に就くなど渡来人の学僧の存在、中国文化の浸透が顕著な時代である。百済新羅の滅亡で大量の移住民が日本に住み着き、半島の文化と日本古来の文化が融合した。
  日 本で「謙譲の美徳」が古代官僚社会の道徳、礼儀として文献に登場するのは、いうまでもなく日本書紀続日本紀日本後紀である。日本書紀天武天皇の指示 により、古事記とともに編纂が始まったといわれるが、言動が記録に残ることを以降の天皇は意識し、即位の詔勅が耳目を集めた。ただ日本書紀は国の成り立ち や時代を遡っての記録のため、天皇の言動は詳細でない。
  編纂がドキュメント風になった続日本紀が正史に「謙譲の美徳」を記載した最初の書だ。
  天皇が即位にあたり、謙譲の美徳を説くのは、天武天皇(天智弟)の以降である。天武は壬申の乱に勝利して天皇の座を力で獲得した天皇であるため、即位にあたってなんの遠慮もない。後継の持統天皇(天武の妻・天智の娘)も力を誇示する詔だった。
  ところがそれ以降になると、後継が病没するなど短期で譲位、即位を繰り返し、貴族の勢力も強まった。天皇は貴族らに皇位の正統と自らの徳を語らねばならなかった。
     女帝3代にみる謙譲の詔
  持統天皇後継の文武天皇は即位するも七年で病のため、譲位し、母である元明(天智の娘)が即位する異例の展開になった。
  奈良期の女帝3代(元明、元正、孝謙)に見る謙譲の美徳をたどってみたい。
  元明は天武の子、草壁皇子(病没)に嫁ぎ、文武をもうける。続日本紀巻第四にはこうある。
  ―慶雲三年十一月、文武天皇は病に陥り、はじめて母に位を譲る気になられたが、天皇元明)は謙譲の心で固辞して受けられなかったー
          〈即位の詔〉で
  「譲位の言葉を承り、私はその任にあらず、と辞退しているうち、再三の言葉があり、恐れ多いので受けることになった」と、親王、諸王、諸臣、百官(官吏)、天下の公民に宣言した。
  異例の即位のため、周囲を納得させる必要があったのだろう。本心は文武の皇子、首(後の聖武天皇)が幼少のため、時間稼ぎの政治的な思惑がからんだ。
  元 明は天智天皇第四皇女。天智時代には百済の貴族、鬼室集斯が学頭職にあり、元明も学んでいた。元明には、病没した文武のほかに長女氷高がいた。弟の死で氷 高が皇統の継承者になった。元明は八年で譲位、氷高が即位した。推古帝から数えて6人目の女帝誕生である。母天皇が娘に譲位した最初にもなる。母がいった ん辞退した天皇の座だから、娘も辞退する謙譲の心がここでも予想されるが、氷高〈即位して元正〉は辞退もせずあっさりと受けた。
  元正は夫も子もいない。政治的駆け引きなしで即位したが、聡明な天皇として在位十年を無難に過ごし、甥の聖武天皇に譲っている。即位にあたり、謙譲の心を語らなかった元正であるが、即位後には謙譲の心で臣下に呼びかけた。
          ミス奈良が扮する元正帝
  「朕 は徳が少なく、民を導く充分な力もない。早朝に起きてその足らざるところを求め、夜寝についてもこのことを思い続けている。身は宮中にあっても心は民の中 にある。汝らに委ねずして天下の民を導いていけようか。国家のことで万事に有益なことあれば必ず朕に奏上するように。もし朕が聞き入れないようなことがあ れば、何度もきびしく諌めてほしい。汝らが面前で服従しているように見せて、退出後に陰口をいうことがないようにせよ」
  この詔から十日後、養老5年二月
  「朕の政令に適当でないものがあれば、何事も陳述して遠慮してはならない。まっすぐにいうべきことはすべて述べつくし、隠すことがあってはならない。朕はその上申を親しく読むつもりである」
  現 代のトップと官僚の関係に置き換えてもいい詔だ。日本の皇統の歴史でこのような詔は見当たらない。日本書紀元正天皇の時代に完成している。いまから 1400年前の日本でこれだけの見識を持つ女帝が存在した。話は本筋からそれるが、奈良期の皇女は和歌においても情感豊かでありながら、能動的な歌を詠 み、凜とした風情が漂う。持統天皇時代の但馬皇女は周囲に反対された恋でも「負けるものか」と歌に詠み、隔離された男の後を追う歌を残している。この恋は 男の方がひるみ、成就しなかった。但馬は元正の叔母である。元正は興福寺に施薬院、非田院を置き、社会福祉を実践した。
  元 正は在位七年で聖武天皇に譲位し、上皇になった。聖武天皇までの中継ぎであった元明、元正の女帝時代は十五年で終わった。七歳で父、文武と死別した聖武天 皇は二十二歳で即位した。妻の光明子不比等の娘で、藤原一族は鎌足の子、不比等の子供四人が式家、北家、南家、京家を興し、以降、対立しながらも一族の 絆を守り、奈良、平安時代の政治の中枢に座った。
  聖 武天皇東大寺建立)はしばしば大赦を行った。自ら病弱なこともあり、災害、流行病など治世下で起こる災いはすべて自分の徳の無さから生じているという中 国古来の帝王学に由来する。ところが天皇の言葉であった謙譲の美徳が聖武天皇の代になり、天皇と臣下の上下関係、ポストをめぐって語られるようになった。
     ポストがらみの美徳に
  聖 武天皇は唐より帰国の吉備真備ら帰国組を重用した。吉備真備は、名前の通り吉備出身の地方官から学者になり、遣唐留学生として十八年間の唐生活で儒学や天 文学、音楽、兵法を学んだ俊才である。聖武天皇の知恵袋になり、彼は春宮大夫として阿倍内親王孝謙天皇)の家庭教師になった。父親と娘に唐の礼をはじめ 君主の徳を説いた。
           吉備真備
唐 帰りの真備は藤原氏に疎まれ、九州に左遷されるも、70歳で都に呼び戻され、孝謙天皇阿倍内親王の即位)の下で力を発揮した。真備は孝謙に寵愛された僧 道鏡の権勢下で藤原氏の反乱を抑え、その功で大納言、右大臣を歴任した。学者でありながら文官最高位の大納言の地位に就いた例は、彼と菅原道真の二人しか いない。
  孝謙天皇は譲位後、再び天皇称徳天皇)に返り咲いた。その即位にあたり
  「朕は徳の薄い身で、謹んで 皇位を受け継いだ。善政をまだ布くほどになっていないのに、天からめでたい賜りもの(注白い鹿、白い雀)がしきりに現れている。先祖の積んだ徳のおかげが 子孫に及んだからである。どうして朕のように凡庸で力のないものがこのような感応を受けることに相当しようか」
   右大臣吉備真備ら11人が奏上した。
  「歴 史が開けてより、世々君主の統治があってめでたいしるしや嘉い感応が時々、あったことは聞いていますが、それが入り乱れるほどしきりに起こり、このように 盛んになったことは聞いたことがありません。伏して考えますに陛下は徳を積まれ、機会を得て再び皇位にお即きになって、天下をお治めになっています。礼楽 が備わり、政治と教化は行き渡り、刑罰は公平に行われ、獄舎はすがすがしい状態です。風や雲も様子を改め、飛び走る鳥や獣も恵みになれ、珍奇なものやよろ こばしくめでたいものが政府の蔵に絶えません。臣らは恐れ多くも陛下の近くにお仕えし、しきりに不思議なものを見るにつけ、手を打ち、躍りあがるような喜 びは実に、平常の心に万倍もするものがあります」
  天皇と臣下の謙譲の美徳に関するやりとりは、この時が最初である。唐で学んだ吉備真備なればこそだ。
  天皇は復位して6年で病没、女帝の時代が終わった。日本史で女帝が就くのは、江戸時代までなかった。ここで真備が再び登場する。
  右大臣・従二位、兼中衛大将の官職辞職を願い出た。これまでの正史で官職辞任の願いの記録はない。謙譲の美徳に満ちた文章であった。
  「力 が任に及ばないのに無理に勤めるものはやがて役に立たなくなり、心が任に及ばないのに極限まで務めるものは必ず、判断を誤るといいます。私、真備を返りみ ますと、去る天平宝字8年に満70歳に満ちました。わずかな功労で次々に高い官職にのぼり、職を辞して道を譲ることも許されず、数年が過ぎてしまいまし た。この病をもって痛んだ体の私が久しく、宰相の地位をけがし、天皇の政務を補佐するのに欠けることがあってよいものでしょうか。天に恥じ、地に恥じて身 を入れるところもありません。伏してお願い申しあげますことは、辞職して賢者の出世の道を邪魔せず、この凡庸で愚かな私にたることを知る心を遂げさせてい ただくことであります」
  天皇は真備の願いに応えた。
  「夜通して真備の労を思って座っているうちに朝を迎えた。願う通りにしなければ、謙虚の徳に逆らうことになり、心情に応えようと思うと、そなたの賢い助けが大切に思われる。中衛大将の職は解くが右大臣の職はそのままにする」
  平安初期には天皇の交代のたびに貴族の進退伺いが頻発されるが、真備がさきがけである。ただ真備の場合、年齢や地位からもはや職にとどまる理由もなく、称徳天皇亡き後の朝廷に未練もなかった。ところが後の進退伺いは、人事の処世術、かけひきとして活用された。
  真備に続いて、大納言大市が辞職を上奏した。ここにいたっては謙譲に名を借りた留任運動であった。
  「臣 は愚かな性質でありながら、幸いにも聖朝につかえることができました。栄誉と高位を貪っておののき、おそれること、薄氷を踏み、深淵にのぞむ思いに過ぐる ものがあります。陛下の徳はあまねく行き渡り、思いやりの心は厚く、国の歴史は古くて天の命は新たなものがあります。国を守るめぐりあわせは永久ですが、 終わりをまっとうする機会は一度しかありません。今、臣は病弱で、いよいよ衰弱に向かい、寿命は終わりを告げようとしています。伏してお願い申し上げます が、俊英な後進に官職を譲り、老体はささやかな隠居の地を賜り、最後の日を待たせていただくことにあります」
  この申し出に天皇は「行き届いた思いに感じいった。力の堪える程度に応じて普通通りに仕えよ」と、辞職を聞き入れなかった。
  先帝に任命された職であるから、進退伺いを出し、今帝にあらためて任命を受ける。その行為が謙譲の美徳として天皇の心をとらえたのである。以降、謙譲の美徳で散りばめた進退伺いは、公卿たちの通例となった。
  外交においても天皇は謙譲の美徳を忘れなかった。即位後8年の宝亀8年5月、天皇渤海国の使者の帰国にあたり、親書を託した。
  謹んで渤海王にたずねる。 思えば朕は徳もないのに、みだりに皇位を継いで恥ずかしい限りである。大河を渡る時、どこから渡ってよいか分かっていようにどのような政治をとればよいの かわからない。王はわが朝廷の平安を伺うのに故事に従い、新たな即位を慶賀してくれた。丁重な誠意はまことに誉め称えるべきものがある。
  謙譲の美徳の本家、中国が外交では中華思想で周辺国を蔑視していたのに比べて、日本外交は謙譲の精神を失わなかった。百済新羅高句麗朝鮮半島の王が小中華思想に染まりつつある時、日本独自の謙譲思想の萌芽をみることができる。
  謙譲の美徳は平安時代にな ると天皇、臣下、さらには僧まで広がり、任命、退任には欠かせない礼儀作法になった。平安時代初期、後に摂関政治の基礎を築いた藤原冬嗣の父、大納言内麻 呂は、政権変わり目の辞職上奏の文に「愚かな自分が地位にいることは万死に値する」とまでいい、職にとどまっている。
       謙譲という名の進退伺いが常態化の中で女たちは
           平城京
  中国の故事を引用した平安初期の謙譲の美徳は、桓武の次男で平安朝3代目の嵯峨天皇時代の唐風の施策の影響が色濃い。謙譲の美徳は、流行ともいえる広がりを持った。それは公卿、官吏までの礼儀に近いものになった。本来の謙譲から逸脱したと、いえる。
  嵯峨朝で芽生えた藤原氏摂関政治は冬嗣の子、藤原良房から始まる。良房は幼少の天皇外戚として権勢を誇った。しかし、権力を手にしながら、謙譲の美徳は忘れなかった。
  良房は右大臣辞職の願いを上奏した。無論、本意ではなく、ポーズである。表現も誇大になった。
  「私 は長時間空高く飛翔し得ずにいる鶯の羽同様で力量の不足を謝し、駑馬の進むのに似て日々の用に役立っていません。ここに能力の及ばないことを知り、右大臣 の職に就くことは相応しくなく、才もありませんので功績をあげることはできません。義とするのは身を捨てることであり、衆人の誹謗も恥としません。ただ し、恐れるのは大臣として政治を執る器でなく衆望を担える人物ではないことです」
  天皇は当然、上奏を許可しなかった。ところが2日後、再度上奏した。
  「私は鳴き声を残して上に向かい、飛ぶ鳥が安んじて憩うところ知らず、焼け野原を行く踵に似ていたずらに危険に向かう思いです。私は功績を挙げたとの評判 もないのに、早くから出世して栄誉ある地位を累ねてきました。常に笛をふけないのに吹くという濫吹を恥じ、炭火に焼かれるような苦痛におちいっています。 いい加減な気持ちで謙譲を飾り立てているのではありません。過分の昇任をお返して身のほどをわきまえることをお許し賜りますよう請願します」
  2度の上奏は退けられた。注目されるのは「いい加減な気持ちで謙譲を飾り立てる」というくだりである。語るにおちるとはこのことだ。10年後には太政大臣 になり、娘明子と文徳天皇の間に生まれた孫の清和天皇が9歳で即位すると、摂政として実権を握り、藤原氏摂関政治の始まりをつくった。
  日 本社会の謙譲思想は奈良時代から平安時代にかけて確立された。朝鮮半島から王族、高官らの移住、遣唐使派遣にともなう大陸との交流など大陸文化が日本文化 と融合して、定着したのが第一の理由であるが、持統天皇以降の女帝の時代から政変が繰り返されたこともあげなくてはいけない。謀反の旗をかかげた乱は藤原 広嗣、藤原仲麻呂の乱しかなく、後は密告による政変だった。不安定な政権下で皇族、貴族にとって言葉、行動において謙虚であることが、身と命を守るすべで あった。
  天皇、公家・貴族たちの計算高い謙譲の美徳に対して、平安期の女たちは、どうだったか。嵯峨朝からすでに二百年経過、摂関政治の全盛期に、女流文学は隆盛になった。
  清少納言枕草子の中で謙譲を女の奥ゆかしさとして取り上げた。
           枕草子絵巻
  村 上天皇の御代に左大臣師尹は娘に、習字、琴のほかに古今集二十巻の暗誦をするよう教えた。天皇はその話を聞いていたから、女御の部屋へ出向き、改まって顔 で「その年、その月、なんのおりにその人の詠んだ歌はなにか」と、尋ねた。女御はわかっていても、利口ぶってすぐ下の句をつけることはせず、しばらく間を おいて答えたという。
  たしなみ、おくゆかしさ、礼儀、やさしさが謙譲の心、美徳になり、社交辞令でない人間関係の重要な言葉として謙譲語が生まれている。
  女官たちの謙譲は、男たちの形式化したポストがらみの礼と異なり、その意味では、今日の日本人が使う謙譲に近い。謙譲の美徳は平安時代の女たちによって軌道修正されたといっても過言ではない。

          (次号は武士道と謙譲の美徳)

              *****

     お詫び  今回の記事掲載が遅れましたことを、著者及び読者の皆様にお詫び申し上げます。  WSSA  編集局