第74回 新春を歩く心の旅  「謙譲の美徳」を訪ねて  

            
  「謙譲の美徳」の名で知ら れる岩場を尋ねるため、秋晴れの10月末、西武池袋から飯能行電車に乗った。ひさしぶりの東京。行く先は秩父連山の岩場である。「謙譲の美徳」と目的地で ある秩父の岩場の関係は電車の進行にあわせて説明していくが、学生時代、西武練馬に下宿していたからこの西武池袋線は、池袋までの通学の足であった。当 時、飯能へ行くのは山歩きのハイカーに限られ、練馬から3駅次の大泉学園を過ぎると、沿線には森と田んぼが延々と続いた。車両は黄色の最新型だった。現在 はむろん、運行していない。
  池 袋線から姿を消したこの車両に滋賀県近江鉄道で再会した。妙になつかしい思いがして駅員に聞くと、西武鉄道からの払い下げとわかった。しかも60年代の 車両、池袋線で運行というから、あの電車に違いない。401系改造の820系という。近江の湖東平野のすすきをかきわけて走る電車に50年前の池袋線の車 窓を重ね、往時を回想した。機会あれば、西武線にゆっくり乗ってみたく思っていたが、ついでもないまま、忘れてしまい、やっと実現した。現在の池袋線特急 はモダンな車両が自慢で、旅の気分を味わえる。
  池袋―飯能沿線は、田園風景に当時の面影を残しているが、50年の歳月は雑木林連なる沿線の風景を一変させている。「変わったな」と、東京の友人に話しても、いまごろ、なにを寝ぼけたことをいっていると、昔話の相手にもなってくれない。
  飯能は埼玉都民が住む東京郊外がいまの沿線の姿である。同輩に「謙譲の美徳を調べに飯能へ行く」と説明するが、意味を理解してもらうまでには時間がかかった。
  「ああ、へりくだることか」と、同輩はにべもない。もはや「謙譲の美徳」の言葉など死語に等しくなったのか。
  「それで飯能とどんな関係がある」
  「謙譲の美徳という名の岩場が秩父にあり、岩登りの名所とか。確かめるつもりで飯能へ行く」
  「そ んな岩場があったのかな。謙譲の美徳の言葉自体、われわれの日常から影が薄い。謙虚よりも自己主張の世だ。この間も孫の学校参観に行ったところ、先生の質 問に競って手をあげる。俺たちの頃は、わかっていても先生が当てるまで待ったもんだろう。しかし、岩場にそんな名があるとは初耳だな」
  「役所に聞いても要領をえない。岩場登りのもんしか知らんだろう。昔はロッククライミングといえばアルプスか谷川岳と相場が決まっていた」
  「井上靖氷壁が読まれていたな。いまは登山ではなく、岩のぼりをスポーツとして楽しむフリークライミングが主流だそうな。だから近郊の岩場に人が集る」
  同輩と学生時代の思い出にしばし話の花を咲かせ、別れたのが昨夜。まだ酒が残っている。車窓の1時間の大半をうとうとして過ごした。
  目指す岩場は秩父の山の中。飯能で秩父線に乗り換え、西吾野駅から30分も歩くと、杉木立と競いあうかのごとく、約50㍍の切り立った岩場がそびえる。下から見上げると、上の方が岩壁にかぶさり、いわゆるオーバーハンクになっている。
  こ の岩場はロープなどを使わないフリークライミングで有名である。クライマーの難所になるのが『謙譲の美徳』の名のつくポイントだ。由来については諸説あ る。岩に挑むにあたり、互いに譲り合う謙譲精神からとか、登りつめても、自慢しないで、他者を気遣う心からきているという話があるが、名付け親は不明だ。 こんな名前の岩場は日本をおいてない。岩場を遠望しながら、新田次郎の小説「剣岳、点の記」が岩場の中に浮かんできた。
          立山連峰剱岳
  こ の小説は、日露戦争直後の明治40年、陸軍省参謀本部陸地測量部(現国土地理院)の柴崎芳太郎がモデル。柴崎は当時、前人未踏の立山連峰剱岳(2999 ㍍)登頂と、三角点埋設の命令を受けた。日本山岳会も初登頂をめざし、軍は面目にかけても山岳会の後塵を拝することは避けたかった。柴崎は山案内人、宇治 長次郎と剱岳に挑む。登頂は難行し、長次郎は2日がかりで登頂ルートを見つけ、山頂を目前にして引き返し、柴崎に報告した。長次郎は山の自慢話はいっさい しない誠実、かつ従順な案内人であった。報告を聞いた柴崎は
  「登っ てきたのか」と、聞くが、長次郎は「とんでもない。旦那をおいてそんな僭越なことはできません。真っ先に登るのは旦那です」と、答えた。長次郎が柴崎に初 登頂を譲った話である。前人未踏と思われた山頂には修験道行者の登頂品が残っていた。山男の友情、さわやかさ、誠実の美談として読んだ記憶がある。
  いま、岩場を前にして、この岩にかけるクライマーが競い合って急ぐあまり、互いに譲り合う心、謙虚さを忘れてはならないという意味が「謙譲の美徳」と名付けた理由かもしれないと思えてきた。それにしても、美しく、奇抜な名だ。日本人でなければ思いつかない。
  謙譲の美徳。
               
  スイスのアイガー北壁の登頂に日本人として初めて成功し、近代アルピニズムをもたらした元日本山岳会長でマナスル遠征隊長槙有恒氏はマナスル登頂後、カトマンズの報告会であいさつした。
  「私 たちはマナスルを征服にきたのではない。この壮麗な山と親しみ、交わりを深めて帰ってきた」、と語り、集った欧米人に感銘を与えた。山と自然には謙虚であ りたいという日本人の心がこのあいさつにこもっていたからである。北川の岩場にある「謙譲の美徳」は、そんな日本登山史、山男の心と結ばれている。
  謙譲の美徳について調べるきっかけは政権交代した2年前になる。今は昔の話である。
  2010年4月、沖縄普天間基地をめぐる迷走から、政権交代したばかりの民主党鳩山由紀夫首相は、谷垣自民党総裁との党首討論で思いがけない発言をした。
  「ワシントンポスト紙がいうように、確かに私は愚かな総理大臣かもしれない」
               鳩山元首相
  谷 垣総裁は顔面紅潮させて「それはなんですか、もっと使命感を持っていただきたい」と、厳しく批判した。国を代表する総理自ら「愚か」を認めるなら辞めてほ しいと、追及した。この討論の元になったのが、アメリカで開かれた核安保サミットに出席した各国首脳に対する米国政府の対応の違いだった。普天間基地問題 の約束を守らない鳩山首相は冷たくあしらわれ、中国・胡錦濤主席はオバマ大統領と二国間会談を持った。4月14日のワシントンポストのコラムで誰が勝者で 敗者かを論評した。外交をめぐる自国政府の対応から、優劣をつけて喜ぶコラム記者もどうかと思うが、「最大の敗者は鳩山首相で、政府高官によれば、ますま す愚かな日本の総理」とまで書いている。
  アメリカンスタンダード、ここに極まれりである。そのコラムを党首討論に持ち込み、政局の材料にした谷垣氏もまた愚かな野党総裁でしかない。新聞、テレビも そろってこの「愚かな総理」発言を取り上げ、ワシントンポストの論調に追随した。「弱気な態度、自虐答弁」と書いた新聞もある。
  マスコミの批判に、官房長官はさすがに「謙虚さのあらわれ」と、『謙譲の美徳』をにおわせたが、腰がひけていた。
  サミットホスト国が首脳会談に差をつけ、それをマスコミが増幅してはやしたてるやり方は、品位に欠ける。まして日本のマスコミまでが歩調をそろえるにいたっては、自虐的対応というしかない。
  政府も政党もマスコミもここで「謙譲の美徳」なる日本文化をアメリカに示す機会を愚かにも失った。そこで謙譲の美徳による架空党首討論をすればどうなるか、試みてみたい。
  ―谷垣自民党総裁が立ちあがり、鳩山首相に質問する。
  「総理、米国の新聞であなたのことをどのように書いているかご存知ですよね」
  「もちろん、存じています。ワシントンポスト紙がいうように、私は愚かな総理であるかも知れない」
  「なにをいうのですか。あなたほど徳を備えた総理はいませんよ。日本の代表です。おろかなどとんでもない。私は京都が故郷です。総理の愚か発言は謙譲の美徳によるものです。誰が愚かと思いますか。そんな発言を間に受けるのは外国の新聞ぐらいでしょう」
  「さすが京都が選挙区の谷垣さんです。ただ私は就任以来、薄氷をわたるソリのごとく政権を担当し、これからも続くでしょう。この哀れな首相をどうか見守っていただきたい」とでもエール交換したかもしれない。
  もっともその後の鳩山発言を聞いていると、「愚かな総理」は謙譲の美徳などという代物でなかったことがわかる。
  日本人が海外において、謙譲の美徳についてしばしば発言はしている。そのつど、欧米メデイアは戸惑った。自らを卑下するかのごとき発想は、現在の欧米の政治、経済、科学・文化の分野では驚きに値する。「卑屈な日本人」である。
  英語では謙譲のことをmodesty,humilityを指し、謙譲の美徳に該当する訳はvirtue of modestyとなるが、格言でExcessive modesty lapses into servility(謙譲も過ぎると卑屈になる)があり、日常会話で謙譲が話される機会はまずないといっていいだろう。ただ14世紀から15世紀の十字軍以来の騎士道で忠誠、武勇、敬虔と並び謙譲が重視された歴史はある。
               マキャベリ
  ル ネッサンス期のイタリヤの戦略家、マキャベリはその著で「謙譲の美徳をもっておのが相手の尊大さに勝てると信じるものは誤りを犯す羽目になる」(塩野七生 マキャベリ語録)と、戒めている。アメリカ在住の私の姪はアメリカで文化人類学を専攻の京女であるが、謙譲の美徳について「アメリカ人はマキャベリ思想を 受け継ぎ、謙譲や思いやりは負けに通じ、自信のなさの表れとしている」という。マキャベリは、官僚社会で学んだ経験から、政治を語っているが、政治の世界 の言葉が一般の人間関係にまで浸透しているアメリカ社会は、いかにも住みにくそうだ。
  日 本人は贈答において「つまらないもの」ですが、無意識に使う。つまらないものをあげるのは失礼ではないか、と思うのは欧米人だ。食事を提供して「お粗末で した」と、謙譲の美徳で応対する。欧米なら「腕によりをかけてつくった」と、強調し、まずいはずがないというのが、西洋のもてなしの心だろう。お茶の世界 でも「お粗末でございます」と、断り、「結構なお手前でございました」で礼をいう。経済界では社長交代のさい、いったんはその任にあらず、と、固辞したあ と、「不肖の身でありますが」と受けるのが通例だ。もっとも、近年はそのような慣習も薄らいでいる。しかし、日本人から梅干と畳の生活がなくならないのと 同様に、謙譲の美徳は、程度こそあれ、継承されていく日本固有の文化である。
  海外における日本人は謙譲の美徳をいかんなく発信している。2012年のノーベル生理学賞を受けた京都大学山中伸弥教授は、受賞講演で先輩たちの功績あればこそ、多くの人たちの協力あればこそ、生まれた研究成果と、謙虚に語り、喝采を得た。
                ノーベル賞
  ニュートリノ理論でノーベル賞受賞した物理学の小柴昌俊東大名誉教授は英国BBCに出演、他の受賞者とともにインタービューを受けた。他の受賞者はそろって研究の成果を得意満面で語った。ところが小柴氏は意外な感想をテレビで披露した。
  「アインシュタインも我々もノーベル賞を受賞した。しかし、もし、我々がその理論を発見しなかったとしても、何年か後に優れた若者によって同じ論文が書かれ、受賞することだろう」
  インタビュアーが怪訝な顔をしていると、小柴氏はモーツアルトを引き合いに出した。「モーツアルトに比べ、我々は唯一無二の存在ではないからだ」
  出 演の受賞者は、憮然としていた。テレビを見た欧米人は、しばし、考えこんだにちがいない。自己を客観視して語る謙譲の美徳こそ、日本人の心である。この発 言に喝采を叫んだ日本人は少なくなかったが、この発言を論評、拍手を贈った日本のメデイアは残念ながらなかった。先の鳩山発言にしろ、日本の新聞で謙譲の 美徳はもはや死語に近い。
  おらが一番のスポーツの世界では柔道、剣道など古武道において謙譲精神が旺盛だ。山下康裕氏が国際柔道連盟理事就任のスピーチで
  「勝負へのこだわりは否定しないが、謙譲の美徳や礼節の大切さなど柔道の原点を見直してもらえるようにしたい」と述べた。
  謙譲の美徳に関して、思いがけない記事を読んだ。3年前、死去したIT業界の大手アップル社の創業者であるステーブ・ジョブズ氏が生前、大学生に語りかけた言葉がある。
  「愚者であれ、ハングリーであれ」。学生はおろかアメリカ人は驚いたであろう。失敗を重ねて成長してきたステーブ・ジョブの人生訓である。ここには失敗から学び、自己を見つめるまなざしにあふれている。この言葉は彼の創作ではない。彼は講演の中で説明している。
  「若 い頃、『ホール・アース・カタログ』という本がありました。タイプトハサミ、ポラロイドカメラでつくられ、内容は理想主義的でした。この本は1970年代 半ばに最終号を発行、表紙に早朝の田舎道があり、その下に『ハングリーであれ、愚か者であれ』という別れのメッセージが書かれていました。私の20代の頃 です。以来、私はそうでありたいと願い続けてきました。今、卒業して人生に踏み出すあなたがたに同じことを願っています」
               ホール・アース・カタログ最終版 
  愚 か者であれ、とは謙虚であれと、言い換えてもいいだろう。ひたむきに、かつ愚直に生きる薦めはアメリカ開拓精神と、勝者は常に謙虚であることを良しとする 謙譲の心がひとつになっている。ベトナム戦争を経験したアメリカ70年代、インドを放浪したジョブズ氏でなければ到達しないであろう。70年代のアメリカ の若者は、ヒッピーに代表される旅の世代である。世界をリュックかついで歩いた。日本でもカニ族と呼ばれたリュックスタイルが流行、北海道が人気を集め た。暗殺されたケネデイ大統領が選挙公約にしたアメリカの若者を途上国に送り込む平和部隊プログラムが進行していた。
  アメリ大国主義の思想の一方で謙虚さを備えた時代。挑戦と謙譲である。
  「愚 かな首相」を書いたワシントンポストの記者は、おそらく、70年代の若者に支持された本の存在も、ジョブズ氏の講演も頭になかった。アメリカンスタンダー ドの思想にジャーナリズムもまた、どっぷりつかっている。留学経験の長い鳩山氏も知らなかった。そう思わざるを得ない。鳩山氏が『ホール・アース・カタロ グ』最終号を引用して謙譲の美徳についてコメントしていたならば、世界の耳目を集めたに違いない。
  謙譲の美徳のルーツはいうまでもなくあの中国である。小国を見下し、大国主義の中華思想と謙譲の美徳は相容れないようにみえるが、古代中国人は国の外と内で使い分けてきた。
  中華思想は中国民族で構成される国、文明が世界でもっとも優れているという思想である。中国民族の支配から離れるにしたがい、文明もなく、中華文明を伝播し、教化することを是としている。アメリカンスタンダードならぬチャイナスタンダードだった。
  では謙譲の美徳がどのようにして日本に根付いていったのか。謙譲の美徳といえば、武士道と一体のごとく受け取られがちであるが、その源は飛鳥時代までさかのぼる。次回から歴史をたどってみたい。
               (次回 奈良から平安京へ)


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