stay-active CHANNEL 03  第25回  芭蕉と秋の旅  


芭蕉座像図  江東区 芭蕉記念館蔵



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  秋の気配が濃くなった。あっという間に日が落ちて、暗くなる夕暮れは感傷を誘う。俳人松尾芭蕉が28年間の漂泊の旅の終焉の地、大阪で詠んだ句は

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  秋深き隣はなにをする人ぞ 

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である。元禄7年(1694)正月、かねて滞在の大津、膳所で迎えた芭蕉は7月に故郷の伊賀上野に帰り、盆会を営み、9月8日、伊賀上野を出発して大阪に向かった。51歳の体は衰弱していた。大阪到着後に発病、回復して開かれた28日の俳席での句が「秋深き隣は」になる。芭蕉は翌日から、床につき、起き上がる力はなかった。隣家の灯りに見る人のぬくもりと寂寥感が交錯していた。10月9日、芭蕉は「病中吟」として

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  旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

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を詠んだ。芭蕉はかねてから「平生すなわち辞世なり、臨終のおり一句なし」といっており、人生こそ旅としてきた芭蕉にとって辞世の句ではなかった。最後の句は

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  清滝や波に散りこむ青松葉

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である。躍動感あふれる句はどこか挑戦的だ。死を前にした芭蕉の心の風景だ。

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  10月12日(新暦なら11月末)、芭蕉没。遺言により、遺骸は近江の義仲寺(大津市)に埋葬のため、淀川を船で伏見まで運び、陸路で寺へ安置した。葬儀は14日深夜、行われ、会葬者は近江、京、大阪からかけつけた門人ら300人にのぼった。時雨降りしきる中、木曾義仲墓隣に埋葬された。義仲寺は当時、湖畔にあり、芭蕉は晩年、近江を計10回を訪ね、義仲寺、石山寺近くの幻住庵に滞在、多くの句を残している。義仲寺には弟子の其角の「木曾殿と背中合わせの寒さかな」の句が立つ。芭蕉が近江をことのほか気にいった理由は湖国の風情、本多氏6万石の膳所藩城下町における門人らとの交流があげられ、特に幻住庵を提供した膳所藩の重臣、菅沼曲水は、芭蕉を物心両面から支え、誰よりも多くの書簡の交換をしている。膳所城は徳川家康が直々に築城を命じた天下普請の水城。瀬田川東海道が交差する要所にあり、譜代の戸田、石川、菅沼氏のあと本多氏が明治まで統治した。明治維新で全国に先駆けて廃城願いを提出したため、城下町の風情はなくなり、街道沿いに点在する町家が往時を伝えている。芭蕉滞在は3代康慶の代で、弟子の曲水は本多氏前の藩主の姻戚にあたり、文武に優れ、藩士、町民分け隔てのない俳句の会席を開き、城下に俳句を広めた。俳句城下で名高い四国・松山は同じ頃、俳諧が勃興しているが、藩主松平定直が芭蕉の弟子其角の門人になり、奨励したことがきっかけになった。膳所藩は芭蕉直流であり、もし、あの事件がなければ、松山をしのぐ俳句の町になっていたかも知れない。

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  膳所の町の片隅に菅沼曲水の家跡の碑が立っている。家老に次ぐ重臣の曲水にとって藩主交代が運命を変えた。芭蕉没後から20年で藩主隠居、息子康命が藩主になると、膳所藩に奸臣が登場する。江戸詰めの側用人が藩主に取り入り、藩のひんしゅくをかう。国許の出来事を告げ口し、目にあまる。しかし、藩主の気に入りのため、誰もとがめない。 曲水は句を詠む。

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  おもふこと だまっているか ひきがえる

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  芭蕉の著名な門人の句として異色である。血なまぐさい政治が背景に見え隠れする。曲水は俳諧の道と、藩名門の武士の道の選択を迫られ、決断した。

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  事件は享保2年(1717)9月4日、起きた。江戸へ行く前の側用人が玄関先で槍で刺殺された。相手は曲水。がまんにがまんを重ねての行為であったのだろう。曲水は自宅で「私怨による」と遺書を残して切腹する。膳所藩の資料を調べても、側用人の名前は「権太夫」としかでてこない。奸臣というのがその後の評価になっており、膳所藩も曲水切腹を受け、穏便にすませようとするが、藩主は烈火のごとく怒り、曲水息子の切腹、お家断絶、妻子追放の処分になった。その後、曲水の娘が尼になり、現在の幻住庵の地に草堂を開く後日談が残る。膳所藩では俳諧もすたれ、問題の藩主も事件の2年後に死亡している。松山藩芭蕉没後、名君の定直の薫陶もあって、芭蕉に帰れと俳諧復興に取り組み、江戸文化の花を咲かせたのに比べて対象的である。膳所の城下を歩きながら、曲水の事件が惜しまれてならない。

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  芭蕉の故郷は近江から車なら1時間半の距離である。伊賀上野は関西、東海地方の人でないと、場所をつかみにくい山の中、秘蔵の国。地図でみると、大阪、静岡を結ぶ、ほぼ一直線上に位置する。天下を手にした秀吉にとって東の家康は常に気になる存在であったから、当時、浜松・駿府への監視は怠りがなかった。家康は秀吉後に備えて、西への目を光らせる。信長後の覇権を競った秀吉と家康は、伊賀を戦略上の拠点と位置付け、中でも用意周到な家康は、関ケ原勝利後も大阪との決戦で敗走することを想定して大阪城に並ぶ高石垣を築いている。城主は築城の名手といわれた藤堂高虎。秀吉に仕え、関ケ原で家康に付き、今治城から転封、要塞を築いた。豊臣滅亡後は津の城主になり、上野は津の支藩として城代家老にまかせている。

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 芭蕉生家

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  芭蕉上野城の南西の赤坂町に生まれた。生家は中心部よりはずれた一角にあり、格子構えの家は改築されているが、芭蕉生家として保存されている。母方が伊賀忍者につながる家系から、芭蕉忍者説が話題になった。旅から帰郷すると兄の世話になり、裏庭には「貝おほひ」をまとめた釣月庵があるものの、兄の暮らし向きは質素なもので、芭蕉は兄のふところ具合を気遣っている。44歳の暮れ、帰郷した芭蕉は兄から自分の臍の尾をみせられ、句を詠む

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  ふるさとや臍の緒に泣く年の暮れ

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  臍の緒を手に涙した芭蕉の前には亡き父母、兄弟の絆、ぬくもりがあり、後ろには俗を拒否した旅空の寂寥感が漂う。大阪で詠んだ「秋深き隣はなにをするひとぞ」に共通する心象風景が浮かんでくる。秋の旅は、こころにしみる。

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