第137回 祇園祭 雷鳴とどろかせてコンチキチン

  しめしめ、梅雨明けも近い。京の町を歩いてみたくなった。京の町の変貌はすさまじい。といってもひと頃のようにビルが乱立しているわけでない。中京あたりの 町屋が飲食店やみやげもの店に模様変えしている。かつてウナギの寝床の路地の家がそろってお洒落な店に衣変え、その中に必ず1軒か2軒の赤ちょうちん、古暖簾ががんばっている。

  前の祭(本祭17日)と後の祭(還幸祭24日)が復活していらい7月は祇園祭一色になる。従来は宵山、鉾巡行が観光の目玉であったが、後祭の神輿洗いなどの祇園祭の神事に観光 の目が注がれるようになった。四条大橋から鴨川の水をくみ上げ、神輿を清める祭の締めを見届けると、なぜかほっとする。平安から続く厄除けの儀式だ。

     

  空もようが怪しくなり、雷鳴とあわせてバタバタとにわか雨。祇園祭の頃は梅雨末期にぶつかり、夕立ちが定番だ。赤ちょうちんの軒先を借りて雨宿り。中京の 変遷を瓦屋根を数えながら、思い起こした。中京は呉服の卸、販売の店が多く、なかでも南北の室町筋はずいーと暖簾が揺れている。問屋町の入れ変わりははげ しく、京のあいさつ「相変わりませず」は日々平穏をあいさつに込める商いの言葉。よくいう3代続く家は数少ない。

  室町の変遷が顕著になったのはバブル期。郊外に本宅を構え、店は商売のみ。夜間は無人になる。祇園祭の存続にも影響を与え、さらに店を壊してビルにした。俗にペンシルビルという愛想のない、ひょろ長い建物。京都市も重い腰をあげて「京都の町家景観を守れ」と、市民運動の後ろから旗振った。

  京の町は不思議なところで京都市内 でも鴨川西から堀川通、御所から五条通までがいわゆる京町衆で、町の中に住む市民は「先の戦争で家が焼け、やっと落ち着きましたんですえ」と、うちわを仰 ぐ。よそさんにはない苦労したという言葉に誇りがにじむのも京都ならではである。碁盤目のなんの変哲もない町に各付けが、残っている。真ん中のプライドは そら高い。外のものが顔をしかめるほどだ。付き合いにしても真ん中と上、下の町では異なる。

  例えば祇園祭。5月になると、上の家から上御霊、下御霊神社の例祭の進物品が中京に届く。いまは略式のところも多いが、かつては鯖寿司だった。親戚から届 く鯖寿司を食べ比べて、話を咲かせるのも祭の楽しみだった。「あそこの嫁は料理がうまい」などと味評定をするから上の家は鯖寿司に丹精こめた。祇園祭は中 の家はハモ寿司のお返しが相場だ。ところがいまや鯖もさることながらハモ価格は高級魚。しかも、供給地の淡路の紀淡海峡のハモ水揚げが急激に減少して韓国 産や中国産のシェアが上昇、「うちのハモは淡路から」というブブランド自慢ができなくなっている。ハモはもとより鯖も仕出し屋の世話になる交換の意味は薄 らいでいる。

  中京の鱧の老舗「堺萬」。町屋の一角に軒をつらね、見逃す構えだ。ここは鱧専門で定評があり、価格も頃合いを守っている。私はここの主人からワサビで食べる刺身の味わいを教わった。主人は疲れたとき、これをたべるに限るという。鱧は淡路のものをつかう。

  町屋の前で立ち話。家の中にはいると改まるが、立ち話は、意外にはずむ。

  「中京のおうちは淡路の業者が決まっていてブリキカンにいれた鱧を家の前に置いておくと、仕出し屋が回収して調理、家へ届けるシステム。それを鯖寿司のお礼に上の家へ相変わりませずというて配りますのや」

  「進物品は双方の負担が同じなのが一番どす。高ければいいものではおへん。受け取る側の気持ちを汲まんとあきません。その点のこの町はようしたもので、進物品の交流の歴史がありますさかい。いままでそれに従ってきましたが、ここへきて変えるおうちもおおなりました」

  「相手さんの家が進物品をやめれば、うちもやめます」

  きわめて合理的である。商売の浮き沈みの激しい京町家らしい。まして「御変わりおへんか」と、問い合わせたりはしない。町家の交際における矜持といえる。他所から町屋に引っ越してきた新人はこのあたりの機微がわからない。付き合いもほどほどならいいが、溶け込むのを急ぎ、深入りすぎていやな顔をされる。

  町内の冠婚葬祭の序列、とくに葬儀の序列は親代々から決まり事。しかし、世代も変わり、いつか葬儀場の到着順になるだろう。ところが祇園町はこの序列、伝統を守り、これができないと、受け入れてはもらえない。

  ある女将は「順番の前の家さえ覚えておけば、まずまちがいおへん」と、祇園のしきたりの重みをいう。町屋の伝統が祇園に根づいたともいえる。

  錦小路。通りのなかほどに卸し専門の魚屋がある。客は料理店。魚の目利きにかけてはこの店の店員にかなう料理人はまれだ。

  この店の人気商品が鱧の骨。骨切りした骨を並べるが、あっという間になくなる。

  「ようしってはる。これで吸い物の出しをとり、鍋にすると最高でっせ。高いものおいしいに決まっている。安くてしかも精の付く旬の味ならこれ鱧の骨。うち は料理屋相手と思われれるのはしょうがなないが、奥さんたち相手の商いも忘れてません。祇園さんは魚屋の初心に帰るとき」

  京の伝統の深さはこんな一言にも顔をのぞかせる。魚屋が町の風味を失えばデパ地下でしかない。祇園祭の京をあれやこれや考え歩くのは刺激的で楽しい。優れた推理小説の舞台に似ている。むしろそれ以上にスリリングである。

  前祭の23の鉾は宵山の14日までにそろい、長刀鉾と四条室町は12日が曳き初めだ。

  後祭は24日に橋弁景山など10基が巡行して祭の幕を閉じる。じりじり照り付ける夏の日を避けて四条小橋北の通りを歩く。狭い露地の中に勤王志士と長州藩とのつなぎ役、枡屋喜右衛門の店があった。黒田藩の御用達で九州、長州の藩邸に出入り、つなぎの密偵をしていた本名は古高俊太郎。古高は武器の準備など長州藩との関係が深く、新選組に勾留され、拷問を受けた古高救出のため、池田屋で謀議したのが事件の背景にある。

     

  店はその後、代替わりして和食店になっている。店のそばに古高遭難の碑が立つ。古高逮捕は動乱の幕開けになり、池田屋事件禁門の変に発展した。枡屋は当 然、台替わりして現在は和食の店。汁もの専門が売りで、白みそ汁、焼き魚の定食はうまい。天井をきょろきょろながめながら、みそ汁はさすがに濃厚だ。歴史 のホコリがまじる京の味だ。