第67回 我輩は猫でない、猫である①

  (GW明けは旅疲れもある。普段からGWの日々であるが、そこに巷の大型連休がかぶさり、ぐったりしている。今回と次回は旅を離れ、我が家の猫に登場を願った)

  我輩はこのインド哲学的命題を生まれてこのかた背負い、追究して久しい。この家に来てから、10年を数える。家族は、我輩の世話役の夫婦と、子分の2匹の猫がいる。世話役の夫を旦那、妻をママと呼んでいる。子分は種違いの姉と弟で、姉は我輩よりも3年後、弟はさらに2年後にこの家で住むようになり、いまでは、我輩同様に夫婦の世話になっている。旦那の姪にあたる猫好きの家で生まれ、なんでもジャガイモの名前に似た、メーンクーンという種族らしく、北米がルーツと、我輩と喧嘩のたびに出自をひらけちらし、我輩を怒らせている。我輩はともかく、世話役の旦那は、ジャガイモのメークイン種類とメークーンの発音を混同し、ママからバカにされている。あちらの血をひくから体格は我輩よりも大きい。我輩と並ぶと、中学生と大人の違いがある。
  我輩は白猫。薄茶が部分的に交じり、純白でないのがわれながら惜しい。名はある。小太郎。股旅ものが好きな旦那がつけた。旦那の妻、我輩はママと呼んでいるが、ママは旦那の名前が二郎なのに、猫に太郎はおかしい、と異論を唱えた。この家の長男が結婚して東京暮らしの時で、「長男が帰ってきたと思えばいい」と、訳のわからない説明で押し切った。我輩にとって光栄の限りである。「小太郎」と、呼ばれるたびに感激で尾が震えた。
          吾輩が「小太郎」である
    
  我輩はれっきとした日本男児である。近所のばあさんなんか、我輩の毛並みに高貴な香りがすると、誉めてくれた。それを聞いた旦那は、あろうことか「もしかしたら、フランスの白猫の血がはいっているのかも」などと追随している。冗談ではない。舶来崇拝主義はやめてほしい。旦那は往年のフランス映画のフアンで、カトリーヌ・ドヌウーブ、ブリジッド・バルドーなどがお気に入りだ。旧作のドヌウーブ主演の「インドシナ」をみていらい、冒頭のドヌウーブのナレショーンに心を奪われ、雑文に引用している。我輩が聞いても、名文と思う。
―世の中には分かちがたいもの、男と女。山と川、川と海、フランスとインドシナ
  1930年代のフランス統治下のベトナムのゴム園を舞台に、ベトナム独立戦争を描いた小説の映画化である。世界遺産の湾、民族衣装にはうっとりした。アカデミー外国映画賞(1992年)を受賞したと、旦那が講釈していた。熟年のドヌーブと若いフランス将校、安南皇女で両親を事故でなくした養女のベトナム少女(独立戦争に参加)の愛憎がもうひとつのテーマであるが、我輩が想像するにはドヌーブと将校のベッドシーンが旦那を魅了したのだと思っている。旦那は元記者。古来、医者、学者、記者と「者」がつく職業は助平といわれるが、旦那もその例にもれない。傾倒している股旅小説とフランス映画。旦那の頭の中をのぞいてみたい誘惑にかられるが、それも個性なのだろう。我輩は冒頭の分かちがたいもの、男と女の後に「人間と猫」を加えたい。猫でなく、猫である我輩のテーマは人間研究であるからだ。
  我輩は世話役夫婦の子どもと思っている。夫婦も我輩を子どものように育ててくれた。まぎれもなく家族だった。毛は浅いから、冬が苦手だ。夏には強い。いやな客が来ると、夏でも布団に潜り込み、半日ぐらい、寝て過ごすこともある。心配した旦那が探しに来て、あきれていた。子どもの甲高い声と道路工事の震動には、こちらが身震いする。怖がり屋、臆病な性質であるが、喧嘩は好きだ。猫パンチには自信がある。喧嘩は気力でするものだ。それが証拠に、猫族では最大の体型というメーンクーンの姉、弟は我輩にはかなわない。弟など図体だけでなく、ライオンのタテガミような厳つい顔をしているが、すぐ寝技に持ち込み、恭順のまなざしで我輩を見上げる。これは猫の世界では負けを認めたに等しい。だから、子分である。ただ、我輩を敬う気持ちはなく、我輩も腹の中をさぐるという腹黒でないから、見て見ぬふりをしている。しかし、ボンが我輩の体に触れると、腹が立ち、パンチの応酬のすえ、ボンは逃げる。旦那は、我輩に「体に触れたと怒るのはやくざだ」と、非難するが、我輩の通るときは、さっと道をあけ、避けるのが子分の礼儀だろう。親分の示しがつかない。いずれ、親分の座を奪うつもりが態度に窺え、ここはひけない。
          「小太郎」親分は強いのだ!
          
  パンチは耳の近くの毛の薄いところを狙う。爪でひっかく。傷が化膿して頭が丸坊主になり、医者通いをさせた。首にプラスチックの輪をはめ、足で傷口をかかないようにした姿は痛々しかった。以前はパンチの応酬を猫のボクシングと楽しんでいた旦那は、いまではにらみ合ったとたん、仲裁にはいる。なんでも治療費が1回2千円かかり、病院や医者通いしたことがない旦那は、ぐちをいうことしきり。猫の身を案じての仲裁ではなく、けんかをすると治療費がまず頭に浮かぶのだろう。間にはいった旦那は我輩の頭を先にたたき、ボンはたたくまねですます。我輩のプライドは傷つく。心の傷の深さは、旦那にはわかるまい。親分のつらいところだ。
  我輩がこの家に来た経過を説明する。記憶はうろ覚えだ。暗い夜道で泣いていた。生まれてすぐ、道に捨てられ、隣の息子が拾い、世話役夫婦宅に持ち込んだ。世話役夫婦はモモコという年寄り猫を亡くした直後であったため、「これも仏のひきあわせ。生まれ変わり」と、引き取った。こう書くと、世話役夫婦は信心深く聞こえるが、続けて墓参りに行くかと思えば、1年以上もご無沙汰するなど実にムラがある。我輩は近所の藪医者に診せられ、「この猫は栄養失調のため発育が遅れているが、生後3週間ぐらい。育たない」と、診断を受けた。確かに、生まれて2週間足らずで置き去りされた。歩くことさえ、まだ充分でできなかった我輩を世話役は、哺乳瓶でミルクを与え、育ててくれた。離乳食は、ママが野菜と鳥を炊き込み、スープ状にして食べさせてくれた。食事は、食卓の上と決まっていた。
          小太郎の命をつないだミルク
          
  夫婦、学生の次男と朝、夕を一緒に食べた。我輩は他の猫のように、ガツガツしない。ゆっくり食べるのが好きだ。食べ残しもしない。旦那は学生時代、なんでも合宿という団体生活で鍛えられ、早めし、早ぐそ、早風呂が自慢だ。ママはゆっくり食べ、我輩と似ている。
  幼少の頃はコアラのぬいぐるみが遊び相手だった。我輩は人形が好きで、なめたり、かんだりした。ペットのペットというつまらぬシャレは、無論、旦那の台詞である。
我輩は水を飲むのは、一家の食卓の中央に置いてあるクリスタルコップの水と決めている。他の二匹は猫用のカップで飲むが、我輩はクリスタルだ。うまい。一日、このコップ3杯の水を空にする。一般に猫族は水分摂取が少ないというが、我輩は水が命だ。だから、10年間、病気などしたこともない。ただ、トイレは近い。音立ててするので、旦那なんか、「馬の小便」とあきれている。
すべての点でベテイ、ボンよりも上品と自負している。育ちのせいだろう。世話役夫婦には感謝している。後で紹介する子分のベテイやボンは、競争で食べる。食べながら、ボンなどは横目で我輩や姉猫の食事の進行度を確かめ、食べている。食い散らかし、行儀も悪い。我輩はベテイに尋ねた。
  「おんなだてらになぜ、急いでたべる」
ベテイは兄弟姉妹の中でもまれ、「急いで食べないと横取りされたのャァン」と、答えた。競争社会の悪習を身につけ、気の毒な限りである。ただ、我輩は親分であるから、2匹は我輩の皿に首を突っ込むことはしないが、ベテイはボンにやられ、手でパンチを見舞っている。ママがよく言っている。
  「結局のところ、氏より育ちね」
  ベテイとボンは血統つきの家柄らしく、祖父は賞をもらったという。我輩が調べたところ、先祖は海賊船で北米大陸に渡り、氷雪の環境で血を残してきたという。現地ではアナグマと猫の混血説も流れている。真偽は不明ながら、血統をひらかすのは、感心しない。  我輩は実家も親もわからない。ひがみになるから、あまり言いたくないが、先祖の最初は野生か、ノラのさすらいであり、血統よりもご先祖の労に感謝したほうがいい。
          毛並みのいい「ボン」
          
動物は生まれた時、最初に見たものが親と思うそうであるが、我輩にとって世話役夫婦は親だった。最初のウンチトイレに成功した時は、夫婦で手を叩いて喜んでくれた。夫婦と風呂も一緒にはいった。拾われて、ドロドロの体を風呂で洗ってもらい、冷えた体を湯で温めたあの日は、忘れがたい思い出だ。風呂好きになり、旦那やママが風呂にはいっていると、ドアをたたいてのぞく。湯船にひっぱりこまれ、抱かれる心地良さ、湯上りの疲労感はなにものにもかえがたい。
          「小太郎」大好きなお風呂
                   そうそう、こんなことがあった。ママと湯につかり、抱かれていたら、目の前に乳房があり、それをほおばろうとするが、ブドウのごとき大きさで口からはみでてしまい、我輩はあせった。当時、我輩は旦那の胸ポケットにすっぽり、はいる大きさしかなかった。
  「ねえ、ねえ乳首が大きくて、口にはいらない。お父さんのならちょうどでないかしら。小太郎は母が恋しいらしいよ」「しょうがない。俺のでやってみるか」と、パパが交代して湯につかり、我輩に小さな乳首を突き出した。我輩はむしゃぶりついた。パパはぎゃぁと、叫んだが、我慢してくれた。我輩はなにも出てこない乳首をすい、夢うつつの至福の時を過ごした。これがきっかけになり、風呂でなくても抱かれると、乳首をシャツの上から探し、シャツをべとべとにした。
          ご主人さまの次男坊のおっぱいを探す幼少のころの小太郎
          
  パパの乳首の次は、耳たぶの感触が母を思い起こして、これをしゃぶった。テレビを見るパパの肩にのり、耳たぶを噛むではなく、吸うでもなく、チュチュウとやり、悲鳴をあげさせてやった。その後、耳から小指になり、この指しゃぶりは、長く続いた。兄弟と遊んだ経験もなく、世話役の暮らしは、我輩に噛み癖をつけた。ママは「親愛の表現」と、うれしい解説をしてくれるが、噛むと夢中になり、世話役の手足に歯型がのこるほど激しく噛む。逃げる旦那を追いかけて、踵をくらいつき、涙を流させてやった。
  運動神経がにぶいのは、育ちのせいか、生まれつきなのか、わからないが、我輩は不器用である。食卓からソフアへジャンプして移るつもりが、届かず、床にドスンと落ちることもしばしばで、書架の上で昼ねして、寝返りしたまま、墜落して、世話役の失笑を買う始末だ。二階の踊り場の手すりを歩いていて、滑り落ちそうになり、ぶら下がったまま、助けを呼んだ。呆れた旦那は、「お前は猫でない」といった。
  そうだ、我輩は猫でない。
  猫でなく、猫である。ゆえに猫でもない。我輩は仏教に関心の高い?旦那の本を盗み読みしてインドの大乗哲学に傾倒していらい、この命題を常に考えている。旦那はわが国に最初に伝来の宗派、三論の教えにある「去るものは去らず」とかいう時間の解釈に苦労して、そばで見て気の毒なほど頭をひねっている。世界標準時にふりまわされている旦那がいくら時間について考えてもわかるわけがない。時間はそれぞれが持っているものだから。旦那の1時間と我輩の1時間は違う。我輩も旦那の首振りをまねしているうち、目が回り、哲学の世界をのぞくようになった。昼間、テーブルの上で目をほそめ、思索していると、旦那は「丹波哲郎にそっくり」と、ママにいい、あんたの目がおかしいと、けなされている。むっつり、難しい顔をしてTVに登場していたあの俳優である。ほりの深い顔は我輩に似ていなくもない。
  我輩は、外出が苦手である。捨てられた記憶がよみがえり、庭にいてもすぐ、家に帰りたくなる。ドライブのお供で車に乗せられたさいは、泣き叫んだ。もう、捨てられると思った。ママは「捨てられたトラウマが頭にあるのね」と、我輩を抱いてくれた。旦那にはうるさいママであるが、我輩にはやさしい。横浜に住む長男のやんちゃ坊主が「猫がいや」と、いったら、ママは「猫は家族。なにをいうか」と、怒った。我輩らは拍手した。胸のすく思いがした。正月、帰省した長男夫婦に同行したさい、猫の毛が茶碗に着いていたというのが猫嫌いの理由であるが、幼稚園に通う妹は大の猫好きで、我が家に来ると、追いかけまわしている。正月や盆は、2階で帰るのを待つか、子どもが寝るまで布団にいる。
  次に姉猫のベテイ。旦那なんか、なんでもエリザベス・テーラーとかいうハリウッドのムービースターに目元が似ていると、ひまがあれば抱いている。丹波哲郎といい、エリザベステーラーといい、旦那は映画、TVの主人公に我輩らを重ね、妄想にふけっているふしがある。ベテイの名前も中学で習った英語の教科書「ジャヤック・アンド・ベテイ」から付けた。おそらく英語のできもいまひとつで、悔いがあるのだろう。
          「ベティ」です。よろしく
          [:360]
  ベテイは三毛と縞寅まじりの毛色をしている。胴長で足は短く、太い。お世辞にもスタイルがいいとはいえない。我輩がこの家に来て、3年目に生後1カ月で越し入れしてきた。旦那は我輩に「子どもなんだから、可愛がってやれ」と命じ、我輩もものめずらしさもあり、なめてやると、いやがった。我輩が耳を噛むと、旦那が飛んできて、あろうことか我輩の頭を叩く。親愛の表現をこけにされた男の矜持はどうなる。怒りはおさまらない。2階へかけあがり、布団でふて寝するのもしばしばだった。
  成長すると、可愛い猫になった。ベテイには変な趣味がある。アルミのガラス戸をあける。居間のガラス戸は苦もなくあける。ロックがしてあっても、しぶとく挑戦している。扉を開け閉めする玩具の家を買ってやればいいと思う。我が家は基本的に家で遊び、外へ出ても庭で紐つきである。ガラス戸はロックをおろしている。ある日、ロック忘れのドアを開けて、ベテイが脱走した。近所にはベテイの美貌に惹かれた野良がいる。この野良の監視も我輩の役目で、庭に近づくと、追っ払っている。
  「ベテイがいない」
  「ロックを忘れたんでしょう。バカ」
  「それはお前だろう」
  世話役は責任のなすりあいをしている。いつものみっともない喧嘩だ。旦那が近所を探しにでかけた。ベテイの名前を連呼した。映画やTVでふられた男が去り行く女の後ろ姿に名前を呼ぶシーンがあるが、家にいる我輩にも聞こえるベテイを呼ぶ旦那の声は、近所はおろかバス通りまで響いた。出窓から様子を伺っていると、通りがかりの若い女性など「おっさん大丈夫か」という気の毒な顔で旦那を見ている。まさか外国人女に去られた老人が行方を追いかけているなどとは考えないだろうから、老人病への同情のまなざしにちがいない。自転車で半径1キロの周辺で名を呼び続けた。
  「ベテイ、ベテイ」
  男の愛惜がこもる声に我輩など胸がジーンとなった。ベテイは脱走から3時間して戻ってきた。我輩はベテイに言ってやった。
「旦那が探していたぞ。悪い男にかどわかされたらどうする。子どもができてもしらんぞ」
  「大丈夫。近所の猫は小さく、サイズがあわない」と、いやなことをいう。我輩へのあてこすりだ。胴長の体型が国際恋愛には不向きなのだ。我輩同様の足が長く、胴の短い近所の日本男児の風来坊では相手できない。このあたりの詳細は専門家を自認する旦那に聞いてほしい。図入りで説明するはずだ。
ベテイにはもうひとつの特技がある。特技というか「いい顔」をする。朝夕、排便のあと、尻の周辺を毛づくろいするが、わざわざ尻のあたりを嗅ぎ、顔をゆがめている。その顔は、口を半びらきにして「クサッ」をなんども繰り返す。臭いを確かめるなら一度でいいものを、二度三度として、そのつど「クサッ」だ。ここまでくると、趣味というしかない。旦那はこの顔見たさに、朝夕はベテイにつきまとっている。臭い関係だ。
  以下次号へ続く。