第73回 日本銘茶紀行  味と歴史の風景をたずねる

  茶畑の景色でどこがいいか、と尋ねられ、思いつくまま、日本平の茶畑と富士山が一番、と答えたことがある。日本平は、ご存知、「旅姿三人男」の歌に出てくる 清水市北の高原地帯を指し、「お茶の香りと男伊達」の土地柄だ。清水エスパルスのグランドのある競技場横に日本平さくら通りの名の車には狭い道がある。旧 登山道で急カーブの道を登って行くと、茶畑越しに富士山がそびえている。新茶の頃は茶摘みもできる。
           日本平の茶
  そして京都。紅葉の京都は、いつもながら道中で難儀する車の列と、どっと繰り出す人の波。仁和寺から周山街道を高雄へ向かう。この街道は北山杉の中川を経て、日本海への道である。
  清 滝川沿いに高雄・神護寺、槇尾・西明寺、栂尾・高山寺で知られる三尾は紅葉の鮮やかさでは市内NO1にあがる。いずれも山の中の寺だ。一番奥の寺が高山 寺。受験生なら、真っ先に国宝『鳥獣人物戯画』(鳥羽僧正筆)が頭に浮かぶほど美術史に名高い。鎌倉前期、この寺に住持した明恵華厳宗の寺を再興し、山 の動物たちと戯れ、それが絵巻物になった。
  現代でも京の市街を離れ、紅葉の季節を除けば、拝観料はなく訪れる観光客もまれである。この寺で毎年、11月8日、明恵をしのぶ献茶祭が営まれる。宇治の茶業関係者も参列する茶会は、栂尾が日本の銘茶、茶園の源流であったことを今に伝える儀式だ。
  高 山寺の茶園を語る前に、栄西の足跡を記さねばならない。臨済宗祖(禅宗栄西は、鎌倉初期の1168年に宋へ渡り、さらに20年後、再度、渡宋した。4年 におよぶ宋生活で禅宗を習得、当時、禅宗寺院で根付いていた喫茶の風習を身につけ、帰国にあたり、茶の木、種を持ち帰った。栄西は平戸に上陸し、ここに茶 の木、種を植えたという。
  な ぜ平戸なのか。宋からの航海で弱っている茶の木を一日も早く植える必要があった。また、種は夏を過ぎると、発芽率が極端に落ちるから撒くことを急いだ。栄 西は宋の生活で茶の栽培を学んだのであろう。上陸するやいなや、栽培に適した地域を求め、平戸のほか、福岡の安国山聖福寺、福岡と佐賀の県境、背振山霊仙 寺に植えた。京までの道中を考えてのことだった。
           霊仙寺の茶
  栄 西は、京で建仁寺の開祖になり、栄西高山寺明恵が訪ね、親交を結んだ。栄西明恵に茶の種を渡し、栂ノ尾で栽培を勧めた。この種は、九州で栽培の栄西 ゆかりの茶の実がルーツであったのは間違いない。明恵は、高山寺に茶園をつくり、さらに宇治に栽培を広げた。高山寺の献茶祭に宇治茶関係者が出席するの は、宇治茶の始祖が明恵であるためである。室町期には栂尾、宇治は「本茶」、他の産地は「他茶」と区別される銘茶に育つが、栂尾茶は宇治にお株をとられ、 いまは、小さな茶園から時空のかなたの往時をしのぶしかない。
  宇治市黄檗山万福寺。中国僧、隠元が開いた禅寺である。この山門前に明恵にちなむ石碑が立っている。万福寺建立は江戸初期であるから、明恵の時代は一面、山と畑だった。明恵はここに茶を植えるよう指示した。石碑にはこう刻まれている。
     栂尾山の 尾の上の茶の木 分け植えて 跡ぞ生うべし 駒の足影
  馬 の蹄跡くらいの間隔をあけて茶の種をまくよう住民に教えたことから、茶園には駒蹄影園の名がついた。当時の茶は抹茶である。宇治茶足利義満により、七茗 園に集約され、栽培から販売までお茶師が管理、信長、秀吉、家康以降の徳川幕府の保護を受けて、一大ブランドに成長した。お茶師は宇治の代官も兼ねた。い まも宇治に店を構える上林家は初代が秀吉のお茶師になり、江戸時代の茶師を統率してきた。宇治橋西には上林記念館がある。宇治茶が抹茶のトップブランドの 座にあったのは、宇治以外の地で抹茶生産を認めなかった幕府の政策に預かるところ大きい。
  抹 茶は摘んだ葉を蒸篭(せいろ)で蒸すが、この蒸しの工程は、熟練の技になり、抹茶の質を左右する。八十八夜頃の芽が最高とされ、量もわずか。茶は肥料を好 み、都の下肥えを船で運び、使える立地に加えて、香味の強い抹茶をつくるため、春に茶畑を被覆、さらに摘む直前には葦をかぶせた独特の製法が宇治茶を名実 とも全国一の「本茶」にした。
  この宇治の抹茶も明治になり、外部生産が許されると、各地に普及して宇治茶の地位は下降していく。宇治に代わる抹茶生産のNO1になったのが愛知県の西尾市地区である。東海道線安城駅の 南に位置する江戸時代は6万石の城下町。明治5年、紅樹院住職の足立順道が宇治で学んだ抹茶製法を持ち込み、境内で栽培したのが始まり。現在、矢作川左岸 の丘陵地100haが茶園になり、抹茶は市民の暮らしに根付いている。市民1万人抹茶会も開かれ、学校では抹茶にちなむ行事が多い。
  茶 の大衆化に忘れてならないのが、宇治における煎茶の開発だ。明恵の碑の立つ萬福寺は、江戸初期、明の禅僧、隠元が開祖。隠元は、1654年、長崎の東明山 興福寺三代目の中国僧、逸燃に招聘され、30人の弟子たちと日本にわたり興福寺で明の臨済禅を広めた。明は清との争いで荒れていたことも隠元に渡日を決意 させた。栄西臨済宗とは異なる新風の明禅は僧、学者から崇敬を集め、興福寺は活況を呈するが、隠元が中国から伝えたものは、煎茶の窯炒り製法と、急須 (きゅうす)に茶を入れて飲む喫茶法のほかに隠元豆、胡麻豆腐、レンコンなど多岐にわたり、普茶料理黄檗宗の看板ともいえる食事である。
           普茶料理
  隠 元は4代将軍、家綱の援助を受け、宇治で黄檗宗萬福寺開山した。抹茶でない煎茶、喫茶法は、長崎を経て宇治へ広まった。隠元は日本の煎茶の祖と位置づけら れ、日本煎茶道連盟の事務局は万福寺にあり、万福寺管長が会長を兼務している。この喫茶法をヒントに、手軽に誰もが飲むことを可能にした製法が宇治田原で 生まれた。開発したのは永谷宗円。宗円は宇治田原湯屋谷の農家の息子で、工夫を重ね、58歳の時、急須で飲む煎茶工法を完成した。宗円は隠元萬福寺を訪 れる文人墨客の喫茶に興味を抱き、急須に入れて飲む茶の味わいに、魅了された。釜炒りの煎茶でない、蒸した煎茶ができないか。宗円は蒸したあと、茶を揉 み、その揉み方で味も変わる奥行きの深さに気づく。揉んで茶の香りや成分が湯に溶け込むのを助ける製法は、まさに画期的だった。
           萬福寺
  宇 治田原は私の住む大津南部と峠隔てた山里である。峠の向こうは一面の茶畑が広がり、茶ののぼりが風に揺れる。東は信楽、南は奈良に接している。宗円の生家 は、保存され、近くには宗円を祀る神社まである。これは宗円が開発した青製煎茶の技術を近隣に教え、抹茶とともに宇治煎茶のブランドを拓いた住民の感謝の 気持ちだった。
  宗 円は江戸へ出向き、煎茶の販路に道をつけた。江戸の山本嘉兵衛(現山本山)によって江戸で売りだされた煎茶は人気を集めた。煎茶の製法は、宗円が初めて開 発したものではない。日本各地、特に九州地方では明末の中国からの帰化人が伝えており、佐賀・嬉野、熊本・泉町(五カ庄)には、釜炒りの製茶法が現代に継 承されている。
           釜炒り茶
  ここで煎茶と関係の深い佐賀県出身の禅僧について書きたい。銘茶とは、茶を入れる人間と飲むものが心通わす、香りと味わい、こう定義するなら私はこの僧の名 を文句なしにあげる。柴山元昭。隠元が長崎に来航して21年後の1675年、鍋島藩支藩蓮池城主、鍋島直澄の御殿医であった柴山杢之進の3男に生まれ、 幼くして出家。蓮池の黄檗宗龍津寺の小僧になった。法名は月海。13歳の時、万福寺で修行したのち、全国行脚の旅に出る。57歳になり京へ出て、京の町で 茶道具を担いで茶を売って歩く異色の禅僧だった。売茶翁と呼ばれた。売茶翁が書き残したものはまったくない。親交のあった相国寺の大典による「売茶翁伝」 が月海の唯一の記録である。伽藍の中で形式化した禅宗の姿を批判し、茶を売り、庶民と語り合うことで禅の心を極めようとした。
  伽藍を拒否し、念仏を唱え、全国を歩いた遊行僧、一遍(鎌倉期・時宗開祖)と通じるものがある。
  宗 円が青製煎茶づくりを始めたのは、売茶翁・月海が京の町を歩いていた頃である。ただ、売り歩いた煎茶は中国風の茶色した苦味のあるものだったという。月海 の茶はどこからきたものか、定かでないが、萬福寺からの提供、あるいは15年かけて試作を繰り返した宗円の青製煎茶であったかもしれない。
  月海は喜捨を受けなかった。
  「仏 弟子の世に居るやその命の正邪は心に在り、事跡に在らず。仏徳を誇って世人の喜捨を煩わせるのは私の志とは異なる」と、いい、売り茶で生計をたてたが、売 る茶の収入はないに等しかった。「清風」の茶旗を風になびかせ、看板では「茶銭は黄金百鎰よりも半文銭まではくれしだい ただ飲みも勝手 ただよりはまけ もうさず」と、売り歩いた。
  70歳でいったん、故郷に帰り、還俗して高遊外と号した。再び都に戻った遊外は81歳まで茶を売り続けた。永谷宗円が青製煎茶を完成させた4年後、高遊外は宇治田原の宗円宅を訪ね、1泊して茶について語り合ったというが、この時、宗円の煎じた茶は、まさに幻の銘茶であった。
  高遊外は大典、池大雅若冲らと親交を結ぶが、大典から自伝の執筆を勧められても、相手にしなかった。奇才画家、若冲描く売茶翁の肖像画は、清貧を貫いた生涯を語って余りある。
           
  今年は高遊外没後250年にあたり、佐賀では記念行事が開かれた。蓮池にはゆかりの龍津寺の庵や高遊外の父の墓地があり、売茶翁記念茶も売り出されたと聞いた。
           売茶翁道具
  ところで鍋島藩では高遊外の時代に有名な山本常朝の「葉隠」口伝が本になっている。遊外が51歳の頃で、京へ出る数年前だ。当初、藩は発禁にしたというか ら、誰もが読めたかはわからない。朱子学批判の内容に藩はためらったのだろう。武士の規律は緩み、忠義を問い直す意味もあったと、私は理解しているが、泰 平の世は武士ばかりか禅寺、茶の湯においても形式が優先され、心を見失っていた。同じ時期の鍋島藩で時代を問う人物が登場し、一方は武士道を語り、もう一 人は故郷の禅寺を離れ、京で奇人と呼ばれなお中国の詩人の「清風颯颯」の旗を掲げ、煎茶道を拓いた。この偶然の重なりに興奮すら覚える。都の片隅、嵐山で 売る香り高き一杯の茶は、茶の湯への痛烈な批判がこもっていた。ちなみに鍋島藩の茶は西本願寺につながる薮内流が藩の茶指南。薮内流は利休、織部の侘び、 さびを受け継ぎ、当時、富裕層を受け入れた千家三家の茶の湯には批判的で距離を置いていた。
  肥 前の国、佐賀は古くは栄西背振山、茶どころ嬉野は隠元より前の15世紀に中国渡来の釜炒りによる煎茶が生産され、今日も技法が息づいている土地だ。釜炒 り茶というのは、蒸篭で蒸す代わりに釜で炒り、急須で茶の葉を煮出すもので、中国はこの製法が大半である。嬉野には樹齢400年の茶の木があり、釜炒り伝 来の頃の木として天然記念物の指定を受けている。
           嬉野茶樹
  嬉 野の釜炒り茶とほぼ似た年代に福岡・筑紫平野にも中国の煎茶製法が伝わる。明から帰国の霊厳寺住職、栄林周禅が地元の庄屋に教え、農家で細々ながら、茶を 煎じて飲むことが始まったという。江戸時代には宇治から宗円開発の青製煎茶工法が伝わり、改良を加えて明治には本格的に産地に名乗りをあげた。八女茶の統 一ブランドは大正時代になってから。八女茶はコクと甘みが特徴で、朝霧が斜面を覆い、日光をさえぎることで天然の玉露を生み、いまや全国一の玉露生産高を 誇る。
  舞台は熊本に移る。熊本・泉町は宮崎の椎葉に接する平家の落人の伝承がある秘境五家庄、山の里。熊本空港から国道443を1時 間走ると、集落の入り口がある。ここでも釜炒り茶が健在だ。傾斜釜ではなく泉の釜は平炒りである。炒って揉む青柳茶は玉緑茶といい、まろやかな香気をかぎ ながら、かきこむ名物が釜茶漬け。焼きおにぎりの上に茶をかけて食べる風味は、ここでしか味わえない。釜炒りの青柳はもはや1軒のみになった。
  九州の山間部には釜炒りの茶が点在する。採算にあわない技法は本州ではなじまないからだ。
  四 国・徳島には貴重品になった阿波晩茶がある。番茶ではない。7月の茶を摘み、これを茹でて、10日前後、桶に漬け、天日干しにするが、桶で乳酸菌により醗 酵するため、酸味が加わり、独特の味になる。四国の山間部ではどの家でも晩茶つくりが普通であったが、いまでは徳島の相生周辺、高知の大豊村では碁石茶と して残り、消え行く山里の食文化を守っている。
  日 本全国、茶のない県はない。北限は秋田の檜山茶から鹿児島の知覧・頴茶、沖縄は阿波茶と南北に産地は広がる。東京の世田谷にも茶園があった。標高のある川 沿いの山斜面、丘陵地、日当たりがよく、朝霧の出る立地が茶の味に関係するといわれ、茶所はこの条件にあった地域が多い。どこの茶が銘茶であるか。各人の 好みで評価はわかれるが、古くから三大銘茶は静岡、宇治、狭山(埼玉)、5大銘茶には静岡の川根、本山、宇治、滋賀県の朝宮の名があがる。歌には色の静 岡、香りの宇治、味は狭山とあり、滋賀県では、「宇治は茶所、茶は政所(まんどころ)、娘やるのは縁所」の歌にある鈴鹿山脈麓の政所茶が希少品として隠れ た人気である。政所茶はまだ寺の小僧だった石田三成がたまたま立ち寄った長浜城主秀吉に献じて以来、秀吉が好んだという三献茶で名高い。
  今 年も残り少なくなった。最後の喫茶の舞台は正月を前に京都・東山の六波羅蜜寺。栄華を誇った平家ゆかりの地はNHKの平清盛でにぎわい、幕を閉じる。ここ の初詣は大福茶。平安期に空也上人が疫病に苦しむ人たちに茶を振舞った故事によるもので昆布と小梅のはいった茶は、正月、新年の祝う家庭の銘茶でもある。

 メモ  お茶の価格。味とは関係のない市場の人気を参考までに紹介する。品評会で最高値は静岡産の手もみの煎茶で300㌘112万円。中国では世界遺産の岩 場の茶樹からとったウーロン茶は20㌘287万円の値がついたとか。日本の新茶の初市のご祝儀相場は宇治茶の最高値が1㌔14万円、八女茶は10万円、静 岡で33年連続で最高値の両河内産が8万8千円、嬉野茶3万5千円となっている。

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