第137回 祇園祭 雷鳴とどろかせてコンチキチン

  しめしめ、梅雨明けも近い。京の町を歩いてみたくなった。京の町の変貌はすさまじい。といってもひと頃のようにビルが乱立しているわけでない。中京あたりの 町屋が飲食店やみやげもの店に模様変えしている。かつてウナギの寝床の路地の家がそろってお洒落な店に衣変え、その中に必ず1軒か2軒の赤ちょうちん、古暖簾ががんばっている。

  前の祭(本祭17日)と後の祭(還幸祭24日)が復活していらい7月は祇園祭一色になる。従来は宵山、鉾巡行が観光の目玉であったが、後祭の神輿洗いなどの祇園祭の神事に観光 の目が注がれるようになった。四条大橋から鴨川の水をくみ上げ、神輿を清める祭の締めを見届けると、なぜかほっとする。平安から続く厄除けの儀式だ。

     

  空もようが怪しくなり、雷鳴とあわせてバタバタとにわか雨。祇園祭の頃は梅雨末期にぶつかり、夕立ちが定番だ。赤ちょうちんの軒先を借りて雨宿り。中京の 変遷を瓦屋根を数えながら、思い起こした。中京は呉服の卸、販売の店が多く、なかでも南北の室町筋はずいーと暖簾が揺れている。問屋町の入れ変わりははげ しく、京のあいさつ「相変わりませず」は日々平穏をあいさつに込める商いの言葉。よくいう3代続く家は数少ない。

  室町の変遷が顕著になったのはバブル期。郊外に本宅を構え、店は商売のみ。夜間は無人になる。祇園祭の存続にも影響を与え、さらに店を壊してビルにした。俗にペンシルビルという愛想のない、ひょろ長い建物。京都市も重い腰をあげて「京都の町家景観を守れ」と、市民運動の後ろから旗振った。

  京の町は不思議なところで京都市内 でも鴨川西から堀川通、御所から五条通までがいわゆる京町衆で、町の中に住む市民は「先の戦争で家が焼け、やっと落ち着きましたんですえ」と、うちわを仰 ぐ。よそさんにはない苦労したという言葉に誇りがにじむのも京都ならではである。碁盤目のなんの変哲もない町に各付けが、残っている。真ん中のプライドは そら高い。外のものが顔をしかめるほどだ。付き合いにしても真ん中と上、下の町では異なる。

  例えば祇園祭。5月になると、上の家から上御霊、下御霊神社の例祭の進物品が中京に届く。いまは略式のところも多いが、かつては鯖寿司だった。親戚から届 く鯖寿司を食べ比べて、話を咲かせるのも祭の楽しみだった。「あそこの嫁は料理がうまい」などと味評定をするから上の家は鯖寿司に丹精こめた。祇園祭は中 の家はハモ寿司のお返しが相場だ。ところがいまや鯖もさることながらハモ価格は高級魚。しかも、供給地の淡路の紀淡海峡のハモ水揚げが急激に減少して韓国 産や中国産のシェアが上昇、「うちのハモは淡路から」というブブランド自慢ができなくなっている。ハモはもとより鯖も仕出し屋の世話になる交換の意味は薄 らいでいる。

  中京の鱧の老舗「堺萬」。町屋の一角に軒をつらね、見逃す構えだ。ここは鱧専門で定評があり、価格も頃合いを守っている。私はここの主人からワサビで食べる刺身の味わいを教わった。主人は疲れたとき、これをたべるに限るという。鱧は淡路のものをつかう。

  町屋の前で立ち話。家の中にはいると改まるが、立ち話は、意外にはずむ。

  「中京のおうちは淡路の業者が決まっていてブリキカンにいれた鱧を家の前に置いておくと、仕出し屋が回収して調理、家へ届けるシステム。それを鯖寿司のお礼に上の家へ相変わりませずというて配りますのや」

  「進物品は双方の負担が同じなのが一番どす。高ければいいものではおへん。受け取る側の気持ちを汲まんとあきません。その点のこの町はようしたもので、進物品の交流の歴史がありますさかい。いままでそれに従ってきましたが、ここへきて変えるおうちもおおなりました」

  「相手さんの家が進物品をやめれば、うちもやめます」

  きわめて合理的である。商売の浮き沈みの激しい京町家らしい。まして「御変わりおへんか」と、問い合わせたりはしない。町家の交際における矜持といえる。他所から町屋に引っ越してきた新人はこのあたりの機微がわからない。付き合いもほどほどならいいが、溶け込むのを急ぎ、深入りすぎていやな顔をされる。

  町内の冠婚葬祭の序列、とくに葬儀の序列は親代々から決まり事。しかし、世代も変わり、いつか葬儀場の到着順になるだろう。ところが祇園町はこの序列、伝統を守り、これができないと、受け入れてはもらえない。

  ある女将は「順番の前の家さえ覚えておけば、まずまちがいおへん」と、祇園のしきたりの重みをいう。町屋の伝統が祇園に根づいたともいえる。

  錦小路。通りのなかほどに卸し専門の魚屋がある。客は料理店。魚の目利きにかけてはこの店の店員にかなう料理人はまれだ。

  この店の人気商品が鱧の骨。骨切りした骨を並べるが、あっという間になくなる。

  「ようしってはる。これで吸い物の出しをとり、鍋にすると最高でっせ。高いものおいしいに決まっている。安くてしかも精の付く旬の味ならこれ鱧の骨。うち は料理屋相手と思われれるのはしょうがなないが、奥さんたち相手の商いも忘れてません。祇園さんは魚屋の初心に帰るとき」

  京の伝統の深さはこんな一言にも顔をのぞかせる。魚屋が町の風味を失えばデパ地下でしかない。祇園祭の京をあれやこれや考え歩くのは刺激的で楽しい。優れた推理小説の舞台に似ている。むしろそれ以上にスリリングである。

  前祭の23の鉾は宵山の14日までにそろい、長刀鉾と四条室町は12日が曳き初めだ。

  後祭は24日に橋弁景山など10基が巡行して祭の幕を閉じる。じりじり照り付ける夏の日を避けて四条小橋北の通りを歩く。狭い露地の中に勤王志士と長州藩とのつなぎ役、枡屋喜右衛門の店があった。黒田藩の御用達で九州、長州の藩邸に出入り、つなぎの密偵をしていた本名は古高俊太郎。古高は武器の準備など長州藩との関係が深く、新選組に勾留され、拷問を受けた古高救出のため、池田屋で謀議したのが事件の背景にある。

     

  店はその後、代替わりして和食店になっている。店のそばに古高遭難の碑が立つ。古高逮捕は動乱の幕開けになり、池田屋事件禁門の変に発展した。枡屋は当 然、台替わりして現在は和食の店。汁もの専門が売りで、白みそ汁、焼き魚の定食はうまい。天井をきょろきょろながめながら、みそ汁はさすがに濃厚だ。歴史 のホコリがまじる京の味だ。

   

第136回  稀有なJR鉄道の飛び地、城端線をゆく

  〜合掌集落の生活を支えた絹織物の門前町


  冬、雪に閉ざされた白川郷はじめ五箇山の合掌集落が江戸、明治、大正と生き延びた理由は合掌集落を歩いた だけでは理解できない。白川郷を歩いてまず感じた。大家族が冬を過ごしてくらすには、食料など生活物資のストックなしには成り立たない自然環境である。北 山の炭焼き集落との違いだ。集落を支えた経済交流、支援する町の存在ぬきには語れない。その役割を担ったのが五箇山の入口にあたるのが城端(じょうばな)である。

  白川郷からバスで小一時間の距離。歩けば1日かかるだろう。江戸期は1泊 2日の道のりだ。五箇山の生糸は城端に運ばれ、絹製品になって加賀藩に上納された。往来の困難の道を城端商人が通い、その交易で財をなした。商人らは五箇 山貸しと呼ばれた商いで合掌集落の住人と結ばれ、秋に生活資金の前貸しをして冬の生活費を提供し、商人らの城端の家には五箇山住民らの泊まる部屋、ふとん もあった。

  城端山田川と池川に挟まれた段丘の地形の上に町が東西に延びている。風の盆の八尾に似た地形だ。舌状の台 地は古くから城ケ鼻と呼ばれ、山田川の北には高岡を起点とするJR西日本城端線の終点の城端がある。明治30年、中越鉄道の路線として開業、その後、国鉄 が経営し、民営化でJR西日本の飛び地路線になった。飛び地線は大湊、七尾、八戸の計4線しかない。

 高岡から城端30キロ㍍の単線に14の駅がある。終点の向こうは山と川、田園が広がる。鉄道マニアは行き止 まりの駅は夜行で着くのが一番というが、確かに哀愁と寂寥感が足元からしのびより、旅のロマンに浸れるものの、やはり暗い。ここは朝の駅とまちあるきを楽 しむことにした。
     

  駅の向こうは五箇山、川、田園の風景がひろがり、行き止まりの駅とは思えない奥行きを感じる。というのも五箇山合掌集落と交流の歴史が浄土真宗大谷派東本願寺)の名刹、善徳寺の門前町としての隆盛に溶け込み、風格のある町を築いた。

  狭い道、折れ曲がった坂、石積の上の土蔵は下見板を打ち付け、漆喰の扉で固めている。城端のランドマークに あたる善徳寺は中心部に位置し、元は戦国期に城端を支配していた豪族荒木氏から土地、建物の寄進を受け、蓮如が開基した。一向宗一揆の拠点になり、織田信 長との石山本願寺合戦では北陸門徒の力を信長に見せつけ、以来、北陸真宗門徒の信仰を集めた。城端別院の名がある。江戸時代には城端発展とともに寺勢は増 し、越中触頭(ふれがしら、頭寺)役になった。城郭を思わす豪壮な山門は、彫刻を施し、火災を経験していないため、貴重な文書が残っている。

 五箇山街道の旧本通り、坡場の坂は豪商をしのぶ 屋敷、蔵が残っている。火災や建て替えでかつての町並みは途切れているが、随所に江戸時代、加賀と五箇山の交易基地で栄えた建築が出迎え、合掌集落を思い 浮かべてはるかなるロマンにひたる。豪商の土蔵を結んだ蔵回廊は民俗資料館でもある。5月の曳山祭は6町の神像が乗り、全国の曳山屈指の豪華絢爛の絵巻。 曳山には庵屋台がつき、京都祇園の一力茶屋、江戸吉原の料亭を模して贅を尽くし、城端の経済力を見せつける。土地の人は「夢を曳く」というが、これほど曳 山祭りの心をいいあてた言葉はない。 

     
     

  五箇山の生糸は城端で絹に織りあげられ、加賀絹のブランド名で京へ運ばれた。

  城端の半分以上の家が絹織物に関係し、坂のある町に機の音が聞こえない日はなかった。天保年間にひとりの少年がこの町から京へのぼり、西陣で織物業を興し た。川島織物創業者川島甚兵衛。染織から美術工芸の分野で定評のある同社は五箇山城端―京の絹の道につながる。この町には新町の地名がある。五箇山から移住した住民が居を構えたところで、住民らは五箇山のむぎや節を踊って故郷をしのんだという。戦後になり、町の行事に発展し、曳山とともに城端の名物行事になった。むぎや節には平家落人の伝承があり、歌詞にはこうある。

   〽むぎや菜種は2年で刈るが、麻は刈られよか半土曜に 浪の屋島を遠くのがれきて
   薪にこるてふ深山辺に 烏帽子狩衣脱ぎうちすてて いまは越路の杣刀

  麦や菜種は2年 の命ながら麻はわずか半年の短い命と平家滅亡後、落ち延びた歴史を唄にしている。合掌集落は江戸期に生まれ、そのはるか昔は伝承の世界であるため、平家落 武者が五箇山のルーツとする見方は推測でしかない。戦国期にここで火薬の原料の硝煙づくりに携わった住民がいたことは文献にあり、この住民が平家伝説につ ながる可能生はある。ただ加賀藩五箇山流刑地として政治犯などを送り込んでいる。平家と流刑人、さらには監督の武士らと原住民が融合して暮らした陸の 孤島、五箇山にむぎや節は広まった。いまではおわら節、こきりこ節とともに富山三大民謡に指定されている。

  早いテンポと哀調のあるふしまわしのルーツはなんと 佐賀県唐津沖の馬渡(まだら)島の漁師唄といい、日本海を北上して能登半島にもたらされた。明治の宴席の祝儀唄「めでためでたの若松さん」で知られるあの 歌である。地元砺波高校の体育祭では全校生徒が伝承のむぎや節を踊り、地元民の喝采を浴びる。山分け入り、雪に閉ざされた山奥の地の春、住民らは白から緑 に模様替えした風景の中で歌い、踊った。

  まち歩きを楽しんだあとは、今回の旅の目的である城端線の終着駅に 向かった。一日の乗降客は300人余の駅はひっそりしている。合掌集落の世界遺産指定でバス便が各地から運行され、かつては冬場は五箇山と結び唯一の鉄道 であったが、いまやバスの後塵を拝している。それでも車窓の風景を求める鉄道フアンにとって人気路線のひとつ。キハでゆく砺波平野はまことにのどかで、乗 客同士の会話もはずむ。高岡まで1時間の汽車の旅は退屈しない。 

  明治30年5月、黒田仮停車場―福野間で開業、10月には城端駅ができて翌年、全面開通した。城端の絹製品搬送の比重が高いものの、五箇山の住民にとって町といえば城端しかなかった山奥に高岡の風を運び込んだ。

  近江鉄道でも経験したが、城端線鳴り物入りではしる。ガタン、ゴットン、チンチンと線路の継ぎ目がメロー デーを奏で、これを聞きにくるマニアもいる。沿線には高校が散在しているため、通学の足として欠かせない青春路線である。朝、夕にはにぎやかな笑い声が車 内にひびき、あの鉄路ガタン、ゴトンとともに城端線鉄路音楽隊になる。赤字路線の悩みも朝夕の音楽がふっ飛ばしているのだろう。

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第135回 世界遺産 白川郷合掌集落を歩く

〜エキゾチックでクラシックな茅葺の里〜

 白川郷は外人観光客の人気スポットである。爆買い観光でなく合掌造り観光は日本文化を訪ねる心の旅といえる。外人観光客からすればエキゾチックジャパンにほかならないが、この合掌造りの里を世界に紹介したのはドイツ人の建築家ブルーノ・タウトである。昭和10年5月、白川村に足を踏み入れたタウトの感想はあまりにも有名である。世界遺産申請にも引用された。

 <ここの景色は日本的でない。少なくとも私がかつてみたことのない風景だ。これはスイスかさもなくばスイスの幻想だ>

 日本の農民は世界共通語を話さないけれども住居を通じて語っている、と称賛した。

 関西の中学生修学旅行先に白川郷が選ばれるのも世界文化遺産に指定による教育効果とあいまって、北海道と並ぶ体験型観光の魅力のほかに、日本人からみてもエキゾチックな風景であるためだろう。

 西に白山連峰、東に飛騨高地に挟まれた白川郷烏帽子岳(標高1675メートル)周辺を水源にして富山湾にそそぐ荘川の上流に点在した集落であった。世界遺産の萩町はかつての合掌集落のごく一部にすぎない。江戸期には荘川、白川、清見村42ケ村を総称していた。冬には季節風日本海をわたり、豪雪をもたらし、合掌集落は雪に埋もれた。住民は大家族制の下、かやぶきの三角形の屋根で囲われた家で春を待った。 

 建築家の平山忠治は現代建築のなかでも民家に徹底的に取り組み、戦後の建築写真のスタイルを確立した。平山は昭和32年、飛騨白川の峠越えで合掌集落を目にしてショックを受けた。巨大さとともに農家の屋根に疾走するイノシシを見た。以来、多くのカメラマンが破風という建築様式の屋根にイノシシの姿を求め、白川にやってきた。

 5月は白川郷の雪が溶け、新緑が花とともに一気にやってくる。GW明けが桜の季節になる。いまでこそ押すな押すなのにぎわいになる白川郷も高度成長期の60年代70年にかけて過疎化が進行した。豪雪が引き金になり、離村が相次ぐ。挙家離村のはじまりは中国山地が著名であるが、実は京都北山の八丁集落が60年代に全国の先鞭をつけて姿を消している。北山歩きの目的地にもなった廃村八丁。豪雪と病人が6戸の絆を切った。

  白川郷はやや遅れて過疎が始まった。白川郷の風景を大きく変えたのは1963年に竣工した御母衣ダムである。牛首地区の南の上流にできた東洋一のロック フィル・ダム。360戸が水没した。ブルーノ・タウトが見た合掌集落は湖の底に眠る。まさに「スイスの幻想」になった。ダムと道路の開発は荘川流域を変 え、合掌集落は保存の試練に直面した。ダム特需の都会の風は、大家族制の絆をゆるめ、挙家離村が進行する。京都に近い北山の集落が過疎に見舞われることが 早かったのも、都市の風が早く吹いていたからだ。荘川沿いの23地区のうち、9地区が姿を消し、人が住むのは10数集落に減った。

 建築家、写真家が合掌家屋を求めて、白川を訪れるブームが起きた。SLにあこがれる郷愁もあったにちがいない。写真集が手元にある。フリーカメラマンが25 年かけて撮った廃村の歴史は、北山の過疎を取材した経験のある私には、廃村の郷愁よりも人のすまない家の荒涼、不気味さを思いおこさせる。

 萩町の北東4キロ上流の牛首。67年(昭和41)、廃村になった。14戸76人が暮らしていた牛首地区の廃屋、小学校の写真は、風に向かうイノシシでなく、うずくまるけものたちの姿を思わせた。 

 かつては岐阜から富山の国道156号線が関西から道路アクセスになっていたが、いまでは名古屋、金沢、富山からのバス便、高山から日帰りの観光バスが運行していて観光アクセスは格段に良くなった。秘境のイメージはもはやない。白川郷のメインは世界遺産の荻町周辺に集まり、屋号の民宿が軒をつらねている。

 白川郷23集落のひとつにすぎなかった荻町が合掌建築の代表になったのは町並み保存運動の展開である。荻町は どちらかといえば大家族制の家はなかった。それがブーノ・タウトの目を引かなかった理由になる。萩町の観光スポットの上町(かんまち)の三棟の合掌造りは 萩のNO1の撮影場所として名高い。ここを見ずして萩を語るなというぐらい観光名所である。ところがもともとここにあったのではなく、70年代に移築され た家だ。

 5月の田植え時期になると、田んぼの水に逆さ家が映り、ため息がでる美しさだ。

 高山方面から萩町にはいって最初の家のため、観光客だけでなく住民も外から家に帰ってきたやすらぎを提供する。有家ケ原集落の「そらきたまごすけ」という北さんの家は「基多の庄」と名を代えてレストランになっている。

 大家族の暮らしは萩町でなく御母袋に移築の遠山家からしのぶことができる。40人もの家族が住み、養蚕や農作業で暮らしをたてた家は民俗資料館として保存されている。白川村の 人間の特徴は細面で鼻筋高く、頭髪が薄い。額が広く髪が濃く、骨格も太いという二つに分類される、と、明治の人類学者は書いている。いわゆる男前、美人の里だ。ここでの大家族制は、40人のうち、夫婦は家長と長男のみで、次男以下の男は他家の未婚の娘のもとに通う「妻どい」形式の結婚形態であった。「妻ど い」夫婦の子供は母親の家で育てられ、戸籍上は私生児となった。

 この大家族制は一部の地区のみで萩町にはなかった。山に囲まれた狭い土地で養蚕を続けるためのいわば生活の知恵が生んだ家族制である。

 合掌家屋の成り立ちは不明だ。白山信仰の白川の地名は12世紀半ばにでてくるが家屋の形は定かでない。建築家の川添登は縄文の竪穴住居から古代の大家族住 居、中世の豪族屋敷、近世の養蚕農家の伝統と発展により生まれ、西日本にはない中部山岳地帯民家の特色を備えていると、指摘した。冬の豪雪も急勾配の屋根 を生んだ。しかし、江戸期前の形は謎めいている。遠山家からはるか昔をたぐりよせる合掌造りのロマンは、ここを訪れる観光客を不思議な世界に導く。ある人 には先祖の集まりであったり、牛や馬のいた大正、昭和の家族との団らんであったりする。

 去るときの観光客は決まって合掌の家を名残おしげに振り返り、さわやかな笑顔をおくる。またくるよ、は帰りのあいさつだ。

 御母袋ダムの道路沿いに荘川桜の木札が立っている。ダムで水没したエドヒガンサクラ450本のうちの2本、 ここに移植した。ダム建設に対して荘川、中野地区の住民は反対運動を展開した。先頭に立ったのは中野地区の名家若山家の妻若山芳枝であった。先祖から受け 継いだ家をダムごときにつぶされてたまるか。東京へ陳情の途中で見た都会のネオンサインに腹をたてた。あんな無駄なものための電気はいらん。運動は「守る 会」から「死守会」に名を変え、電源開発公社と対峙する。

 電源開発公社の総裁高崎達之介は、住民との対話の姿勢を最後までくずさず、説得した。当時の建設省のダム工事は強制代執行による禍根を地域に残しているが、 御母衣では批判されても、高崎と住民代表の間に情が通っていた。人間の絆。合掌屋根を地域総出で吹き替える「結(ゆい)」の伝統。助け合わないと生きてい けない歴史が集団離村を決断させた。

 サクラの移築は水没の前の記念碑の意味もあったのだろう。樹齢450年のサクラは移築による宙ずりにも耐え、ダムそばに根をはった。住民のひとりは芽をだし たサクラの木を抱き、泣き続けたという。今年もサクラが咲いた。さくら吹雪は360戸の眠るダムの水面に降り注ぐ鎮花、やすらいの花である。 

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第134回 王政復古150年続編は木曽馬籠宿から

  島崎藤村が描いた「夜明け前」をゆく〜

  王政復古150年の今年、島崎藤村の大作「夜明け前」が読まれているそうだ。上下4巻もある小説は、はなから敬遠して全巻を読み通したことはなかった。最初の「木曽路は山の中」から馬籠の紹介まで「序章」に目を通して読んだ気になっていた。

 時間に余裕があり、若い頃よりも歴史に興味を持ったいま、『夜明け前』は恰好の日々の友である。

  *(写真1)


  序章の木曽路紹介 が素晴らしい。テンポ、描写とも中山道に誘い込む。いつしか、木曽路を歩いていた。江戸まで中山道83里、京まで60里の木曽11宿を藤村は『あるところ は岨づたいにいく崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である』と、冒頭に紹介した。11 宿の最初が馬籠である。藤村が生まれ育った宿場だ。

  昭 和4年(1929)、金融恐慌のさなか、藤村の大作『夜明け前』は世にでた。馬籠を舞台に歴史の定点観測ともいえる手法で黒船来航から明治維新までの宿場 の庄屋と馬籠宿を描いた。雑誌「中央公論」に7年にわたり、連載された。藤村は56歳。モデルは藤村の父、島崎正樹である。文庫本4冊に収まった大作が江 戸や京、幕末維新の城下でない、街道宿であることも異色の設定だ。作品の世界に入る前に、街道を歩いてみたい。

  馬籠は木曽11宿(88キロ)の南端に位置し、美濃境に近い。中山道は近江草津東海道で分岐して美濃、信濃、上野をへて板橋から江戸日本橋に通じている。鉄道は中央線の中津川駅でおりてバス30分で宿場に着く。馬籠は明治28年と大正4年の火災で建物の大半を失い、残った石畳と枡形の上に街並みを復興した。山坂の石畳は風情があるが、旧街道情緒は隣の妻籠宿に一歩ゆずる。

  *(写真2)


  藤村記念館は生家の本陣跡に立ち、藤村の蔵書や原稿などを展示している。小説の主人公青山半蔵は馬籠の本陣・問屋の跡取りに生まれ、家業に閉じこもることな く当時の平田篤胤国学に心酔、維新の激動にまきこまれていく。平田国学本居宣長とともに江戸末期の国学の柱になった学問で、仏教、儒教の外来思想を排除 して日本古来の神道の国づくりを主張した。篤胤は宣長古事記に影響を受け、弟子入りするも後には独自の思想を唱え、宣長派とは対立した。

  神と仏を習合した平安以降の宗教は形骸化し、武士、庶民の心から離れていた。江戸では金で武士になる町民が出てきていた。当然、生活困窮のため、身分、家屋 敷を売る侍もいた。外圧と内圧に揺れる徳川末期において尊王攘夷運動が広まるのは必然ともいえた。武士と庶民の不満が運動の背景に支持あり、平田派国学が 影響を与えたのはいうまでもない。木曽から濃尾にかけては平田国学が隆盛になり、主人公青山半蔵は篤胤の過激ともいうべき思想に染まり、御一新にかけて奔 走する。しかし、古代復帰を夢見た半蔵の願いは新政権でことごとく破られた。

  藤村はこの小説で問いかけたものは評論家松岡正剛が指摘するように「王政復古」を選んだ歴史の本質はなんであったのか、であった。本居宣長が唱えた古代日本 の心はどこかにいき、国家神道が独り歩きして、「脱亜入欧」の文明開化、富国強兵の「御一新」は半蔵の心を揺さぶり続けた。

  大学4年の頃だったと、思うが、都市センターホールで上演の民藝の「夜明け前2部」を見たことがあった。新劇はおろか劇と名のつくものは学芸会以外知らない 門外漢が出かけていった理由はいまだにわからない。滝沢修演じる青山半蔵が終幕近く錯乱状態で登場し、蕗の葉を頭にかぶり、舞台を歩くシーンは克明に覚え ている。

  序章の最後は黒船来航を告げる彦根藩の早飛脚の通過で終わっている。黒船来航から明治維新までの木曽路の物語が幕を開ける。

  馬籠の南隣の宿は妻籠である。行き来するには峠越えをしなくてはならない。昔の人なら苦もなく超えた山は、木立の間に石畳の道に整備されても現代人にはつら い。スポーツの世界でも共通するが、歩いて一汗かくと、体がかるくなる。2時間半の道で妻籠宿。街道宿は人間の歩く頃合いの距離にあわせて設定されてい る。シルクロードのオアシスがラクダで一日の距離ごとにあるのと同じ理屈だ。

 妻籠は小説の青山半蔵の妻、民の生家があった。民は妻籠本陣の娘に生まれ、馬籠へ輿入れしてきた。藤村の初恋の相手おふゆさんの嫁ぎ先は脇本陣奥谷。本陣は 藤村の母ぬいの生家。馬籠が火災で幕末の宿場風情を失ったいま、妻籠は明治以前の宿場街並みを保存する文化遺産である。鉄道や道路の開通に取り残された過 疎の宿が悩んだすえ選んだ古い町並み保存は運動として成功した。夕方、灯のはいる宿場は、江戸の息遣いを取り戻して、よかった、よかったと語りかけてく る。

  江戸末期の木曽路では歴史もまた宿場で休み、土地に足跡を残していた。青山半蔵が外の世界に呼応して活動できる木曽路であった。

  小説(一部上)で隠居した半蔵の父と甥の栄吉の会話が出てくる。街道の空を見上げた父、吉左衛門はこういう。

  『今までお前、参勤交代の諸大名は江戸へ江戸へと向かっていた。それが江戸でなくて京都の方へ参朝するようになったからね。世の中も変わった』

  この会話の時代は松平容保京都守護職になった王政復古の直前の頃になる。

  王政復古の知らせが木曽に届いた日、半蔵らは歓び、宿場を歩いた。『一切の変革はむしろ今後にあろうけど、ともかく今一度、神武の創造へー遠い古代への出発点への立て直しの日がきた』と、草鞋で雪解けの道を踏みしめた。

  *(写真3)


  前半が歴史家からも資料的評価の高い木曽宿の詳細な描写と宿場の人たちの暮らしぶりを追い、そこへ街道をゆく歴史の流れをはめこむ手法。展開の面白さにかけ るが、後半の青山家が傾きはじめ、半蔵の夢が挫折していく維新の流れはドキュメンタリータッチで描かれ、一喜一憂する宿場の人たちにとって王政復古とは何 だったのか、と、問いかけている。木曽の山を民有林にする願いは却下され、落胆する半蔵の心を追う終焉は、歴史小説を離れた人間ドラマになっている。

  学生時代に観た民藝舞台のラストは人間半蔵の姿を鮮やかに浮かびあがらせ、強い印象を受けた。滝沢修の演技によるものと思っていたが、藤村は真っ正直に生き、歴史に翻弄されつつ、ロマンを求めた人間を半蔵に重ねたと、思い直した。

  作中(2部下14章)に気がふれた半蔵が万福寺に向かう途中、子どもたちからもらった蕗の葉をかぶって村人にあう箇所がある。半蔵が寺に火を放ちに前であ る。半蔵は座敷牢にいれられ、死を迎える。半蔵の旧友景蔵は中津川から馬籠に半蔵の病を気にかけてやってきて乱心を知った、藤村は彼の回想と半蔵を師匠と 慕う勝重との会話から、維新、王政復古について問い直している。

  『新国家建設の大業に向かおうとした人たちが互いに呼吸をあわせながら出発した人の心はすくなくとも純粋であった。しかし、維新の純粋性はそう長くつづかなかった。それが3年も続かなかった』

  平安時代からの「和魂漢(洋才)」の思想は政治性の強い「脱亜入欧」に置き換えられ、古代回帰の夢は消えてゆく。富国強兵の日本である。小説のラストが半蔵の墓を掘る鍬(すき)の音で終わっているところも暗示的である。気鋭の評論家篠田一士は「夜明け前」をトルストイの「戦争と平和」の横にいる世界の10大 歴史小説にあげた。カフカプルーストジョイスなどの中に藤村作品を入れた。

  海音寺潮五郎司馬遼太郎など幕末維新を素材にした歴史小説は少なくない。しかし、すべからく上から目線というか、下からのぼる成功物語である。「夜明け 前」は木曽路というなじみのなさと、ヒーロのいない内容などの理由から評価は分かれた。来年は明治維新150年になる。NHKでも民放でもいい。竜馬や新 選組だけでなく藤村の『夜明け前』大河ドラマにする気構えがほしい。

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第133回 維新前夜の幕府本陣、京都黒谷さんは京の隠れ散策路

会津の運命を変えた松平容保京都守護職就任〜

  大政奉還から150年の春、久しぶりに黒谷界隈を歩いた。桜にはまだ早いが、室町時代から花の名所に数えられた地である。京都の人はくろだにさんと、親しみを込めて呼 んでいる。かつては観光客の姿をみかけない散策路として学生たちの人気を集めた。NHK大河ドラマの舞台になり、真如堂から黒谷に足を伸ばす観光客が増え た。黒谷の名がつくが、一帯は丘である。いわれは比叡山黒谷で修行の法然が山をおりてこのあたりに庵を結び、新黒谷の通称が生まれ、浄土宗の広まるにつれ て黒谷の名称が定着した。

  吉田山の南に位置し、歴史の散策路としては、私は最高の評価を惜しまない。界隈の中心が金戒(こんかい)光明寺であるが、町名も黒谷町になっている。法然没後、浄土宗4世恵尋の代で仏殿、御影堂を建立、紫雲山光明寺と称した。

  現在は知恩院清浄華院百万遍知恩寺とともに四カ本山の一角を構成する。岡崎の平安神宮の西北、京都御所から2キロの位置にあり、小高い丘からは京都が一望できる。

  文久2年10月24日午前9時、京都三条大橋に威風堂々の会津藩士一行が到着した。藩主松平容保京都守護職正四位下)に任じられ、この日、入洛した。行 列は三条から黒谷光明寺へ向かった。沿道には京町衆の人垣ができ、会津藩を歓迎した。幕府は桜田門の変後、京都の治安悪化や反幕府運動の拠点化しつつある 京都に所司代や奉行に代わる京都守護職を新設した。

  京都御所の守りは彦根藩の役目で、井伊の赤ぞろえの武勇の藩がにらみをきかしていた。大老井伊直弼暗殺は、幕府の弱体化を一気に進め、京都は暗闘の都と化し た。京都守護の提案は薩摩藩島津久光である。長州とは一線を画す公武合体論者である久光は朝廷から推されて守護職就任し、中央政治を牛耳る野望を持って いた。幕府は薩摩の意向に反対、会津に守護役が回ってきた。東北の藩から京、藩士の移動はもとより、藩主在京になれば、藩の負担はあまりにも大きい。家老 西郷頼母が火中にまき蒔を背負って火消しにおもむくがごとく、会津は火に包まれると強硬に反対した。最後は容保の決断で受諾し、波乱の会津の幕末が幕を開 けた。

  三条から黒谷への道は東海道を後戻りして岡崎から向かうが、疎水べり桜はつぼみ固い。しかし、風は春の気配である。散策の道すがら考えたのは150年前の直 弼暗殺後の幕府の混乱。水戸家も幕府衰退の引き金になるとは予想もしなかっただろう。事態は想定した以上のダメージを与えていた。直弼に代わる人材はその 後の経過からも明らかのように、いないに等しく、期待の徳川慶喜にいたって幕閣を仕切る器でなかった。

  延々と続く行列が目に浮かぶ。王烈行列の籠の中の容保は直弼死後の激変に戸惑いつつ、「京を死場所にするしかない」と決意を固めていた。共する藩士たちの思いも同じだった。 会津藩苦難の道が待っていた。

  聖護院門跡から北東へ進むと、壮大な三門にであう。金戒光明寺。門を額縁にしてのぞむ石段から御影堂の威容は京都の寺にない風景である。家康が城をイメージして建立しただけに、寺と城をあわせた伽藍配置と建築は確かに知恩院とともに異質だ。

  伽藍はなんども火災にあい、江戸時代に復興するも昭和9年に焼失、再建されている。文化財指定は少ないが、御影堂屋根の線の流れは流麗でありながら、迫力が ある。桁行7間、梁間7間、入母屋造り・一重・本瓦の建築。再建の堂宇が焼失前通りでないにしても往時のおもかげをたただよわる構えにみとれる。

  容保が光明寺を仮宿舎に選んだ理由は城構えのほかに御所までの距離、千人の兵が常駐できる52の宿坊があったからだ。その配置も桝形同様に迷路になっていて攻め込むのが容易でなかった。

 石段をのぼり、御影堂前をあおぐ広場の空間は、のびのびしていながら塔頭への道は迷路で歩くものを戸惑わせる。散歩道の条件を備えている。哲学の道はこちら ではないかと、思うほどだ。昔話になるが、入社して京都へ住み着いた新米記者が酒の肴にした京の見どころに黒谷を決まってはいっていた。同志社出身なら若 王子山とともに会津ゆかりの地でもあるため、なじみがあるが、よそものにとっては初めての風景になるだろう。目をひく空間は禅寺で感じる堅苦しさがなく、 自由にあふれていると、語り合ったことを覚えている。

  容保の入洛から半年後、江戸を出発した240人浪士がいた。いずれも郷士でありながら武士よりも武士らしく生きる道を重んじた彼らは京都入りするや容保を訪 ね、京都守護預りの身分で新選組を結成した。容保の側近、手代木直右衛門が治安維持の指揮を執り、新選組を動かした。新選組近藤勇以下の隊士が池田屋事 件で功をあげ、京に新選組ありの名を広めるきっかけをつくった。

  会津藩の士道忠義に共鳴した彼らもまた黒谷に出入り、命を受けて御所警備、京の治安強化の一翼を担った。若干26歳の容保は公家や幕閣にない果断さを持ち合 わせ、東北人の素朴さで朝廷を味方につけた。都から長州を追放し、孝明天皇の信頼は篤く、相談相手の中川宮を通じて公武合体の道をめざしていく。

  容保の京都駐在は5年余になる。足並みのそろわない幕府にあってまさに孤軍奮闘の容保であった。転機は孝明天皇の死。公武合体から倒幕に流れを変えた。ところが将軍徳川慶喜の優柔不断さが拍車をかけ、容保の立場は苦しくなる。

  慶喜を擁護する研究者もいるが、京都における言動は、諸大名を離散させ、兵の数では圧倒した鳥羽・伏見の戦いの敗因になった。病弱の容保は黒谷で寝込むこと が多く、そこでの思案は激しさを増す尊攘勢力との闘いで公武合体をいかに軟着陸させるかであっただろう。容保が江戸城幕閣の注目を集めたきっかけは直弼暗 殺の主力になった水戸家に対する処分に反対したことがあげられる。26歳の若者の言動は、皮肉にも直弼後の京をまかされる会津悲劇の始まりになった。

  『京都守護職始末』は慶喜について「この人ははじめ勇にして後に怯なる性質」と、痛烈に批判している。最初は威勢よく、形勢不利となれば退くのはよく(ある)話であるが、慶喜の場合、重大場面でこの性質をさらけだし、薩長の付け入る隙をつくっている。この言葉は家臣の書いたものでなく容保自身の慶喜評だった。容保は慶喜に見切りをつけ、守護辞任して会津へ帰るチャンスはあった。ただ孝明天皇の説得でいったん、辞めた守護職に復帰している。慶喜は病気を理由に鳥羽・伏見 の戦いの先頭に立って指揮をとることなく大阪から江戸へ脱出した。

  慶喜とたもとを分かっていれば、幕府崩壊しても、会津攻撃は避けられたかもしれない。

  禁門の変鳥羽・伏見の戦いでは会津藩の戦いぶりはめざましく、逃げ腰の幕府軍の主力になった。

  黒谷には戦死した352人の会津藩士が眠っている。会津墓地は光明寺三重塔の石段をのぼっていくと、途中に会津墓地の案内がある。ここの石段からは京都市内が広がり、桜咲く頃には境内の花見も楽しめ、休憩しながら大政奉還から150年の歴史をひもとく格好の場所だ。会津墓地は奥まった一角にあり、西雲院が菩提寺になっている。毎年6月、松平家当主が参列して法要が営まれるが、新島襄の妻八重も生前、欠かさず参列した。八重の弟、山本三郎は鳥羽・伏見で戦死、黒谷墓地に葬られた。

  八重は鳥羽・伏見後の会津籠城のさい、三郎の形見の装束で入城、死を覚悟していた。昭和3年11月の福島新報は西雲院法要の模様と写真を掲載している。この写真に84歳の八重の姿が写っていた。

  西雲院庫裡前にひとりの墓がある。会津小鉄。京都の人なら耳にした侠客の墓。小鉄は大阪生まれ、会津藩中間部屋住みになり、会津藩の入洛とともに京入り、 表向きは口入れ屋、裏家業は密偵会津藩に協力した。鳥羽・伏見の戦いで戦死した藩士の遺体を収容、墓地を守ったという。小鉄こと本名上坂仙吉は会津小鉄会を結成し、京の侠客として明治以降の京の親分だった。現在の指定暴力団会津小鉄会は小鉄から6代目になる。

  黒谷は会津士道、それに心酔した新選組、裏方に徹して容保を盛り立て手足になった侠客という身分の違いをこえたつながりで結ばれていた。容保は国元に送った 親書で「士民貴賤上下なく藩祖以来の徳を受けた面々は力を合わせ、心をひとつに兵を起こさば武威天下に輝く」と、書いている。しかし、容保は藩士たちに知らせず、大阪から慶喜とともに逃げた。死して武士道を守る藩論に反していた。江戸にもどった容保は生涯、過去を語ることはなかった。あの会津籠城の混乱の なかで登城した家老西郷頼母が「容保以下重臣は自刃して責任をとれ」と迫った言葉は容保の胸を射抜いたにちがいない。頼母は守護職に反対して解任されるも 会津戦争には参加、会津戦争では妻子9人が自決している。明治期、東照宮宮司になった容保のそばを最後まで離れず、行動をともにした。

  会津攻撃は官軍の中でも慎重論があった。強硬論を張ったのは木戸孝允桂小五郎)である。寺田屋事件新選組の急襲から逃れた孝允は会津攻撃にこだわった。 江戸城があっけなく開城し、旗本は抵抗なく官軍を受け入れた江戸に比べて、京は戦火をまみえ、会津たるや一族自決など総力戦のすえ、恐山近くに藩ごと配流の苦難に耐えなければならなかった。容保が沈黙を続けたのは、自らの誤りと、身を挺して守ったはずの徳川への怒りもあったに違いない。黒谷に桜吹雪の季節がやってきた。

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第132回  作家藤沢周平の舞台を歩く

〜教え子から学んだ人間と故郷の絆〜

          藤沢周平

  私の住む大津市は 琵琶湖の南に位置し、湖北は北陸並みの大雪に埋もれて、南も一日雪模様の日が続いている。大津市内でも北部はアイスバーンで車の通行に難儀する冬である。 正月以来、こたつ番の読書三昧の生活になった。好きな作家は森鴎外松本清張藤沢周平の三人。最近は葉室麟のシリーズもひいきにしているが、読み返して 飽きないのは前記3人に尽きる。今年は藤沢周平没後20年で企画出版や記念展が予定され、こたつ番には文庫本の山ができている。東北人特有のねばりのある 文章と、透明感ある文体、少年期から青年期の心理描写はいつ読んでも郷愁を誘い、風呂に浸かり、思い起こしている。

  江戸ものもいいが、やはり海坂藩を舞台にした作品は東北の山と町が情感豊かに描かれ、そこでの切ない恋、お家騒動、チャンバラは読んでいてもわくわくする。

  海坂藩は架空の東北譜代藩である。江戸から120里の三方を山に囲まれ、北のみ海に面する設定である。海坂藩が最初に登場する小説は直木賞の『暗殺の年輪』。しかし、さほど印象に残らない。海坂藩と人の描写が鮮やかなのは『蝉しぐれ』である。

  ―城下からさほど遠くない南西の方角に起伏する丘がある。小川はその深い懐から流れ下る水系のひとつーこれが海坂藩紹介のイントロだ。モデルになる町はいうまでもなく郷里の鶴岡市で ある。「海坂」は結核治療のため、静岡に転地していた頃の俳句同人誌名からとっている。大海原は遠く水平線にゆるやかな弧を描く。このあるか無きかの弧を 海坂と呼ぶと、由来を書いている。ただ藩をながれる川は『暗殺の年輪』では北から南へ流れ、『蝉しぐれ』では蛇行して北東へ流れている。これは初期の作品 がふるさととの交遊が中断していたことも関係するのかもしれない。

藤沢周平(本名小菅留治)は昭和2(1927)年、鶴岡市高坂の小菅繁蔵、たきの4子に生まれた。庄内盆地の農家の生家は果樹が豊富で子どもたちを喜ばせた。山形師範学校を卒業後、隣村の村立湯田川中学に赴任、社会、国語を教えた。湯田川温泉はひなびた、情緒ある温泉町で、老舗旅館の「久兵衛」女将、大滝澄子さんは藤沢の教え子である。

  大 滝さんの思い出は「わずか2年でしたが、先生は背が高く、やさしかった。山へ連れていき、詩を読んだり、小説の話をしてくれ、クリスマスパーテイをクラス で開いた。先生とツリーを飾り、美空ひばりの『悲しき口笛』を一緒に歌った」と、地元紙に語っている。旅館には藤沢周平コーナーがあり、藤沢フアンの宿泊 客に人気がある。

  新米先生が残した最高の思い出は放送劇。自らシナリオを書き、生徒一人ひとりのセリフを用意した心配りは先生が去った後も生徒の胸に刻まれた。

  藤沢は集団検診で結核が発覚、入院のため、学校を去った。生徒たちは病気のためと聞かされたが、突然、姿を消した先生の安否を心配した。

  直木賞を受賞した藤沢は湯田川中学を講演のため、訪れた。20年の空白があった。結核で入院、東京、静岡に転地。回復して郷里で復帰のつもりがかなわなかった。病み上がりの男の就職は敬遠された。

  (わずか2年 で病気休職。教え子たちは40近い。私が話だすと女の子たちは顔をおって涙をかくし、私も壇上で絶句した。わたしの姿を見て、声をきくうち、20年前の私 や自分たちのいる光景をありありと、思い出したのではないか。講演のあと、教え子たちに取り囲まれ、「先生、いままでどこにいたのよ」と、なじる子もいて 父帰るの光景。教師冥利に尽きる。忘れていたわけではなく、一人ひとりの顔と声はいつも私の胸の中にあった。しかし、業界紙につとめ、間借りして小さな世 界で自足していたころ、自分の居場所を知らせる気持ちがなかったことは事実である。教え子たちにとってゆくえ不明の先生だった)

  湯田川中学に教師で赴任した当時の心境を『小説の周辺』でこう語っている。

  ―教え子は他人でなく新米先生もこの子たちのためならばなんでもしてやろう、と思ったー

  なんとも牧歌的と いうか、教育の原点、よき時代の教師と子弟の姿が描かれている。子どもたちが再会を涙ながら喜ぶ光景が目に浮かぶ。この講演を機に子どもたちと小菅先生の 交流が始まり、大滝さんの旅館が常宿になった。『蝉しぐれ』の海坂藩城下が架空の藩とは思えぬ息遣いが感じられるのは、再会でふるさとへの思いが深まった こともあるだろう。

 『蝉しぐれ』は藤沢作品の代表作にあげられるが、80年代の作品は秀作ぞろいである。

  私は『風の果て』『秘太刀の骨』『三屋清左衛門残日録』なども好きな作品である。

          

  『蝉しぐれ』は少 年時代の文四郎が蛇にかまれた隣家のおふくの血を吸いだしてやる冒頭シーンや祭り見物に連れていってもらう少女の表情、さらには後半の活劇展開など一気に 読ませる作品だった。『風の果て』は下級武士の子どもが重臣の婿養子になり、藩財政を立て直すも、かつて道場仲間の家老の息子と対立、血なまぐさい政争劇 のすえ実権をにぎる出世物語であるが、サラリーマン社会にそっくりあてはまる構図は業界紙記者の鋭い目が生きている。なかでも山間の新田開発にかけた主人 公のロマンは現代社会が失なって久しいメッセージになっている。

  藤沢周平は故郷へ帰るさい、一人旅を楽しみ、陸羽東線、西線の鈍行で鶴岡へ行っている。仙台の講演を終えて陸羽東線に乗り、小牛田から奥羽山脈を横断する路線は鳴子駅に停車する。この駅で降り、温泉町で ソバを食べ、コーヒーを飲んで次の列車で新庄へ向かった。県境の高原の小さな駅、堺田は、掲示板で芭蕉奥の細道の道筋であることを知った。堺田から一時 間で山峡を抜け、陸羽東線の旅は終わる。鶴岡には西線に乗り換えて庄内盆地にはいる。鶴岡は庄内藩酒井氏14万石の城下である。維新のさい、奥羽越列藩同 盟で会津とともに戦い、官軍ににらまれ、城下の様相は変わった。

  鶴岡市内には城下の名残りがあるものの、小説の海坂藩城下を思い描くのはむつかしい。

  武家屋敷にたたず み、また映画のロケ地を訪ねて小説の主人公たちを重ねていく。庄内藩校致道館は、小説では三省館でおなじみの海坂藩の青春舞台。上級、下級の差別なく遊ん だ藩士の卵は、年とともに進む道の違いを悟る。反発するもの、未来の重役にすりよるものなど生臭くなっていく。しかし、作者の目はひたむきに生きる青春を やさしく見守る。理不尽な仕打ちにめげず、前をむく青春はさわやかだ。藤沢作品の醍醐味だろう。内川(小説の五間川)の流れは、庄内藩の悠久の歴史を映し 出している。

  業界紙記者の藤沢は東京練馬に住んでいた。西武池袋線大泉学園駅の近くにあり、池袋まで30分余の距離である。私も西武練馬に下宿していた。フロ帰りに小さな寿司屋でゲソとギョク(卵焼)でビール1本が最高の贅沢だった。店の主人が「あいよ」といって、いわなくてもにぎってくれた。

  大泉学園は練馬から5つ目の駅になるが、練馬に比べてはかなり田園地帯の印象がある。下宿していた豊玉北の近くの畑から富士山を見た記憶があるから、当時の池袋線東横線などに比べて田舎線、のどかさが漂っていた。藤沢周平はこの都会と田園のはざまが気に入ったようだ。

  晩年の作『海鳴 り』は江戸商家の中年男女のいのちがけの不倫がテーマになっていて、密会の場面ははらはらどきどきする。海坂藩舞台の青春ものは幼馴染の別れと片思いが多 く、添い遂げた設定になっていない。しかし、『海鳴り』は夫、妻を捨てて駆け落ちして幕になる。読み終わり、よかったな、と思った。藤沢はこのラストをど うするか、悩んだようだが、悲劇の心中にするよりは、ふたりを見守る道を選んだ、と、『小説の周辺』で書いている。自分の年齢のせいかもしれないと、理由 を語っているが、私には道徳や規律に縛られない男女の愛情へのまなざしがあると、思えてならない。

  齢に関係なく「ここより永遠に」、という思い入れがふたりの乗った船の後の航跡になってのびている。

 

 

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第131回  大政奉還から150年

〜幕末の暗闘を経て徳川崩壊〜

  徳川幕府天皇から委嘱されていた政治権力を天皇に返す大政奉還から今年は150年を迎える。徳川300年の終焉の年である。慶応3年10月14日 (1867)、京都二条城黒書院で将軍徳川慶喜が諸大名を前に政権返上を表明した。しかし、これですんなりと徳川幕府が崩壊したわけではない。黒船以来の 激動は朝廷、幕府で継続され、暗闘が繰り返された。

 4年前の京都。孝明天皇和宮と家茂婚姻の翌年,文 久3年(1863)、家茂は徳川幕府将軍としては家光以来、二条城にはいった。200年ぶりの将軍上洛に洛中は大騒ぎになった。禁裏御用達の和菓子「虎 屋」主人である黒川光正(名字帯刀許可)は二条城の物品調達係の役人から呼び出しを受けた。なにか粗相があったか、落ち着かぬ思いで城へ出向くと、和菓子 をつくってみよ、と命じられた。いくつかの菓子をつくり、銀一貫5百匁の前払いと二条城の通行証・御門鑑をわたされた。虎屋は天皇と将軍御用達になった。 宮中御用の商人にも次々と声がかかり、商人たちは緊張した。

  中京で店を構えていた近江商人小杉屋元蔵もそのひとりである。元蔵の本家は近江五個荘にあり、桜田門変後に彦根藩領から賀陽宮(中川宮)領に変更され、 元蔵は村と宮家との窓口役を勤めていた。御所内の宮家に出入りを許され、定期的に参内し、朝廷情報の一端を耳にしていた。家茂上洛の行列を見送ったある 日、参内した元蔵は賀陽宮邸を訪れる京都所司代松平容保とでくわした。賀陽宮は反徳川の長州とは一線を画し、池田屋騒動は公武合体派の中心を担う孝明天皇 の相談役である。

 この会談の1か月前、家茂入洛にからむ不可解な事件が近江の膳所藩で起こっていた。膳所藩は彦根藩とともに京の守護役である。都への出入りを監視する。関が 原後、家康が城普請の名人、藤堂高虎に命じて築城させた水城の中に浮かぶ眺めは東海道の名物になった。石高は7万石と、彦根に次ぐ近江の譜代藩。幕末にな ると、勤皇藩士と親幕府藩士が対立し、藩論は揺れた。そこへ家茂入洛にともなう宿泊所に指名され、藩主から藩士までまさに首をかけての対応に追われてい た。

 ところが所司代から急きょ、宿泊とりやめの通達が届き、家老が所司代に呼び出され、藩士の家茂暗殺計画を告げられた。密告したのも藩士である。動転した膳所 藩はことの真偽を確かめることなく関係した藩士の30数名をとらえ、11名を処刑した。会談は処刑直後のため、報告を兼ねていたのだろう。事件の真相はい まだ謎である。膳所藩の長州派はこの事件で姿を消している。

 その年の12月25日、孝明天皇崩御した。家茂も大阪で死亡、徳川慶喜が将軍に座った。元蔵は崩御のため祝いごとのない正月、得意先の今熊野の典侍の実家 で後宮の女官から聞いた話として天皇毒殺をささやかれた。話をした老婆は中山慶子明治天皇生母)の奥女中をつとめ、屋敷を下っていた。京都は隠し事ので きない怖い町である。

 孝明天皇は幕府の開国方針に反対するなど公家まかせでない天皇であった。朝廷内の開国派の太閤鷹司政通の意見を退け、朝廷に波紋を広げた。天皇崩御の死因が 噂になる理由があった。疱瘡の天皇が回復の途次、突然の死去。さらに崩御の公表が死から4日後であったことも憶測を呼ぶ。天然痘による病死が公式発表にな るが、死因をめぐる噂は消えなかった。

 黒幕がいる。誰もが考えたのが岩倉具視である。京都市左京区岩 倉の山麓に「岩倉公幽棲旧居」の案内がかかっている。現在は病院と民家に囲まれた住宅街の趣があるが、近くに実相院門跡があるだけの寒村だった。岩倉は下 級公家の家に生まれ、序列の厳しい朝廷では公の場にでることも、発言もかなわなった。野心家の岩倉は関白・鷹司政通へ歌道入門して知己を得て、出世の足が かりをつくる。朝廷改革の意見書を提出し、人材の育成と実力主義の登用を主張した。

 儀典中心の朝廷が黒船来航で政治の表舞台に立つことになった。外交の条約許可や将軍の任命は本来、天皇の認可が必要であったが、幕府の力が強い時代は建前に すぎず、形式化されていた。ところが幕府求心力の弱体化する幕末には朝廷本来の力を行使すべきという勢力が朝廷内で力を得た。さらに孝明天皇の意向も加わ り、認可にあたり幕府との交渉や朝廷内の意見とりまとめ、天皇に奏申するリーダーが求められた。しかし、公家たちは安穏にひたり、優柔不断だったから、天 皇は岩倉の才気ばしった言動を目にとめ、重用するようになる。さらに異母妹の堀河紀子が後宮に迎えられ、岩倉を後押した結果、名門公家を差し置き、朝議を 動かした。

 岩倉具視は長州、薩摩、幕府がからみあう朝廷にあって、弁舌と交渉術で信頼を得ていく。しかし、尊攘派から幕府寄り、さらに王政復古と立場を変える岩倉は警 戒の目でみられ、名門の後ろ盾のない岩倉は近習職を辞すことになる。さらに蟄居と出家を命じられ、5年間の幽棲生活をよぎなくされた。

 蟄居中に禁門の変が発生、岩倉具視は再び動き出した。幕府寄りから転じて薩摩、長州の和解をとなえ、松平容保と親幕府の実力者賀陽宮を批判して策動するも、追放のまま慶応2年12月の天皇崩御を迎えた。

 12月初旬から風邪気味の天皇は17日になって疱瘡と発表され、15人の医師が昼夜治療にあたった。御典医伊良子光顯の日記によれば、25日、この朝、食欲が 出てご快復と報告してもいいくらいと、記しているが、数時間後、奥から女官が医師の間に駆け込み、「お上が、お上が」と叫んだ。天皇のそばには女官が待 機、医師の御飲薬をお世話した。日記には「天皇は吐血され、お苦しみ。医師の誰もが急性毒物中毒症状」とある。これで決まりのように思えるが、ことは天皇 の死である。4日後の発表は病死になった。

 発表の遅れは疑念を生んだ。疱瘡死因であれば、隠すことはないはずであった。朝廷内には天皇の発言、言動を快く思わなかった公家がいて、一刻も早く天皇の交代を望んでいたからである。

 天皇の世話をする典侍天皇の側室、候補)は長州とつながる高野房子をはじめ、岩倉具視の妹堀河紀子らがいた。高野は家茂との婚姻をいやがる和宮を説得する など後宮の実力者。孝明天皇賀陽宮への手紙で典侍の暗躍をなげいている。病床世話はこの典侍と女官でおこなわれ、薬の御匙と呼ぶ女官が医師の薬を運ん だ。仮に毒を盛るなら典侍、女官しかできない。しかも天皇崩御後、岩倉具視は追放解除になり、宮中に復帰し、禁門の変で所払いの長州藩士も一線に戻った。

 岩倉毒殺説には疑問もある。まず疑われるのは岩倉自身であるからだ。ただ、岩倉は志士たちから変節を嫌われ、天皇の信頼を失しなっていたから、切羽詰まった状況にあったことは確かである。

 孝明天皇の死は、倒幕に流れを変えた。岩倉を中心にした討幕派の暗躍は宮中で始まり、倒幕の密勅がくだされた。この密勅は天皇の直筆、花押もなく、不可解なものと、いわれている。

 大政奉還慶喜のもとで行われた。土佐藩山内容堂の建白を受け入れ、政権を返上するが、幕府のいきづまりを天皇による自ら新体制で主導的役割りを果たす道 の選択だった。岩倉具視薩長倒幕派慶喜の意図を見抜いていた。王政復古の号令から鳥羽伏見の戦いを経て江戸城開城徳川幕府は終わった。

 岩倉具視は復帰すると朝議をリード、皇室に対する疑惑やスキャンダルは封印され、学術的にも死因を論じることはなかった。岩倉具視は明治政府の重鎮として不 動の地位を固めるも、西郷隆盛征韓論を退けたことを機に、力を失い、癌で死去する。余談になるが、岩倉具視の娘極子は戸田侯爵に嫁ぎ、その美貌から鹿鳴 館の華と注目をあびた。

 大政奉還から1年を要して明治になった。明治になり、後宮人事が話題になった。実力者の高野房子が「その権勢自ら後宮を圧し、また皇后の意をくむことなく」という理由で罷免された。孝明天皇の変死の責任をとらせたといえなくもない。典侍は後に廃止された。

 昭和15年、日本医師学会関西支部の席上、京都の産科医で歴史学者の佐伯理一郎は岩倉具視首謀、掘河紀子実行犯説を発表、反響を呼んだ。毒殺、病死の決め手 のないまま、天皇の死因は戦後になって新しい展開をみせる。名城大原口清教授が疱瘡の症状のなかに孝明天皇と似た症状があることを指摘、毒殺説を否定し た。作家の永井路子も小説で病死をとりあげた。

 東山の泉涌寺境内にある孝明天皇御陵。病死が通説の中で、変死説は根強くある。砒素中毒をとなえ、病死説の出血性痘瘡の症例は天然病患者のわずか1%でしかないとゆずらない。明治維新の謎は、150年後のいま、京の山に静かに眠っている。

  
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